12 心
ソラとチクは、普段は来ない水場を選びました。家の近くで血を洗い流すのは良くないとチクが言うのです。日暮れにはまだ早い時間でした。大樹に囲まれた水辺には、誰もいません。チクが鼻をつまんで飛び込みます。水しぶきが高く上がりました。ソラの気持ちが緊張から放たれていきました。ソラがチクの側に泳いでいきます。湧水が自分の中にこもる熱を取り去ります。ソラは仰向けになり、水に体を浮かべ、遠くの雲を眺めました。穏やかな風が吹いていきます。アカトビの恐ろしさも父さんの怪我も全て夢のように思えました。
でも、指先の痛みがソラを引き戻しました。まるで、棘が爪の奥で意地悪をしているかのように水が沁みます。ソラは爪の土を丁寧に落としました。あんなに急いで地面を掘ると、固い爪でも裂けてしまいます。血のついた土を掘りおこす為に、ソラは持てる力を込めました。ソラの両の手の一番長い指の爪が特に傷んでいました。ソラは、マロンの爪も傷んでいるだろうと考えていました。マロンは一心に土を掘り、叢に投げていたのです。
ソラは、淀みのない水に体を深く浸します。こういう時、ソラは、体が水の中で徐々に消えるような気がします。そうしたら、いつもは見えない塊がその重みを伝えてきます。ソラは、それこそが心の正体だと思うのです。
ソラは、以前、ガールフレンドのミナと大笑いしたことを思い出しました。ミナが「あなたって、ふふふ、詩人ね」とソラを面白がるのです。
「今も、ミナは、笑うだろうな」と、ソラは楽しそうです。
チクは、盛り上がった筋肉を丁寧に伸ばしています。ソラとチクは、水浴びの間、何も言葉を交わしませんでした。チクは気の済むまで泳ぎ回り、ソラは心というものを感じていました。
マロンは、ソラとチクに体を洗いに行こうと誘われましたが、一緒に行きませんでした。マロンは台所で手を洗っています。その時、ココと目が合いました。マロンは、顔をわざと反らしました。マロンは、少し前から「こんなことになったのも、ココとの約束のせいだ」と呟いていました。それが、ずっと耳に残り、繰り返されています。マロンが手を洗い終わり、後ろを向くと、心配そうな目をしたポポがいました。
「マロン、怖かった?」
ポポが聞きます。マロンは、一度だけ頷きました。マロンはポポの優しさが嬉しかったのですが、直ぐにうるさそうにポポを追い払いました。ポポはそれに不服そうです。いつものマロンのようではありませんでした。そのまま、マロンは自分の部屋に入ってしまいました。ココは、ポポに「そっとしておこうよ」と言い、ハシバミの実を食べるように勧めました。ポポは、「要らない」と言い、居間の隅にうずくまりました。ココは、食卓の椅子に背中を丸めて座っていました。ハシバミの実を口に入れましたが、もう美味しくはありませんでした。ココは、マロンがハシバミの実が好きなことを思い、二粒の実を手に取りました。
ココはマロンの部屋の前で考えています。今、マロンと話をするべきだろうかと迷うのです。「トントン」とココがドアを叩く音を真似てみました。普段は何も言わずに部屋に入ります。でも、ココはマロンを遠く感じていました。マロンは何も答えません。
「やっぱりな」
ココは、内心で呟きました。ココは、マロンが何に怒っているのかを知っていました。これは、いつもの喧嘩とは違います。ココは、このまま自分が黙っているのは卑怯すぎると思いました。一歩、部屋に入ります。
「なんの用だ?くるな」
マロンがココを睨みます。マロンは、ベッドに座っていました。マロンは、見せたことのない怖い目つきをしています。ココはマロンの側に少しずつ近づきました。
「それ以上、近づいたら、蹴り飛ばすぞ」
それを聞いて、ココの足が止まりました。マロンの向かいには、ポポのベッドがあります。ココは、ポポのベッドに腰を掛けました。
「ちぇ」と、マロンは舌を鳴らし寝転がります。
見えるところにココがいるのが気に食わないのです。ココが思い切って言いました。
「ごめん、マロン」
聞こえないような声でしたが、マロンには届いていました。でも、マロンは天井ばかりを見ています。
「マロン、ハシバミの実、、持ってきた」と、ココは2つ実を差し出します。
ココは、マロンが一つ手に取ってくれるのを待ちました。マロンが許してくれるのを願って、掌の実が揺れました。
「いっしょに、食べない?」
マロンは、頬をひきつらせて言いました。
「よく言うよな」
マロンが起き上がりました。マロンの細い目は、吊り上がっています。
「お前のせいで、森で見張りをしたんだぞ」
ココは、顔を伏せました。
「父さんは、僕を守って死ぬんだ」とマロンは大人のような口調で言います。ココは、慌てて顔を上げて、言い返しました。
「父さんは、死なないよ」
「お前、見てないだろ。あんなに血を流したんだぞ」と、マロンが腕を大きく振ります。
マロンは悲しみが込み上げてくるようで、顔を真っ赤にしながら言います。今まで、誰も言わないけれど、自分が一番よくわかっていることを口に出し始めます。
「とうさんは、、父さんは、さ」
マロンの目に涙があふれてきました。
「僕のせいで」と言い、息を吸いました。
次の言葉が詰まるようで、顔を歪めます。
「死ぬんだ」と吐き出すように言いました。
驚くココを睨み、鼻水を手で拭います。
「お前なんか、だいっ嫌いだ、もう話しかけるな」
マロンは、咽喉につっかえていたものをようやく吐き出せた顔をしていました。ココは、自分がしてしまったことの大きさで目に涙をためています。マロンは、むせぶように泣き続けています。ココは逃げるようにして部屋を出ました。
部屋の入口の影にソラが立っていました。ソラは、身体を洗ってすっきりした様子です。ココはソラを見て、「しまった」という顔をしました。今の話を聞かれたくなかったのです。ソラは、ココの頭に手を置いて、「すぐ仲直りできる」と小声で言いました。ソラに向こうに行くように促されて、ココは泣きながら歩き出しました。もうマロンと仲直りができないかもしれないと思うと、ココの涙は止まりませんでした。暫くしてから、ソラがマロンの部屋に入って行きました。
床には、ハシバミの実が寂し気に落ちています。ソラは、その二粒を拾いあげ、マロンの隣に座りました。ハシバミの実に息を吹きかけ、マロンにその一つを差し出します。マロンが面倒くさそうに受け取りました。ソラはもう一つの実を大きく上に放り投げました。そして、落ちてきた実を口の中に入れました。カリカリといい音が響きます。ソラは美味しそうに噛み砕いています。マロンは実を握りしめ、涙を拭いていました。父さんとココを傷つけてしまったことが苦しくて仕方ないのです。ソラは、マロンが可哀想でした。マロンの背を叩き、「マロン、マロンのせいじゃない。森はね、そういう危ないところなんだよ」と言って聞かせます。「父さんは、僕の為にも、チクの為にだってそうするよ」それから、ソラは、ココとの償いの約束について聞きました。ソラは、マロンがブナの樹に行っていた理由がよくわかりました。ソラは、「うん、うん」と相槌を打ちながら、マロンの話に耳を傾けました。
ゆっくりと、一呼吸して、ソラが言います。
「父さんは、死なない。赤珠もあるだろ。今年は、6粒だよ」
マロンは涙の目をこすり、ソラを見つめます。
「赤珠は、特別な力があるんだぞ」と、ソラがマロンの目を覗き込みます。
「だから、大丈夫だ」
マロンはソラを信じて、強く頷きました。マロンの心に小さな光が灯りました。




