16 陽だまり
1週間経つと、父さんは脇腹の傷をかばうこともなくなりました。汗をかいた体が痒くて、頭や首のあたりをしきりに掻きます。ベッドに起き上がり、全身の力が抜けるような大あくびを何度もしています。母さんが朝早く身支度をして寝室を出ていくと、父さんは部屋に一人になります。
部屋の外では、ポポがココと言い合いをしているようです。「知らない」とか、「うそつき」とか、甲高いポポの声と負けず嫌いなココの早口が聞こえます。焼き立てパンのバターの香ばしい匂いは、足音を立てずに家の中を巡り、寝室のドアの隙間からも忍び込んできました。
8日目の朝、寝室のドアが叱られるのを怖がるように少しずつ開きました。父さんは、一歩ずつ進む度に、足裏に伝わる床のしっかりとした落ち着きを懐かしく感じていました。当たり前の日常がようやく戻ってくると思うと、気分はもう、背筋が伸びて軽やかな足取りで踊りだしそうでした。
ポポが体のバランスをはかりながら、椅子に両足を乗せ、太腿に体重をかけます。食卓に伸びあがり、ココのパンの胡桃を一つ取ってやろうと手を伸ばしました。その時、ポポは沸騰したヤカンから吹き出す蒸気のように声を上げました。ポポが父さんを目の端で捉え、背中の毛を逆立てました。他の皆は、互いの目を覗き込み、何が起こったのかと問いかけます。
「やったー」
ポポは細い両腕を夢中で振ります。ポポの小さな体が左右に揺れ、椅子ごとひっくり返りそうになります。椅子はポポの行儀の悪さに怒っているように脚をがたつかせ、貨物列車が段差を打つような音を立てました。隣に座るマロンが、飲んでいた牛乳のカップを口から離します。マロンは、口からはみ出した白い滴を手の甲で拭うと、椅子の背を掴み、ポポの体を支え、両者をなだめにかかります。
「もう、いいの?」
マロンが牛乳を飲み込んだばかりの顔を向け、父さんに聞きます。鼻の下は牛乳の跡の白髭があり、目は幽霊を見ているように大きく開いています。父さんはマロンを見て、鳩が咽喉の奥で鳴くような、低く穏やかな声で笑い、食卓へ近づきます。母さんは父さんの歩幅を素早く目で測ります。父さんの座りやすいよう、ちょうどいい場所に椅子を引きました。母さんの眉は困ったように皺を寄せているのに、時折、頬が緩み、優しい黒い瞳が光ります。
父さんの右手は包帯に隠れ、胸の前に布で吊られています。代わりの左手が、自分の思いとは離れて好き勝手に動くものだから、父さんは溜息がでます。母さんは、父さんの肩を抱くようにして手を添え、父さんの腰が下がり、体が椅子に落ち着くのを待ちました。母さんの手のぬくもりが伝わると、父さんのへの字口も笑んでいきます。
「ふう」と、父さんは吸った息を鼻の下を膨らませて勢いをつけて吐きます。寝室から居間は近いのに、今日は遠く感じました。そのまま、自分に向けられた子供達の顔を一つずつ見つめます。ソラは食べかけのパンを手にし、齧るのを忘れています。チクは急いで口に詰め込んだ食べ物で両の頬をふくらませて、何か言いたくても口が動きません。ココは、ポポの悪戯の手が届かないように、胡桃のパンを頭の上に掲げています。マロンは、ポポのお尻が椅子にきちんと座るまで、椅子の背を手でしっかりと押さえています。
パン粥の皿が父さんの前に置かれます。優しく揺らぐ細い湯気が立ち、触れると崩れそうな柔らかな粥を見ると、父さんは皿の横にある匙を左手で掴みました。
「久しぶりだなあ」
子供達が皆、父さんの食卓に座る姿に微笑みます。それは、父さんを照らす、緩やかな日差しのようです。父さんは目を細めて、肩の力を抜きました。ポポが食卓でパンを掴んで忙しくしています。パンに顔を出している胡桃を指先でほじくりだしているのです。そして、父さんの粥皿に腕を伸ばしました。その手の中から、一かけの胡桃が粥の中に転がりこみます。胡桃は急に粥に落とされ、驚いたようで、小石のように浮かんでいましたが、半ば沈みかけてもいました。父さんはポポが粥に何を入れたかわからずに、一瞬口を開けたまま皿を見つめました。胡桃だとわかると、スプーンを小さく振って腹の底から声を出して笑いました。ポポは悪戯っぽく笑いかけ、片目を閉じようとしましたが、目の周りを皺だらけにして、両方の瞼を閉じただけでした。それもまた、可愛らしいので、父さんは黙ってうなずいて答えました。
父さんは、鼻先を指でこすります。辛いものを食べた時のように、強い力で鼻をつままれたようで、涙が目を覆います。父さんは左手で匙を持ち、粥と胡桃をすくい、照れくさくて上手く開かない口に入れました。ポポの胡桃には、夏の草木の匂いがあり、父さんは母さんと散歩した夕暮れを思い出しました。胡桃が香ばしく弾けます。
父さんは普段、匙を右手で使います。でも怪我をした右手は、「絶対に動かさないように」とヘッジ先生が目を三角にして父さんに言っていました。匙と口との角度がずれると、一匙の粥は反抗するように皿の上に落ちていきます。皆で食べる朝食は今までよりもずっと美味しいので、父さんは匙から落ちる粥を当たり前のように見送り、また口に掬い取ります。手元のもどかしさは、楽しさに混ざり、砂時計を逆さにするのを繰り返すくらいの小さなことになりました。
「あー、おいしいな」
父さんが母さんに顔を向けます。父さんが得意のカンツオーネを歌いだすように、口先を尖らせて陽気に言うものだから、子供たちもパンを食べ、牛乳を飲み、プラムの砂糖漬けをつまんで口に放り込みます。ポポは隣のマロンを肘でつつきます。ポポは痩せているので、骨ばった肘がマロンの横腹に刺さります。ポポは、マロンのお腹の肉なら、大丈夫だと勝手に思うらしく、牛乳を飲みながら吹き出しそうになりました。マロンは、いつもなら、ポポを追いかけ回して「痛いんだよー」と言って怒るのですが、今回は軽い体当たりをポポの肩に返しました。小柄なポポは椅子からお尻がずり落ちそうになり食卓にしがみつきましたが、くすぐられたように笑っています。




