52 キヌヤナギ
ハリネズミの道は、水の溜まる窪地が沢山あります。沼地を過ぎると、シダの葉の群生の斜面、岩の隙間のすり抜けが続きます。大雨の後は滑りやすい所ばかりです。チクは歩き始めから、帰り道が長く感じていました。大雨の後で、ぬかるみは至る所にあります。そして、たちの悪い泥沼は、一見濡れた道と変わりなく見えるのです。足を置いて体重をかけたら、そこに地盤が無い為に体が吸い込まれるように落ちるのです。
チクは常に自分の足を踏み込む場所を髭と目で選び、曲がり角では必ず止まって、マロンを振り返ります。マロンは、顔を泥だらけにしていました。髭だけが外側に反り返って目立っています。チクは、片手に青い粒を持っているので、地面についた拳が滑りました。度々、胸を地面につき顎を打ちつけます。曲がりでマロンを振り返ろうとした時、チクの足元が浮きました。
「ああっ、わあー」
マロンの大声と同時に、チクの体が鳳仙花の種のように弾けて飛びます。チクがハリネズミの道から放り出されました。マロンは、斜面になった泥の道で足を滑らせ、弾丸のように体ごと泥の上を滑り込み、チクにぶつかったのです。マロンは頭を振って、立ち上がろうとしています。
「マロン、マロン」
チクの声がします。マロンはよろめきながら、声のする方へ耳を向けて歩きます。
「ごめん、ご、め」とマロンが言いかけました。
マロンは立ち尽くして、チクを見下ろしていました。チクは、泥の中にすっぽりと腹の辺りまで浸かっていました。マロンは、チクに走り寄ろうとしました。
「だめだ、来るな。そこに、いろ」
チクは声を荒げました。マロンはその場で足を止め、眉を寄せました。
「そこから、こっちに来たらだめだ。ここは、底なしだ」
マロンは、粒の入った両の頬を膨らませたまま、頭を左に傾げました。「底なし」の意味がわかりません。
「マロン、受け取れ」
チクが拳の中の青い粒をマロンへ向けて投げました。腕を大きく振りかぶり投げたので、その反動で体が少し引き込まれます。マロンは、チクの投げた青い粒が自分の足先の近くに落ちたのを見ています。マロンは、チクが沼に少し沈んだのことに気づきました。
「どうしよう、どうしよう」
マロンは、自分の髭を掴んで引っ張ります。体を揺すり、その場を行ったり来たりします。ようやくマロンにも、「底なし沼」が何であるかがわかりました。マロンは、皺だらけの顔で泣き始めました。
キヌヤナギが風に揺れています。雨の止んだ朝、辺りは静まり返っています。マロンの泣き声だけが、響き渡りました。




