40 砂袋
夜の獣道を一匹のハリネズミが土を蹴り上げて走っています。口元を固く結び、前へ足をひたすらに送り出すハリネズミは、マロンでした。取りつかれたように急いでいます。
マロンは、やはり泣いていました。目の縁からこぼれる涙をそのままに頬に落としています。夜の冴えた空気が涙の湿りにつけいるように、マロンの顔に冷気を当てます。マロンは歯を食いしばり、体の毛を立ちあがらせて胸を張ります。シダの葉が、夜風にしなだれかかり、また、押し戻されながら音を立てます。マロンは、岩の間をくぐり抜けて、キヌヤナギの沼も超えていきます。マロンの目が暗闇に光ります。その足運びには、体重を持て余すような鈍さなどありません。樹上に隠れたフクロウも、好物のハリネズミを見つけていても、目を動かして、ホウホウと鳴くしかないのでした。
マロンは、ハリネズミのプラムの樹まで辿り着きました。森の外れは人の世界との瀬戸際の境界線です。マロンは、走ってきた息づかいのままに、壊れた柵の間をめがけて体を投げ出しました。柵の針金の端が、マロンの膨らみのある頬をかすめていきました。
「あいつら、ゆるさない」
睨めるマロンの目には、闘志がみなぎっています。マロンは、森から人の世界に踏み出しました。マロンの頬全体、口の辺りまで針金のつけた線に血が薄っすらと浮かび上がります。丈の深い叢の中で足を止め、半ば立ち上がり、首を伸ばします。そして、灰色の建物の方向を鼻先で確かめて、髭を震わせました。帽子の大男と犬がいる建物です。
「五郎、はやく、ピッピをしてよー」
僕は膝に両手を当てて、立ち上がりました。犬の夜のおしっこを待っているのは、楽しい仕事ではありません。僕は、庭の土をモグラのようにつま先で掘り起こして、気を紛らせます。
「ゴロー、まだ?」
僕は、自分のこめかみを指で掻いて、犬の五郎の背中を見下ろしました。ダックスフントの五郎は、人間で言う青年くらいの年齢です。毛は優雅にカールしながら、若々しい艶やかさを見せています。庭の備え付けたばかりの小さなライトに、五郎の尻尾が得意そうに揺れています。五郎は、土の臭いばかり嗅いで、雑草の間を忙しそうにしています。
その時です。五郎が首を上げ、ワンと吠えました。とても大きな声だったので、僕の体がビクつきました。
「どうしたの、ごろう」
僕は五郎が仁王立ちになって睨む方を、同じ様に向きます。僕は、背を丸めて、目を凝らしました。五郎が、もう一度、吠えました。
「ごろう、ごろう。どうした?」
僕が五郎の背を抑えようと動く前に、もう、五郎は庭の奥へ飛び出していきました。数分にも満たない時間がありました。自然はこのほんの少しの時間で魔法をかけてしまうので、油断がなりません。
五郎は何かを加えて僕のところに駆けて来ました。僕の体は凍り付きました。
「だめだよ、ごろう、捨てておいで」
僕の言葉を自分流に理解するのが、得意な五郎です。
「あ、ああ、ここに、捨てないでよ」
僕の悲鳴のような叫び声が響きます。五郎は、悪戯した革靴の片方でも返すように、口元からくわえているものを僕の足元近くに落としました。
「五郎、これって」
僕は小学生の時の遠足の時、誰かが捕まえた蛇を見せてもらうような気持ちでした。前かがみになりながら、僕は腰が引けています。五郎が落とした塊は、革靴よりも柔らかそうです。それは、小さな耳がついた鼻の尖りがある小動物でした。
「五郎、殺しちゃったの?」
僕は帽子の中で、髪の毛の根元が立ち上がるのを感じました。五郎は得意満面の目を輝かせています。「流石、狩猟犬だな」と思いながら、僕は五郎をちらりと見返します。五郎は、その小動物に距離を少し取り、後ろに跳ねてから何度も弾みをつけて、頭の角度を変えて飛び掛かろうとします。
「いやー、待ってまって」
五郎が小さな砂袋のような死体を玩具にするのは、僕には耐えられません。僕は、腕を大袈裟に振って止めに入りました。




