3 ハリネズミの道
ポポと父さんは、先頭を走っています。幼いポポは歩幅が短いので、父さんについて行くために、息を切らしています。
「ポポ、スピードを少し緩めよう」
父さんの手がポポの体にそっと触れました。そろそろ、水の溜まる窪地が増えてきます。泥のぬめりが、足にいたずらをするのです。
キヌヤナギが生える湿地は、どんな時も静かです。虫たちの言い合いや、あめんぼの水を弾く音さえも耳に届きそうです。皆は、他の生き物を驚かさないように、丈のあるガマの群生を慎重に進みます。チクの肩がガマの茎にぶつかり、その花穂をわずかに揺らしました。チクの後ろのココは、ガマの下に咲く青い花たちを踏まないようにしています。
「うわっ、わっ、わちゃわー」
マロンが変な声を上げました。ココは、心配になり、後ろのマロンをちょっと振り向きます。
マロンは、パンをぱくつきながら走っていたのです。マロンが最後のひとかけを食べようとすると、パンが口元で逃げました。こういう時のマロンは、軽業師です。母さんに急かされながら、ゆっくりと動くマロンとは違います。マロンは、腕を伸ばしてパンを受け、跳ねたパンを丁度の高さで鼻先に当て、一気に捕まえると口に放り込みました。
マロンは、ココの後ろを遅れていきます。手には、パンの糖蜜がついていました。その甘い味も好きでした。マロンが全部の指を丁寧に舐め終わると、目の前にプラムの樹が現れました。
ポポは、実を落とした枝の下に父さんを呼びます。父さんは、今日収穫するはずだった実が無くなっているのを見て、手で額を抑えました。
「あー、一つもない」
ソラが悔しそうに言いました。
この樹は、枝ごとに一斉に実を落とします。その度に、皆が家に落果を運ぶのです。青い実が多い枝は、まだそのままです。他の五個の「赤珠」は、枝についていました。チクが、樹の裏に回り、地面に落ちているはずの実を探し始めました。土には、プラムの匂いだけがありました。次に、全員が隣のブナとトネリコまで歩き回りました。その間、皆は口を閉じていましたが、マロンだけは、「せきじゅ、せきじゅ、せーきじゅ」と、繰り返し唱えていました。
遠くで、数羽のカラスが「かあ、かあ」と鳴きます。今は、陽が上る前です。音の高さの違う声が、冷えた空にいやに長く響きました。父さんは、思い出したように顔を上げました。
「集合!」
全員が父さんに駆け寄ります。ここは、ハリネズミの一家の縄張りです。向こうの人間の住処とこちら側の動物たちへの警告は欠かせません。
「結界!」と父さんが右の拳を上げます。
ココが、「ほら、早く」と遅れ気味のマロンの手首を引っ張ります。6匹が横一列になりました。カラスの暗い声音のせいで、弟たちはどこか上の空でした。
「みんな、やるぞ」とソラが兄弟を励まします。
父さんが天を仰ぎ、両腕を体の横から頭の上に挙げ、最後にパチリと手を合わせて叩きます。そして、森の空気を吸い込みます。それから、口を尖らせ、息を少しずつ吐きながら手を下します。それと同時に、しゃがみ込むのです。兄弟5匹が父さんの真似をします。大量の糞を一線に置けば、それがハリネズミの聖域の印です。皆が体の重心を低くしていると、か細い声が泣きそうに訴えました。ポポでした。
「僕、出ないよー」
ココもチクも、末の弟と同じ気持ちでした。ソラは、弟達に「おしっこで、いいから」と顔を赤らめて目配せをしました。マロン以外、朝から何も食べていないのですから、結界づくりは難しいのです。
ココが、最初に列から離れました。気になっていたことが、あったのです。ココは樹の根元に行き、「とうさーん」と手を振り、土を指さしました。父さんは、苦笑いして歩いていきます。大抵、こういう時、子供というものは、太みみずの尻尾が動いていると見せたりするのです。父さんは、ココの指先を覗きます。
そこは、少し湿って、粘土のようでした。大きな凹みが、土に食い込んでいます。その側に小さな凹みが集まっています。ソラも、別のところに、同じような跡を見つけました。ココは「そうそう、そこも同じだよ」とソラに声をかけました。マロンは、根に浮き出た樹瘤を睨みつけています。マロンだけが、皆から離れていました。
「これは、犬だね」
ココは、小さい方の跡を軽く叩きました。
「これが?」
ポポは、信じられない顔をしました。
「じゃ、大きいのは?」と、チクが凹みを嗅ぎながら聞きます。
「ああ、それは、人間ですね」と、ココが答えます。
ソラが小さな跡を数えるように見て、考え込んでいました。
ココは、それに気づいて、早口で言います。
「足跡が離れているよね。だから、ダックスフントだよ」
「あ、僕も本で見たことがあるよ」とソラが頷きます。
「でも、大っきい足と小さい足のあるトカゲみたいなやつかも」
ポポは目を丸くして言います。ココが「いやー、それは、ないな」と顔の辺りの羽虫を払うかのようにして右手を動かします。
「この犬はね、胴が、少し、長いんだよ、そして、脚が短い」とポポに説明します。
「じゃ、よー。プラムと赤珠を盗ったのは、人間か」
チクが声を荒げます。
「うん、きちんと言うと、男と犬だね」とココがはっきりと言いました。
ポポが質問します。
「なんで、男って、わかるの?」
ココは、「ほら、見てよ、すんごい、大きい」と言い、跡を指で測ります。
「人間の男のブーツだ。そして、右向きと左向き。」
ココは、胸を張りました。自慢する時、ココの瞼は上に吊られるようになります。
チクは、土を爪先で蹴り上げていました。「赤珠」が盗られて、自分達が負けたようだと思うのです。
「父さん、赤珠は諦める?」とソラが聞きました。
父さんは、「うむ」と重たく言い、口元を一文字に引き締めました。
その時です。鳥の群れが一斉に羽ばたいてしまう大きな音が轟きました。ポポが両の耳を手で隠します。耳が痛いくらいなのです。
「わあー、わあー、わあー、うおー、いやだよー」
マロンの甲高い声でした。マロンは、鼻先を上にし、走りだします。ソラとチクが、マロンを止めようと飛び掛かります。この時のマロンは、モモンガよりも素早かったので、二人は身をかわされて、地に腹をひどく打ちつけました。
父さんが、マロンを追いかけます。やっと起き上がったソラとチク、そして、ココ、ポポが続きます。
「ソラ、ソラ。マロンは、どうしたの?ね、どうしたの?」
ポポが何度も問いかけます。ソラは、黙ったままです。
森には、人の歩く道が一本通っています。マロンと父さんは、その道の奥に見えなくなっていました。人の道は歩きやすいのですが、周りをよく見なければなりません。マロンの爪が土を跳ねて上げています。全速力です。我を忘れてしまったマロンには、もう何も聞こえません。マロンは、食べ物のことになると夢中になるのです。父さんは、マロンに注意を払うべきだったと、唇を強く噛みしめました。
「落ち着くんだ、マロン。まだ5個もあるじゃないか」