テレビと少女
あなたには大切にしている物がありますか?
これは夢だよな。ふと目が覚めた途端、僕の世界に舞い降りた異分子を見つめ、そう自問自答する。
ちゃぶ台の上には中身が温くなった缶ビールとスルメが陳列され、振り返ると薄汚れたシンクとコンロが鈍く白く蛍光灯の灯を反射して光っていた。中学時代に親にせがんで買ってもらって以来、十年来の付き合いになるブラウン管のテレビも健在だったが、深夜のためか砂嵐を映していた。
ここは間違いなく僕の部屋だ。
だけども存在感の大きな異分子は、見慣れたレイアウトに上手く馴染めていないように思えた。ちゃぶ台に覆い被さるようにして、うたた寝していた僕を叩き起こした異分子は、若干不機嫌そうに唇を尖らせる。
「もう、シャキッとしてよね!」
強い口調で叱られた。しかも“見ず知らずの少女”に、だ。
相手はどう見ても、小学生くらいの女の子だ。歳の離れた姉貴の娘が確か同じくらいの体格だったかな。うろ覚えだが、正月に帰った時に「今年で十歳になる」と言っていたと思う。
目が大きくて、くりっとしている。透けるように真っ直ぐな栗色の髪。絵本に出てきそうな女の子だった。
しかし大学を卒業し、さらには就職してまで、こんなことをまさかこんな子どもに叱られるだなんて夢にも思ってもみなかった。
「えっと……君は誰だい?」
覚醒しない頭でも、ごくごく当たり前なことを言ったつもりだ。
僕には少女を拉致して偏愛するような思考の持ち主ではない――と思っている。さらには子どもは愚か妻すらいない僕が、こんな子どもとかかわり合う要素など皆無なのだ。
それなのに少女は、白いフリフリのワンピースの腰に手を当て、呆れるように深い溜め息をついた。
「ねえ、ホントにわかんないの?」
わかるはずがない。わかるなら、こんなことを初めから聞いていない。
少々カチンときたが、ここは大人の対応を心掛けよう。そう、自分に言い聞かせた。
「わからないから聞いているんだ。……お父さんやお母さんは?」
「そう――まあ、いいわ」
こっちは納得していないのだか、話は決着してしまったらしい。これじゃあ会話にならないじゃないか。
「おいおい、人の話は――――」
「最近お酒ばっかりね。栄養もちゃんと摂らないとダメじゃない」
どこから突っ込めばいいのだろうか……。
僕の話を聞かないと思えば、見た目に似合わず、母親みたいなことを言ってくる。
この子は一体僕の何を知っていると言うんだ。
「まあ、彼女もいないし、仕方ないっか」
ずけずけと僕のプライベートにまで踏み込んでくるが、全てが図星なので言い返すことができない。
入社して歓迎されたのも、最初のうちだけだった。あとは残業を押し付けられたり、先輩のコンパに強制で参加させられたり。二流大学出身の僕が苦労の末にたどり着いた会社なので、贅沢も言えず。容姿が平々凡々な上に、人付き合いが苦手なために長続きする恋人もできない。
今の僕にとって、会社と安アパートを行き来するだけが、生活の九十パーセントなのだ。
そんな僕の唯一の娯楽がテレビだった。なんとなく手放せずに、大学の下宿先や今のアパートにも持ってきてしまったテレビ。これだけの時間を他人と共有できていれば、親友と呼べる存在もいただろうと想像する。
そんな僕の視線を感じ取ったのか、目を細め、少女は呆れとも、哀れみともとれない表情を浮かべた。
自分が惨めに思えた。
「あんまりテレビばっかり見ててもダメだよ。テレビって空いている時間を埋めてくれるけど、自分から空いている時間を埋めようとしない人には、面白くないものだからね」
「…………」
言い返す言葉もなかった。たった今考えていることを他人に言われるというのは、ひどく心を抉ってくる。
「でもね……」
落胆する僕を見兼ねてなのか、それともこれまでの話がこの前置きだったのかはわからない。突然声色が柔らかさを帯びた気がした。
