53 当たり前のこと
マロンは、大声を張り上げるのに疲れ、うずくまりました。額を泥につけて泣いていました。拳固で地面を叩くと茶色の水しぶきが上がります。それがマロンの体に降りかかります。
チクはマロンに呼びかけます。
「マロン、マロン、マロンってば」
マロンはなかなか顔をあげませんでした。
「マロン、時間がないよ」
そういう間にも、蔦が吸着根を大木の肌に這わせるように泥がチクを引き込みます。チクは、息をゆっくりと吐きました。心を乱して体が動いたら、それが反動になります。マロンは、「時間がない」という言葉に凍り付いた顔になり身を起こしました。
「いいか、マロン。薬を持って、家に帰るんだ」
マロンは、頭を左右に細かく振り続けます。
「いやだ」
チクは笑顔を作りました。自分の口元が歪んでいるのがチクにもわかっていました。
「その薬を持って家に帰ったら、皆を呼んで来るんだ」
マロンは、沼にはまったままのチクを見ます。チクの体は、さっきよりも少しだけ深く沈んでいました。
「それしかない。一人じゃ無理だよ」
マロンは「いやだ」ともう一度叫びます。
「泣いていてもしかたないんだよ」
チクはマロンに向かって力なく言いました。沼は風がそよぐだけです。羽が濡れた虫たちは、葉陰で息を潜めていました。蛙も、大雨で自分の居場所があやふやになり、咽喉を膨らませてじっとしています。誰の足音もしません。マロンは、立ち上がりました。そして、チクに向かって頷きました。地面には、チクがさっき投げた青い粒があります。マロンはそれを拾って手に握ると、ハリネズミの道に戻って行きました。チクの声が響きます。
「焦ったらだめだぞ。滑るから、気をつけろ。マロン」
チクがマロンの背中を目で追い、首を伸ばします。また、泥がチクをほんの少し飲みこみました。
「はー、じっとしているって大変だな」と、チクが肩を落とします。チクは教室で「静かに!」と先生に怒られていたことを思い出しました。
「あれも、役にたつんだな」
チクは自分の体が吸い込まれていくのを感じます。自分の終わりがこんな形になるとは、思いもしていませんでした。今まで、チクは自分にはたくさんの時間があると信じていました。そして、チクは若いし、それを当たり前のことだと思っていました。終わりが来るのは突然です。風に乗ってきた葉っぱが、不意に額にくっつくようなものでした。自分の一生の扉が少しずつ閉まる力は、泥が体を取り込み力よりもチクに重くのしかかります。チクは泣きべそをかきました。喧嘩では負けたことが無く、大きな体のチクが、涙を流すことはありませんでした。口を噛みしめます。チクは、沼に目だけは沈まないようにしたいと首を伸ばし、顎を上げます。マロンが皆を呼んでくるのを見たいのです。そして、森の景色を覚えていたいのです。震える息を吐きだす度に、家族との毎日、兄弟とのプロレスごっこ、怒られて皆で逃げたこと、顔立ちの綺麗なソフィアに毛嫌いされてしょぼくれたことが目に浮かんできました。そして、ゾエから優しくされても直ぐに目を反らしてしまった時、どうして「ありがとう」と言わなかったのか悔やまれました。
両脇の下まで、冷たい泥が迫りました。チクは、ソフィアではなく、ゾエを思い浮かべていました。ゾエは時々チクの肩を叩きます。チクが振り向くと、ゾエが変顔を近づけてきました。チクは笑うどころか、一歩引いて睨みかえしたものです。それでも、ゾエはしばらくすると、また肩を叩いてきます。
「ひゃ、ひゃ、ひゃ」
なぜか、チクはゾエの変顔を全て覚えていました。鼻の下を伸ばしきって白目を出した顔や、唇を裏返して歯茎を出した顔を思い出すと、しゃっくりが出る程笑いました。沼の縁で息をひそめていた蛙が、目を見開いて身震いし、柔らかい土に脚をずらして座り直しました。
「うひゃ、うひゃ、ひゃー」
チクの笑い声が水辺に跳ね返り、音が尾を引いて伸びていきます。




