47 マロンを探して
4日目の朝、雨は止んでいました。チクは、誰よりも早く起き、家を出て行きます。足の裏が濡れた泥にさらわれて、体が浮き、バランスを崩しました。大雨は、獣道の無数の窪みを、全て水溜まりに変えていました。森全体が水に浸かって、汲み上げられたようでした。チクは、何度も転びました。思わぬところがぬかるんでいるので、足を取られてしまうのです。顎を地面に打ちつけて倒れます。頬や、口元だけでなく、体中泥だらけになります。
チクは、勢いよく顔を泥につけたので、口に入ってきた土の粒を吐き出しました。4日目の今日は、ヘッジ先生の往診の日です。父さんの紫斑は腕にも現れていました。そして、父さんはずっと高熱にうなされています。父さんがウイルスに侵された右腕を失うことは、チクにもわかりました。
プラムの樹まで来ると、チクは爪先が地面につっかえて、つまづくようになっていました。暫く、樹の根が網の目のように這う場所で休むことにします。今年、収穫の為に、この樹に来ることはありませんでした。プラムの実は、ブナの樹の石の上に置かれていたのです。マロンがこの場所に来たとは思えなかったのですが、チクは、もう此処しか探す場所がないと思っていました。
チクは遠くの灰色の壁の家を見つめます。人と森の境界線に近づきました。一ヶ所、鉄線が破けた所があります。それを遠巻きにしていましたが、急に動きを止めました。鉄線の結び目に何かが引っかかって、雨の後の冷たい風になびいています。チクは風の微かな臭いに気がつきました。
「あっ」
チクは、鉄線の棘の先を避け、指を間にはめ込むように組み入れ、体を寄りかけて立ち上がります。もう一度、毛の臭いを嗅ぎます。それは、マロンの毛でした。木の立て札が雨避けになり、マロンの毛が残っていたのです。チクは、鉄線の破れた所を往復しました。チクが通るにしても、かなり狭い隙間でした。
「あいつ、もしかして」
チクは鉄線から三歩ほど下がり、周りを見ます。チクには、マロンが人の世界に行ったのだとわかりました。チクは鉄線の間から見える草地を見つめます。奥には、灰色の家があります。そして、肩を叩かれたように、自分の住んでいる森を何度も振り返りました。
チクは鉄線の下に穴を掘り始めました。雨で土が柔らかいので、チクの爪は土中にしっかりと食い込み、掘り進みます。直ぐに、鉄線の破れの下には、体を伸ばすと通れるくらいのトンネルができました。チクは頭を水平な地面から出して、森の外側を見回します。目の前の叢に身を隠して、指の間を広げ、爪の汚れも落としました。溜息をついて、空を見上げます。
チクは、周波数の違う音を出しました。口ひげが大きく揺れます。近くにマロンがいたら、絶対に聞こえるはずです。チクは、目に力を込めて、胸を張り、四方に体の向きを変え、音を響かせます。あのアカトビの時で、マロンは非常の周波を覚えたはずでした。
チクは耳を立てて、頭を左右に向きを変えながらマロンの返事を待ちます。立ち上がったり、身を低くしたりもしました。そうしていると、チクは目の端に、遠くの空にある黒い点のようなものを捉えました。それは、空に緩く円を描いて飛ぶ鳥でした。
チクの背筋の毛が逆立ちました。丈の高い草が茂る場所を見つけ、飛び込みます。密集する草の茎のわずかな隙間に身を挟み込みました。草を揺らさないようにして、根元にうずくまります。息をする度に抑揚する腹の動きを小さくしようと身を固くしました。