反射的に頭を上げる。
血色のいい白い肌は、仄かに桃色に染まっていた。柔らかそうな肉感の頬を吊りあげ、年頃相応の無邪気な笑みを浮かべる彼女の顔が、すぐ傍らにあった。
「誰にも言えないくらいに悩んでいる時に、テレビをつけてごらんよ。案外自分の悩みがちっぽけって感じさせてくれるかもしれないからさ」
空虚で灰色な時間に、色合いが戻っていくような気がした。優しい気持ちが広がっていく。何故だか安心できた。
だけど時間は残酷だ。それは今に始まったことではなく、いつでもだけど、この時ほど恨めしく思ったことはない。
「……ごめんなさい、時間みたいね」
ばつの悪そうな表情を浮かべると彼女は視線を斜め下へと向けた。
次の瞬間、彼女の身体がゆっくりと透けていく。まるで映画のように彼女越しに見える壁が鮮明なものへとなっていく。僕は自分の目を疑う暇もなく、取り繕うように言葉を発した。
「待ってくれよ! 突然目の前に現れて、何者かも言わずに消えていくなんて不公平じゃないか!」
しかし彼女の身体は薄くなっていくばかりだった。
この子も時間の流れに逆らえないのは、なんとなく内心では気づいていた。遠くに引っ越してしまう友達を見送るのって、こんな気持ちなのかな? と、無意味に感傷に浸る自分がいる。でもそれと同居して、認めたくないと思う自分もいる。
整理できない感情は行き場を無くし、僕の中で高ぶっていく。
消えていく名前も知らない女の子を引き留めようと僕は躍起になって、二流大卒の頭脳を働かせる。
「あなたはわたしのことを知ってるじゃない――不公平なんかじゃないよ」
彼女は儚げにも微笑んでいた。薄らいでいく少女の目尻から、一筋の涙が流れ落ちるのを僕は見ているしかできなかった。
やがて世界は光を帯びていく。
「今まで大事にしてくれてありがとう、そして……さようなら――――」
*
ふと目が覚めると、いつも通りの僕の部屋だった。
殺風景なワンルームには、南向きのベランダから僅かに朝日が差し込んできている。もちろん部屋には、あの女の子もいない。消した記憶もないのにテレビはしんと静まり返っていたのが、余計に僕の心を閑散とさせる。
携帯電話を見ると、時刻は計ったように六時半ちょうどだった。いつもの起きる時間。会社と自宅を往復する日常が舞い戻ってきたのだ。心は未だに実感できてはいないけど、頭から準備をするよう全身に発信して、僕は重い身体を起こした。
気分は沈んだままだけど、寝起き特有の気だるさもない。おそらく原因はあの夢だろう。
だけど妙にリアルな夢だった。今だから言えることだが、僕はあの少女との掛け合い自体を嫌悪してはいなかった。むしろ心安らいでいた。そして彼女が消えていく瞬間、本気でどうにかしようと考えていた。結局引き留められはしなかったけれど……。
『ありがとう、そして……さようなら――――』
フラッシュバックする彼女の顔は、幼さとは正反対に大人びていた。まるで自分が消えるのが分かっていたかのように、落ち着き払っていたのが痛々しかった……。
ああ、もう、ダメだ。こんなことじゃ、何にも手に付かない。
自身に癇癪を起こしそうになる気持ちを抑え、気分転換にとテレビのスイッチに手を掛けるが、うんともすんとも言わない。もちろんコンセントにプラグも刺さっている。電源がまず入らないのだ。
テレビは十年が寿命だと聞く。僕の思春期から共に過ごしてきたこのテレビもそんな時期だったのかもしれない。
薄っすらと埃を被ったテレビの頭を、そっと撫でる。
「ありがとう。お疲れ様――」
今流行りの薄型テレビよりも、目の前にある古い型のブラウン管テレビの厚みが愛おしく思えた。
日本には『物には魂が宿る』という考え方が古来より存在します。ただ集める、ただ捨てるのではなく、この機会にどうするのが『物にとって幸せか』を考えてみてはいかがですか?