33 えっ?
「わあーっ、まっくろお」
ポポが飛び上がり、手を叩きます。マロンは、ポポの母音を伸ばした発音が腹に響いたようで笑い出しました。でも、ゾエは全く気にしていません。ゾエの大人ぶった足つきは一歩をねじ込むように踏みしめ、チクの方へ進みます。チクの足は、チクが気づかないうちに、後へ一歩下がります。ココは、チクの体が後ろに移る度に、脇腹をくすぐられたように押さえ、声が漏れないように「クックッ」と鼻から音を出しました。腕の筋肉が小山のように盛り上がるチクは、骨格が大人のハリネズミよりもしっかりしています。チクの広い肩幅が通る為に、皆が道を譲るのです。今、泥だらけで白い歯を見せびらかすように笑うゾエに、チクが後ずさりしています。
ゾエは鼻の下を伸ばしながら、下まぶたを下げて、無理やりの白目を見せます。目の周りの泥が固まってきていました。チクは、口をへの字にして、笑いたいのを堪えています。時どき、痙攣するように頬がひくつきました。
「失礼ね、あなた達。子どもには、まあ、わからないでしょうけど」
ゾエは、腰の右手をゆっくりと上げ、頬へ持っていきます。そのまま顔の周りの柔らかい毛を手の甲で払う仕草をして、ちらりとチクの方を見ました。ポポは、大きなカブト虫を樹の幹に見つけた時のような目つきをしています。ゾエが毛を払いのけた瞬間、泥が爪の先から跳ねて、チクの足元に落ちたのも見逃しませんでした。
チクは、もう一歩つま先を後ろにずらします。風が吹いて、周りのイグサやガマが揺れます。みんなが「えっ?」という言葉を口の中に隠していたり、目の端、眉の間にぶら下げているような静けさがブールビエの岸辺に訪れます。ゾエの後ろのルーとエリーゼが、互いを肘でつついています。二人は、鼻から上の顔の半分を塗り残していました。ルーは、エリーゼに目配せします。エリーゼは、泥で固まりかけた口の周りをできるだけ大きく動かし、「なあに?」と返します。ルーは、妹の顔の泥に細かいひびが入ったのを黙って見過ごします。顎を少しだけ上げて、何かを言えずに目だけを上下に動かします。
チクやココの後ろで笑い転げていたマロンが、ピタリと息を止めました。そして、急な真顔をつくると、ココの隣に立ちました。マロンの口ひげが、空気の変わり目を捉えて震えます。
「で?」
チクが、意地悪な目でゾエを見ます。
「でっ?って、私の方が、でっ?なんですけど」
ゾエが一歩ずつ下がるチクに気付いて、歩みを止めました。
「ん-とね、僕達、ミミ」とポポが言い終わらないうちに、マロンがお尻でポポを横に突きとばしました
。ポポの体はよろめき、地面に手を付きそうになります。
「ミミ?」とゾエが聞き返します。
「いや、何でもない」
チクが手を振って答えてから、隣のココを見ました。ココは、眉を上げて「えっ?」という言葉をチクの目の前にぶら下げます。チクがココを睨みます。
ココは唾を飲み込みました。そして、ゾエの全身を優しい目をして見つめます。
「泥パックですね。ブールビエの泥はミネラルが豊富だから」
ココが頭を掻きながら言うと、チクが何度も頷きます。
「そうなのよ、私たち、最近、はまっているのよ」
マロンもココもポポも、ゆっくりと深い頷きをゾエにわかるように見せています。
「そろそろ、固まってきているよね。洗い流さないといけないでしょう」
ココが、ゾエの顔の泥に走る亀裂をなぞるように見ます。ゾエの口元の泥が剥がれ落ちています。まるで、パズルの欠片を失くしたようでした。ゾエの膝頭から泥が塊で落ちます。緑の苔の上に黒い泥が置かれ、居場所を間違えたように途方に暮れています。ポポがそれを見て直ぐに、口を開けて指差します。
「大丈夫、私たち、このままで家に帰るから」とゾエがはっきりと言いました。
ルーと、エリーゼが「えっ?」の言葉を飲み込み、互いに見つめ合います。
「そのまっ、そのまんま?」
ポポは、高い声を張り上げました。
「ポポ、ゾエたちは大人だから、いいんだよ、俺達とは違うからさ」
チクは笑いを堪えて、お腹を押さえています。
「ルー、エリーゼ。行くわよ」
ゾエは鼻歌まじりで歩きます。ゾエが歩く度に、お尻や、背中から、泥が落ちていきます。ルーとエリーゼが、チクたちの前で一礼して顔を赤らめて行きました。
「おもしろかったなー」
マロンが頬の肉を指で揉んでいます。
「僕もすんごい、見た」
ポポは、まだ、口元が笑っています。
「どうする?ミミズ」とココが聞きます。
「あー、ちょっと疲れたなー」とチクが肩を落とし、足元の苔に足を擦りました。そして、腰に手を当てて、首を伸ばし空を見ます。ココもマロンもポポもブールビエの上の快晴の空を見上げ、手を広げるようにして伸びをしました。
「あのー、あのー、すみません」
チクたちが一斉に声の方を振り向きます。そこには、さっき、一礼して通り過ぎていったはずのエリーゼが立っていました。




