56 泥
ポポによく似たチビ森鼠が蔦の蔓先の輪を、頭上で振り回します。蔦の蔓は一本に見えますが、実は何本かの蔓がしっかりと編まれていました。とても丈夫な縄となっているのです。チビ森鼠が頭上で振る輪は風を切り、鋭い音をだしています。太った森鼠は少し離れて立ち、目を細めてその姿を見ていました。
「えいっ」
チビ森鼠が身を反らし、力を込めて輪を放ちました。蔦の縄の輪は、空中を軽く飛んで、チクの頭にかかりました。
「やー!」
そこにいた森鼠たちが手を叩き、大声を出します。チビ森鼠は、拳を突き上げて、喜びの歓声に応えました。チビ森鼠は鼻先を上にし、少し頬を赤らめて、笑みを浮かべます。太った森鼠が、チビ森鼠の頭に厚みのある手をそっと置きました。
「よくやった。よし、つぎ」
蔦の縄の輪は、沼のそばの大樹の枝にかかり、そこから地面に垂れて続いています。太った森鼠はその枝を鋭く見上げてから、森鼠たち全員に号令をかけました。森鼠たちは、頬を強ばらせて、蔦の縄を手に握り締めました。一方、チクは、周りで何が起こっているのかわからずに、自分の頭に投げられた蔦の蔓の輪をただ不思議そうに見ていました。
太った森鼠がチクに向けて、顎の下に手を当てて見せます。しかし、チクは、何のことかわからずに、眉をひそめました。
「その輪を顎に引っかけて」
チビ森鼠が叫びました。チクは、顎の下に蔦の蔓を食い込ませます。
「よいしょお、よいしょお」と、かけ声がかかりました。
森鼠たちは太い幹の周りで拍を揃えて、蔦の縄を引っ張ります。そして、地面に足をのめり込ませ、歯を食いしばり、全身の力を縄にかけました。最初は、蔦の縄がきしむばかりで何も動きません。しかし、チクの体が少しずつ左右に小さく揺れ、粘りつく泥の沼からゆっくりと引き上げられていきました。
太った森鼠が沼の縁から身を乗り出して、チクに言いました。
「まず、どちらかの腕を、沼から出すんだ」
チクの両肩が沼から出ています。粘る泥がチクの腕を引きずり込み、頑として離しません。腕を持ち上げようとすると、関節が外れるような痛みが頬を震わせます。チクは低く唸り、唇を噛み堪えます。そして、腕に纏わりつく泥を断ち切るようにして、ようやく右腕を泥の中から引き抜きました。その間も「よいしょお、よいしょお」の力のこもった声が響き渡っていました。
チクは、沼から出した泥まみれの右手で蔦の縄を掴みました。泥のぬめりで指が滑ります。チクはそれでも、何度も掴み直してしがみつきました。やがて、チクの左腕が泥の中から出て、腹が沼から少しずつ上に引き出されました。
チクが沼の樹の根元に崩れるように倒れた時、森鼠たちが大喝采で迎えました。チクは、泥の締め付けで感覚がなくなった自分の体を見つめます。背中の針は泥で平らに潰れ、尾は長くしな垂れ、まるで一回り大きな森鼠のようでした。
太った森鼠がチクに少しだけ近づきました。チビ森鼠が太った森鼠に走り寄り、手を握って引っ張ります。太った森鼠は、チビ森鼠の方に引かれるように歩き始めました。森鼠たちは、それぞれが自分の巣穴に戻って行きます。肩を組んだり、手を叩いて笑い合っていた森鼠たちは、足音も立てずに一瞬でいなくなりました。
「ありがとう」
チクは太った森鼠の背に大きな声で叫びました。太った森鼠は、後ろを見ずに片手を上げました。そして、直ぐに苔の生えた盛り土の間に消えていきました。
沼は、森鼠の縄張りでした。森鼠は、大雨の後にできる底なしの沼で、命を救うのを代々引き継いでいました。チクは森鼠たちを思い出しながら、空を見上げていました。




