01 由衣/異世界の空。
目を覚ますと、まぶしい光に包まれていた。
「三角先輩」
声は真上から。
光の中で、私は誰かに抱き起こされていた。
「大丈夫ですか」
「……なに、が?」
何が大丈夫なの。
――あなたは誰。
まぶしくて、目をはっきりと開けることが出来ない。
先生やクラスメイトが「サンカク」、後輩までが「サンカク先輩」などと呼ぶ中、「みすみ」――とちゃんと呼んでくれる人は久しぶりだった。
学校では校長先生くらいだ。
「誰」
私を先輩と呼ぶのだから、後輩なのはわかる。
「志藤将太です」
――しどうしょうた。
ああ、と思う。
一年の名簿の中に「志藤将太」という名前があったことを思い出す。確か一組で、入学式でも新入生代表で挨拶をした子だ。
それと。
放課後に、話があるからと声をかけられた。
身長は私より少し高く、まっすぐな目をした少年だった。――少年というには大人びた顔立ちだったけど、新入生特有の汚れていない靴に、皺のひとつもない学ラン、光り輝く金色のボタンが微笑ましくて。
私が笑うと、彼は真っ赤な顔をして口を開いたのだ。
「三角先輩! 俺――」
そのあとの言葉を聞く前に、視界が歪んだのを覚えている。
目眩がして身体のバランスが崩れたのを思い出し、立ちくらみを起こしたのだろうと思った。
彼が支えてくれたのだろう。
「ありがとう」
もう大丈夫、と口にし、私は身体を起こそうとして硬直した。
――え?
思わず、すがるように彼の胸元を掴んでいた。
光に慣れてきた私の目は、映るものを把握しようと努めたが、出てきたのはありきたりな言葉だった。
「ここ、どこ」
白い空間だった。
病院のような白い部屋じゃない。霧や靄がかかっているわけでもない。
踵や尻は平面らしきものに触れている感覚があるのに、床がない。壁もない。天井もない。
空間、としか言いようのない場所に私はいた。
「先輩、落ち着いて聞いてください」
逆に、何でそんなに落ち着いていられるの、と問いたくなるほど穏やかな声だった。
彼の声と、熱と、私の上半身を支える力強い腕だけが現実だった。
「ここは、日本じゃありません」
地球じゃないんです。
「異世界です」
――ああ。
その言葉はすんなりと私の中に降りてきて、なぜか驚くよりも納得してしまった。
だって、こんな空間、日本のどこと言われても困る。
あまりにも現実離れしていて、可笑しくなってしまった。
「異世界、ね」
知っているわ。ふふ、と私は微笑んだ。
そんな話を私は知っている。
死んじゃって転生するのよね。それとも、魔王を倒すために召喚されたの?
よくある話なのよ。だって、クラスメイトがよく読んでいるライトノベルはそんな話が多かったもの。
私が気を失っている間、この世界の「神」と話をしたという彼の話を要約すればこうだ。
神は、魔王の復活を前に勇者を召喚したらしい。
ほらね、やっぱり。志藤くんが勇者なの? と聞けば違うと苦笑が返ってきた。
「三ヶ月くらい前に、東中で行方不明になった三年がいたのを覚えていますか」
「ええと、丸川さんとこの長男?」
「そうです。俺の同級生ですが、彼が勇者として召喚されたんです」
「へえ……」
だとしたら、私たちは同じ中学だったということになる。
「その子が勇者?」
「そうです」
あまりにも現実味のない話で、どこから突っ込んだらいいのかわからない。
きっと夢なのだろう。
「その彼が、強すぎるみたいで、無茶がすぎるので何とかしてくれと」
「……」
「このままでは魔王が現れる前に世界の均衡が崩れると」
「…………」
――ん?
意味がよくわからない。
私は瞬いて、瞬いて、瞬いて。
頭が痛くなって目を瞑った。
「どういうこと?」
きっと私の顔はすごく歪んでいたと思う。
魔王を倒すために勇者を召喚したのよね?
その彼が強すぎるから何とかしてくれ?
