第弐章
「ま、大方は抜けねぇだろうが、頑張りな」
「なんだよ、その抜ける訳ないみたいな言い方」
「俺の腕力を持ってしても抜けねえのに、お前のほっそい腕じゃなぁ…常識として、無理じゃねえか?」
「…それって、俺が試す意味あるのか?」
少年のもっともな問いかけに、金蔵はからからと笑って秀丸の頭を肥厚で大きな掌が軽く撫でるように叩く。
「そりゃ、俺には大いに意味があることだ」
「…ふーん」
刀鍛冶として、妖刀と呼ばれた刀の刃を検めたいと言う事なのだろうか。
秀丸はさほど興味もなく話半分で、左手に鞘、右手に柄を持ち、何の気負いも無く左右に引っ張る。
恐らくはピクリとも動かないと思っていた鞘と柄は、カチッと小さな音を立て、左右に開く。
そして、あっさりと秀丸の前に刀身が現れる。
鋭利な光を放つ刀身の腹に描かれた刃紋は細かく波を描く互の目丁字、刃毀れ一つ、曇り一つない。
抜いたからと言って、特に異常もない。
あっさりと刀身が目の前に現れ、秀丸は呆けた顔をする金蔵を見る。
「…抜けたけど?」
「!でかした!」
期待などついぞしなかった金蔵は、我に返った瞬間、その待ち望んだ光景に狂喜したように声を上げた。
刹那、白銀に輝く刀身が黒い霧に包まれ、ゆらゆらと黒い霧が周囲に広がる。
肌にまとわりつく異常な妖気に、秀丸の全身が粟立つ。
「ようやく娑婆か」
刀からゾクリと冷える声がし、秀丸は思わず刀を落とす。
緩やかに黒い霧は人型になり、八尺ほどの男の姿が現れる。
漆黒の長い髪、血の気を失った青白い肌に、相反する朱の唇は酷薄に歪む。
妖麗と称するに相応しい美丈夫は、小さな秀丸を見下ろす。
ただそれだけなのに、秀丸は彼に見目とは相反した異様なおぞましさを感じる。
『我を呼び覚ますから、どのような奴かと思えば、このようなちんちくりんか』
目を瞬き、食い入るように見上げる秀丸は、自分を見下ろす男の頭に二つ突き出たものを見る。
「…角?…お前、鬼っ!?」
驚いて背後に飛びずさった秀丸を追うように、人型をした漆黒の鬼はぴたりと身を寄せるように同じ速度で秀丸の前に近付く。
しげしげと少年を眺める男の双眸にある縦に長い瞳孔は、興味深そうに動く。
長い爪を持った指が秀丸の顔を包むように両頬に触れば、秀丸は息を飲み、相手を睨む。
「お、お前、酒呑童子か」
「我をあのような酒乱と一緒にするでない。先の主が、我につけた名は隠形」
「…おん、ぎょう?」
その名に、ゾクリと身体の奥で冷たいものが震えた。
どこかで聞いたような名を、秀丸が確認するように呟く。
だが、思い出せない。
「そなた、名は?」
気付けば吐息が触れるほど近くに隠形の端正な顔があり、秀丸が硬直する。
とって喰われるのかと秀丸が息を呑めば、麗しい鬼は薄く笑う。
「名を申せ」
「…いやだ…妖に名前を与えちゃ駄目だって、じっちゃんが言った」
怖さで挫けそうになりながら、秀丸は真っ直ぐに鬼を見つめて言葉を返した。
「ならば、この場でお前を取って喰ろうてしまおうか?」
ニヤリと笑い開いた口から長く鋭利な犬歯が覗き、秀丸は本当に喰われてしまうと硬直した。
「さあ、名を申せ」
「…ひ、秀丸」
「ほう?秀丸…偽りではあるまいな?」
「う、嘘なんかつかない。じっちゃんも、村の皆も俺をそう呼ぶ」
訝る相手に、秀丸は震えながらやっとの思いで言葉を絞りだす。
やや納得のいかない表情を見せたまま、隠形鬼はそのままじっと人の子供を見下ろす。
「何故、我を解放した?」
「…解放?刀を抜いたら、お前が勝手に出てきただけだろ」
心底、不思議そうな顔をする秀丸に、隠形はわずかに目を開く。
「刀が鞘から抜けたら、俺に刀をくれるって金蔵殿が言ったから、抜いたんだ」
「金蔵?」
金とも朱ともつかぬ瞳が、ゆっくりと刀匠へと向けられる。
金蔵は視線と共にそこに膝下し、頭を垂れた。
その姿を見た隠形は、禍々しい笑みを浮かべた。
「金鬼か。何時ぶりぞ」
