1_ユリシスの解放
壁時計がメロディーを奏で、17時を知らせる。
母「美青ちゃん!未舞のお迎えに行こ!」
二歳歳上の姉・未舞が習っている日本舞踊が
終わる時間だ。
美青は母の一声で車の助手席に乗った。
道中は外の景色を眺める。
週に一度のこの時間が、美青には苦痛だった。
稽古場に着くと、母が助手席に回って
美青が車から降りるのを見守り、手を引いた。
室内へ入ると、歩みを進める度に
三味線の音色が大きくなっていく。
松の木が描かれた襖を開けると、色とりどりの
着物を纏った少女たちが指導を受けている。
部屋の正面が鏡になっていて、
生徒は師範の動きを追うように舞う。
美青は生徒たちの背中を見て、
見よう見まねで舞ってみせた。
鏡越しに美青を見た師範は驚き、声をかけた。
師範「凄いわね、見て覚えたの?素晴らしい
才能だわ…未舞ちゃんの妹さんよね。おいくつ?」
母「五歳になります。美青、凄いじゃない!」
師範「五歳でこの感性…美青ちゃん、あなたも
来週から未舞ちゃんと一緒に通わない?」
母「美青、師範からお声をかけて頂けるなんて
凄いことよ。一緒に習ってみたら?」
期待の眼差しを向ける二人の隙間からは、
未舞の睨みつける顔が見えた。
美青は次の日から、送迎に行っても中には入らず
車で待つようになった。
物心ついた時から、一度見たものや聞いたものを
すぐに覚えることができた。
特別な能力を持つ美青への期待は凄まじく、
両親や親族からは、姉を放ったらかすほどの愛を
一身に受けていた。
日本舞踊は、未舞が自ら習いたいと言い、
愛されたいという執念と努力で腕を上げている。
やっと掴んだ両親が目を向けてくれる術なのだ。
未舞の鋭い眼差しからは、激しい憎悪が伝わる。
美青は、幼少期からずっと
愛と嫉妬に板挟みにされて育った。
*
中学三年生になった美青は、
才女として名が知れ渡っていた。
どの授業も一度習えば頭に入り、
テスト前も勉強する必要がない。
成績は常にトップで、運動もよくできる。
様々な部から助っ人として呼ばれるため、
特定の部活には所属していなかった。
何かしらの部に所属しなければならない
決まりがある中での特例だ。
才色兼備とは彼女のためにある言葉だと
思わせるほど、何もかもが完璧だった。
いつだってチヤホヤされる環境は、
傍から見れば羨ましい限りだが、
美青は芸能人でも政治家でもない自分が
好奇の目にさらされることがストレスだった。
家に帰れば、母から会話を一方的に投げかけられ、
舞からはまるで空気のように扱われる。
火傷と凍傷を、交互に負うような感覚。
痛みを受ける毎日を、来る日も来る日も恨んだ。
何も出来ない人間に生まれていれば
一人っ子だったら
母が違う人ならば
そう思わざるを得なかった。
ベランダに出て、星の光を浴びる時間だけが
美青の心を癒した。
星の数を数えている時は、無心になれる。
嫌なことをかき消すかのように
瞬きも忘れて星を指でなぞっていると、
ドアをノックする音がした。
振り返ると、ドアから未舞が顔を出した。