説明不足にもほどがある。決して私の理解力が低いわけではないはずだ。
「ごめん、立つわ」
私は身体を起こして、彼に手を引かれて立ち上がった。でも、彼の手を離すことが出来ない。
わけのわからない状態で、自分ひとりで立つのは怖い。
彼を見上げれば、笑顔が返ってくる。
力強く、でも痛くない程度に優しく握り返してくれる手。
つながっていて、彼の体温がわかることにホッとして。
「わかるように説明して」
重ねた手に、少しだけ力を入れた。
「丸川はチートすぎたみたいですね」
「チート? チートってなに」
「俺も詳しくは知らないんですが、ゲーム用語です。簡単に言えば、正当な手順ではなく、いきなり特殊な能力を得てゲームを優位に進めるようにプログラムをいじることをいうようですが、三角先輩、ゲームをしたことは?」
「ドラクエのⅢ(スリー)なら、祖父の家でやったことがあるわ」
「ドラクエ……。ゲームボーイですか?」
「ううん、ファミコン」
「…………なるほど」
ごほん、と彼は軽い咳をした。まだあるんですね、と意味不明なことを言う。
「わかりやすく言うと、本来、薬草を10個しか持てないと決められているところを100個持てるようにしてしまうことをチートといいます」
「最初の装備から最強の武器を持てるようにしたり、レベル1で最強の呪文が唱えられたり?」
彼はにっこりと笑った。
「丸川はそんな状態みたいですね。能力の初期値が高く、経験値による技能等の取得も早い。他人の状態を見て変更することも出来るようです。しかも、殺しても死なない」
私は瞬いた。棺おけで運ばれ、教会で復活するんだろうか。
おじいちゃんの家でゲームをしたのは小さい頃なので記憶がおぼろげだ。
「死なないの?」
「死んでも再生するみたいです」
「……そう、すごいわね」
――ん?
私は首をかしげた。
「それって、一度死んだということ?」
「殺してみたけど生き返ってしまったと言っていましたよ」
「……もとの世界に戻したらどうなの」
「戻そうとしたが、戻せないと」
「……神様でしょう」
「さあ、そのあたりは」
彼も困った顔だ。
「神も人なんじゃないですか? だから誤りがある。丸川は魔王のために呼んだ勇者です。魔王を倒すか、勇者が魔王に倒されるかしないと、新しいプログラムが組めないのかもしれません」
「バグって?」
「不具合のことです。つまり、俺たちにデバッグ――修正しろってことかと」
「なんで私たち?」
「さあ……」
ここは異世界だというが、ゲームの中なのだろうか。それとも夢を見ているのか。
彼の言葉を聴いていると、ひどい違和感がある。それはおそらく、彼が落ち着きすぎているから。
「一応、修正できる人間を呼び出したと言っていましたが、自分の手には負えないので、何とかしてほしいと」
「なんとかって……」
私は呆れた。
「神様はどうしたのよ」
「後は頼むと言い残して、それっきり……」
「……」
「反応がありません」
「えええ?」
なにそれ。
私は途方にくれた。
後は頼むって、何。
なんとかしてほしいって、何。
どうすればいいわけ。
何をすればいいわけ。
「神様ってどんな人だったの」
「声しか聞こえませんでしたけど、幼い感じがしました」
「……そう」
神とはそんなものかもしれない。神だから何でも知り、老成しているとは限らない。
神も人も変わらない。ゲームのような世界を創って楽しんでいたけど、自分では手に負えない展開になって慌てたというわけだ。
「呆れるわね」
「三角先輩」
「なあに」
大きなため息をついた私に、失礼しますと口にして、志藤くんは私を囲うように両腕を回してくる。何すんの、と咎める気にならないのは、そこに厭らしさがないからだ。
「とりあえず、世界の情報は得ています。場所を移りましょう。――セットアップ」
彼の言葉に、白い空間が動いた。すうう、と霧が晴れるように色が抜け、一面の白が淡い水色になって、次第に青くなる。
「――!」
いきなり風が吹いて私は目を瞑った。
思わず志藤くんに抱きついてしまう。
ゆっくりと目を開ければ、そこは一面の青空だった。
うわ、と思う。
こんなときなのに――。
――綺麗……!
感動してしまった。
それは地上から見た空の色ではなく、おそらく、飛行機のコックピットから見た空の色。
心地いいくらい清々しい風が、髪や制服のスカートを揺らしている。
――空中にいるの?
それより、彼が口にしたセットアップって、何。
それってパソコンで最初に行う動作よね?
やっぱり夢なの?
ゲームなの?
何が始まるの、と身体を寄せる私の肩を強く抱いて、彼は穏やかに笑って囁いた。
「しっかりつかまっていてください。先輩にもデータをインストールします」
そして、私は額に口付けられた。