6 灰色の壁
「この色、やっぱり、いいな」
青みがかった灰色は、僕の好みに合っています。最初の一塗りの後、僕は壁から少し離れ、帽子のつばに手を当てながら、全体を見ました。この建物に僕の選んだ色がよく似合っていました。ペンキの染み込んだローラーが、元の白壁を爽快に塗り替えます。大部分を塗り終えた頃には、ここがお気に入りの場所になっていました。
「いいね、広さがいい」
「あー、あの窓もいいな」
僕は、何を見ても手を叩いて喜ぶ赤ん坊のようでした。今日は、友人のクレマン君が倉庫をみせてくれているのです。
「そうだろう、君のアトリエには、ぴったりだと思ってさ」
クレマン君が、顔をほんの少し赤らめて言いました。
「しばらく、使わずに放っていたんだが、そんなに状態は悪くないね」
クレマン君が壁の際を伝うように歩いてから、採光の加減を探るように部屋の真ん中に立ちました。
「すごく、いいと思うよ」
僕は、さっきから、「いい」とばかり言っていました。実際は、壁の一部は剥がれ落ちているし、床の隅は腐って窪んでいます。天井の黄土色の雨漏りの跡も酷くかびていました。でも、僕は一歩踏み入れた時から、倉庫ならではの四角い空間の深さに惹きつけられていました。僕は、イーゼルの前で筆を振り、丸椅子に浅く腰かける自分の姿を容易に想像することができました。
「よかったら、あの冷蔵庫も使ってくれ」
クレマン君は、向こうを指差して言いました。僕は部屋の奥を覗くように見ました。
「え、いいの?大きいね」と僕は聞きました。
「うん、業務用だからね」
クレマン君は、有名な料理人です。彼は、町で一番人気の仏蘭西料理のレストランを経営しています。
クレマン君とは、僕の個展で出会いました。初日の来場者の大半は、風が通り抜けていくように、絵を観ると足早に帰って行きました。僕は会場で仕方のない寂しさを抱え、ぼんやりしていました。そんな時、僕の絵を買ってくれたのが、クレマン君でした。僕が作品の説明をしている間、クレマン君は何かを思い悩んでいるようでした。後日、僕がそのことを尋ねると、クレマン君は「飾る場所を考えていた」と笑っていました。僕らの間には、妙な居心地の良さがありました。真冬の吹雪の日、暖炉の前でワインを飲みながら、笑い、語り合うような感じです。
この倉庫には、上の部屋もありました。僕は、背を伸ばし、階段を陽気に上ります。こんな時、もう若くない体が不平をもらします。だから、気持ちとは反対に、切なく息が上がりました。クレマン君は、外へ出て行ったようです。
中二階は、更にひっそりしています。僕は、絵の仕上げを此処でしようと思いました。窓は小ぶりで、その控えめさが僕を落ち着かせます。その窓から外を見ると、裏庭の隣は森だとわかります。森があるのも面白いです。クレマン君が僕を呼ぶ声がします。僕は、急いで階段を下りながら、ここをアトリエにしようと決めていました。
正直に言うと、クレマン君が僕を此処に連れてきた時は、薄汚れた白い建物にがっかりしていたのです。僕は、病院のような白さが苦手でした。その白壁を指さしながら、クレマン君が言います。
「この外壁、直さないといけない」
「そう?」と僕は上を見上げました。
「うん、外壁が劣化している。このままだと、内部が腐食するよ」
僕は、「わかった」と困った顔で返事をしました。そう言いながらも、僕の内心は別のことを考えていました。「僕の好きな色にしよう」と張り切り、その作業が楽しみになっていたのです。
僕は、こうして、クレマン君の倉庫をアトリエとして借りることにしたのです。
僕は、晴れた日を選らんで、外壁を塗りました。電気と水回りの工事、画材収納の棚造りと必要な家具の買い揃えが終わり、春には、アトリエらしくなりました。中二階には、仮眠の為の長椅子もあります。一階の大きな窓を開けると、裏庭です。その先の森との間には、柵がありませんでした。僕は、犬の五郎を呼びました。僕が二年前から飼っているダックスフントです。きっと、彼は、裏庭で遊ぶのが好きなはずです。
「五郎、おいで」
今日は、初めて見るものばかりですから、五郎の尻尾がよく動きます。
五郎は、短い脚で歩き回り、自分の臭いを付けるのに忙しいようです。僕の方へ来た五郎は、面倒な頼みごとをされたような目をしていました。
僕は、五郎を抱きかかえました。
「ほら、五郎、あの樹、見える?花が咲いている」
淡い桃色の花でした。
「桜だ」
僕は五郎に話しかけました。五郎は、風に鼻を向け、外の臭いを嗅いでいました。
「此処で、桜を見れるなんて、すごいよなー」
青い空が澄んでいます。左側に首を回すと、菜の花畑が満開でした。朗らかな黄色が一面です。僕が子供の時、遠足で使っていた敷物とは大きさが違います。それは、巨大な神さまが寝そべる為の絨毯のようでした。
僕は、この春から新しい題材を描くために、アトリエに籠りました。偶に、街へ画材を買い行き、クレマン君のレストランで昼食をとります。朝夕の五郎の散歩で、僕は近所のロベール爺さんと、マリー婆さんとも知り合いになりました。
日差しが眩しくて額に手をかざして、午後の裏庭を歩いていると、見慣れないものが落ちていました。五郎は、その周りを何度も跳ねるようにします。それは、直ぐ側の樹から落ちた実でした。
「あの樹、プラムだったんだ」
僕は独り呟きました。僕は、手の平の上で、拾ったプラムを転がしました。食べる部分も少ない小粒ですが、卵のような形が可愛らしいです。僕は樹に近づこうとした時、足を引っ込めました。動物の糞です。しかも、それは、樹の周りに何か所もありました。
これは、大変です。枝を見ると、まだ青い実が沢山ついています。これから、この動物たちが裏庭にやって来るのは、困るのです。何故なら、僕は、ここに家庭菜園を造り始めていました。僕の育てるじゃが芋やトマトが、彼らにも美味そうに見えてしまうでしょう。
僕は、普段、アトリエで軽い夕食をとり、アパートへ戻ります。その日は、森を通って、寄り道をして帰りました。僕は、落果を全て拾って、持って来ていました。森の奥へと歩き、僕は何度か立ち止まりました。果実を置くのに、調度よい場所がありません。しばらくすると、ブナの樹の横に平たい石が見えました。僕は、その石の上に実を並べました。その中の一つに、火のような赤い実がありました。
森の散策で上機嫌になった五郎と、動物が来ない方法がないだろうかと考えながら歩く僕は、来た道を戻ります。ロベール爺さんによると、森に実を持って行くのが一番だそうです。僕は、実が落ちると、拾い集め、森に運ぶしかなさそうです。面倒だなと思う一方で、僕も五郎も夕暮れの森が心地よくて、悪くない気分もしていました。