37 石ころ
「先生、大丈夫ですよね?」
父さんの家の樹の洞から出て、スピカさんが声をかけます。二人は叢の中の獣道にもうすぐ紛れこみます。往診の道具を持つ腕の振りを少し大きくして、よろめきながら先生との距離を詰めました。スピカさんは、肉付きの良い脚を先生の早足に追いつくように動かします。先生が、叢で足を止めました。スピカさんを振り返りませんし、片側の肩を上げて横顔すら見えないようにしました。
「君だって、わかるだろう?口に出して言わなかったけれど、紫斑が広がってしまっては大変なことになるんだぞ」
スピカさんの短い息がマスクの下で繰り返されます。言葉が心拍の小太鼓に急かされて、やみくもに飛び出しそうです。スピカさんは、肩で息を一つ吸い、胸を下しました。
「細菌は、恐ろしいです。でも、赤珠の煎じ薬が効いているようにも思えます。普通は、もう、高熱が下がりませんから」
「君は、何にも解ってないのに、気休めばかりだ」
ヘッジ先生が口元を歪めて、草の根元に唾を吐くように言いました。スピカさんは、口を閉じました。
「とにかく、4日後だな。紫斑の数が増えているだろうから、手術になるよ」
ヘッジ先生は、頭を軽く振って歩き出しました。
ヘッジ先生の頭の中には、答えが出ているのです。その答えは、「歩く時は右足を前に出して、次は、左足が動くものだ」というように、揺るぎのないものです。それは体の中の言わば石ころです。父さんの膿んだ傷と紫斑を見た時、ヘッジ先生の頭の中に、はめ込まれたように居座りました。どんなに悲しくても、辛くても、「恐らくそうなる」という正しい答えです。スピカさんは、その石を足先でひっくり返し、振り子のように脚を使って、蹴とばしたくなるのです。スピカさんの鞄の取っ手を握る指に力が入ります。スピカさんは、もう先生の方を見ませんでした。
スピカさんの頭の中にも石ころが転がりこんでいました。「結局、先生の言う通りになる」という石ころです。石は、どこかで見たような色をしています。先日、診察に来た痛風持ちの呪い師が似たような石の指輪を親指にしていました。
ノルマンディーの森は、夕方になっても外がまだ明るいのが不思議です。太陽が地平線に近づくと、ようやく青みがった薄暗さが広がります。
その日の夕飯に、父さんは食卓に来ませんでした。
「父さんは、どうしたの?」
ポポが母さんに聞きます。母さんが口を開きかけると、
「臭いから、来ないんだ、グフフ」
そう言ってから、マロンが茸のオムレツに齧り付きます。ココが、トマトソースを口の周りにつけて、「いや、もう、そんなに臭くないよ」とマロンに言います。
「チクせんぱい、チーズをとってください、チクセンパイ」
ポポの足が椅子の下で小刻みに動きます。ポポは、「チクセンパイ」を鼻にかけた声を出して言います。直ぐにマロンが、「チクセンパイ、ぼくもー」と笑いながら言います。ココが、イラクサと牛蒡の炒めものを頬張りながら、苦しそうに上を向きます。チクは頬を赤らめて、嬉しそうに笑っていました。
「チク、センパイ?」
ソラが、ポポに聞き返します。
「うん、あのね、チクがね」
ポポが話すのを、チクが遮りました。マロンの肘もポポの脇腹をつつきます。
「父さん、どうしたの?熱が出たの?」
チクが話題を変えて、母さんに聞きました。
「朝、元気だったよね。具合悪いの?」
ココが、目つきを鋭くして母さんを見ます。
「そうね、夕方から熱が上がったのよ」
母さんは、そう言ってから、一口のオムレツにトマトソースをたっぷりと付けて口へ運びます。
「この季節の茸、おいしいね」
母さんは頷いて、またひと口食べました。
ソラが「母さんの茸のオムレツは最高だもの」と言います。




