36 往診
「ゴホッ、ゴホッ」
ヘッジ先生が口に拳を当て、咽喉の奥からこみ上げてくる咳を止めようとしています。肩を上げて息を吸い込み、胸に空気を入れました。ヘッジ先生は、指の腹で鼻の穴を抑えると「いやー、なんでしょうね」と早口で言います。
「先生、大丈夫ですか?」
看護師のスピカさんの手がヘッジ先生の背を軽くさすります。
「大丈夫、いや、大丈夫だよ」
ヘッジ先生は、スピカさんに何度も頷きます。
母さんは手を胸の前で組んで、ヘッジ先生に少し頭を下げました。
「すみません、これ、生の赤珠の臭いなんですよ」
「ほー、ゴホッ、あれですか。こんなに臭かったんですな」
ヘッジ先生は、涙が薄っすら浮かぶ目を見開きます。玄関が開け放たれているのに目をやり、ホッとした顔になりました。風が入ってくると、息をつけるように感じます。
ヘッジ先生は父さんの傷を診察し、帰るところでした。玄関の方に歩きながら、思い出したように暗い顔になります。後ろから付いてくる母さんを振り返り、足を止めました。
「あまり、思わしくないですな」
「そうなんですか?」
「うん、紫斑が出ていたでしょう。よくないですよ。よくない」
ヘッジ先生はうつむき、首を左右に振ります。それを見て、母さんの歯が下唇に食い込みます。スピカさんは、二人から一歩下がった所で話を聞いています。
「鳥の唾液からのウイルスだね。だから、傷が良くならない」
母さんはヘッジ先生の言葉が床に落ちて転がっているかのように、足先を見つめます。
「赤珠の煎じ薬は、飲ませているんですよね?」
「はい、午前と午後と寝る前に」
母さんは顔を上げて、ヘッジ先生を真っ直ぐに見ました。ヘッジ先生の悩んでいるような目を見て、母さんの眉間に皺ができます。母さんの咽喉が狭まり、声も小さくなっていきます。スピカさんが、母さんの肩に手をかけました。何か言葉をかけたそうに、口を開きかけますが、同じ様に眉を寄せるしかありませんでした。
「先生、手首からですか?」
母さんは、唇を強く噛みしめます。
「えっ?」
ヘッジ先生は、母さんの言葉の意味がわからずに聞き返します。ヘッジ先生の耳に力が入り、反りました。
「あの、先生が、傷が治らないと、切るしかないって」と、母さんは足に代わるがわる体重をかけて、体を揺らしながら聞きます。
「あー、切除ですな。うーん、どうかな」
ヘッジ先生は、首を傾げます。そして、ちらりと視線を母さんの後ろに立っているスピカさんに向けました。スピカさんは頭を細かく横に振りました。
「いやー、今は、わかりません」とヘッジ先生は母さんに言います。
母さんは一点を見つめるようにして視線を外さず、ヘッジ先生に問いかけます。
「手首だけじゃないんですか」
母さんの声は震えています。
ヘッジ先生は左右に手を振り、
「一番、大事なのは、細菌を食い止めること。だから、右腕ですね」
「右腕、ぜんぶ」
母さんは受け入れたくない言葉を早く飲み込んでしまおうと、口の中で何度も噛み砕きました。スピカさんの目が吊り上がっています。口を一文字に結んで、ヘッジ先生を睨んでいました。
「右腕をとったら、大丈夫ですか?」
母さんの目に涙があふれてきました。大きな一滴が目から頬につたうと、指で抑えるように拭います。息が震えていました。スピカさんが母さんを抱きしめました。
「まだ、わからないことよ。悪いことばかり考えちゃ、だめよ」
スピカさんが母さんの耳もとに顔を近づけて小さな声で言います。そして、自分も泣きそうな目をしながら、母さんの涙を手でそっと拭きました。
「また、四日後に来ますから」
スピカさんの声に、母さんは何度も頷いて答えました。