顔を上げた金蔵は、待ち望んだ存在との再会に喜びうち震えた。
「…主が破れ、隠形兄者が封じられてから、もう百年だ」
「そうか。意外に早かったな」
「だが、風と水の奴は離反した」
「あやつらは自由気ままな性故、仕方あるまい」
隠形が金蔵との話に気を逸らしている最中、秀丸は床に落ちた刀を拾い、それを抱えるように持ったまま、そろりと後ずさる。
が、視線は金蔵に向けたまま、隠形は秀丸の腕を掴んで止める。
「!!!」
「気配を殺して逃げようとは、面白い」
よもや捕まるとは思っていなかった秀丸は、全身が凍りつく。
ゆっくりと視線を少年に戻した鬼は、言葉とは裏腹に表情が険しかった。
「不本意なれど、そなたは我を使役する新たな主だ」
「兄者、まさか…」
金蔵が思わずその場から身を乗り出すように立ち上がる。
容貌魁偉な男に、嫌な予感がまとわりついた。
「な、なんだよ、その新たな主って…」
秀丸は相手の男に気押されて、弱腰でそう尋ねる。
「我を封じた奴が我に掛けた呪詛ぞ。我は解放した者を主とし、その者が飽きるまで従属せねばならぬ」
「そんな!あのクソ陰陽師、なんて真似を!」
金蔵が怒りに吠える。
秀丸の方は顔面蒼白状態だ。
「つ、つまり…俺が良いって言うまで、お前は俺に付きまとうのか!?」
「左様」
「お、俺が欲しいのは妖刀だけだ。お前は要らないから、俺にかまうなよ」
その言葉に、隠形の双眸がやや大きく見開かれる。
「ほぉ?小さき主は我に何も望まぬのか」
「いや、俺、主じゃないし…」
「そなたが望めば、富も金も手に入る。無論、邪魔な人間を殺すことも可能と言うのに」
「そんなもん、俺には要らないよ」
「綺麗事よな…お前のその心の中に巣食った、暗澹たる闇は何ぞ?力を欲し、憎しみに駆られるその強い想いは隠せぬぞ」
秀丸は一瞬だけ怯えた表情を見せたが、すぐに相手を正面から睨む。
刹那、腕を掴む隠形の手に力がこもり、秀丸は苦痛に顔を歪めた。
「慾に溺れ、暴を欲せ…さすれば、そなたのその心は満たされよう」
「離せ…俺にかまうな。お前だって、俺に従うのは不本意なんだろ」
「そなたから情けを受ける筋合いはない。それに、我は自由の対価を払ってはおらぬ」
情けなどかけた覚えはない秀丸は、自由だと言ったのに不機嫌な相手の気持ちを量りかねる。
秀丸としては、得体のしれない鬼など連れて歩くのなど御免こうむる。
それでなくとも、妖を相手にしなければならないのに。
「我の気が済むまで、そなたは我の主ぞ」
「はっ!?俺の気が済むまでなんだろっ!?対価だか何だか知らねぇけど、俺はお前に付いてこられても迷惑だ!」
「我の力を知りもせぬまま不要などと罵られては、我の矜持が許さぬ」
「別に、罵ってない!最初から俺が欲しいのは刀の力で、お前じゃないっ!」
「主が嫌でも、その妖刀と我は未だ一心同体ゆえ共にある」
秀丸は困ったように表情を曇らせる。
妖刀は必要。けれど、鬼妖の類と行動するなど絶対に嫌だった。
隠形と、腕の中にある妖刀をちらりと見、秀丸は唇をかみしめる。
「なら妖刀も要らない。他を探す。お前とは一緒に行動しない」
刀をぐいっと、隠形に突き付け、そのまま隠形を引き離す。
一歩後ろに秀丸が下がった瞬間、隠形と金蔵の前から秀丸の姿が一瞬にして消える。
音一つなく、気配さえ残さず、まるで幻の様に。
「き、消えた??」
金蔵が秀丸の居た所まで足を進めて周囲を見渡すが、そこに姿はない。
「逃げた。我と似た力でな…」
そう呟いた兄貴分を金蔵が見やれば、隠形は建物の出入り口に視線を向けていた。
「似た力?でも、あいつ人間だろ?」
「だから面白い…まるであの女のようだ」
新たな獲物を見つけた喜びに満ちた漆黒の鬼の淫靡な笑みに、金蔵は嫌な予感がした。
「金鬼、あ奴を捕えるぞ」
「は?兄者、本気で秀丸を主に据えるつもりなのか?」
隠形はただその顔に歪んだ笑みを浮かべた。それが、彼の答えの全てだった。