「1章-第7話:働くことは糧ること」
第17コンテナ街区画にある仮設の医療ブースは、昼を過ぎても人の出入りが絶えなかった。わずかに薬品と金属の匂いが混じる簡素な診察室。サイラスは白衣をまとい、診察台に座る老爺の顔を覗き込んでいた。
「ここ数日、めまいと吐き気、それに夜間の発汗……?」
老爺はくしゃっとした顔をしながら、腰に手をやった。
「腰が痛むのもな、昔の傷がうずくような感じでなあ」
「発熱は?」
「少し。あと、朝方になると体が重くて……」
ノーアは聴診器を手にしたまま、興味深げに身を乗り出す。隣ではリディアが診察記録端末を操作しつつ、険しい表情で患者の履歴を確認していた。
「リディア、この地域のGPレベル、今朝は?」
「0.9。第2区画の余波みたい」
「……精神汚染の可能性は?」
「ありうる。ただ、炎症反応がそこまで強くない。問題は“記憶混濁”がないこと。初期フェーズなら辻褄は合うけど」
「――でも、投薬は外せないな。胃粘膜保護、抗ストレス剤、それと……」
サイラスが処方内容を口にする間、ユリウスは診療記録の端末に視線を落としたままだった。彼は一言も発さず、ただ指を止め、静かに何かを待つような雰囲気を纏っている。
「ビタミン系を足してGPの共振を弱める構成でいいはず。神経への干渉が軽ければ、自然排出で回復に向かうと思う」
リディアが静かに提案し、サイラスは短くうなずいた。
「……同意する」
空気がわずかに変わる。治療の方針が確定されたことで、場の緊張が和らいだのかもしれない。
「じゃあ、処方はその三点構成でいこう。リディア、投薬セットAを頼む」
リディアは小さく頷き、端末に処方コードを打ち込む。淡々と動く彼女とサイラスの姿には、どこか毅然とした強さがあった。
診療が終わり、器具を片づける二人の白衣が、ひときわ眩しく見えた。
その光景の中で、ノーアは静かに考えていた。
(わかってはいたけど……あこがれや、経済的な嫉妬があったけど……医者の家系に生まれたやつらの苦悩や挫折、少しわかった気がする)
(はっきり言って、こんなやり取り、本当に自分にできるだろうか……? 記憶力が悪くて、多くの挫折を味わって、多くの時間を無駄にして……)
(その残ったものにしがみついて生きた結果、前世では――俺は、自分のいるべき場所から、追い出されたんだ)
「……ノーア、ノーア?」
ぼんやりと考え込む弟の肩を、リディアが軽く叩く。
「姉さん……ごめん……」
「……どうしたのよ、ぼーっとして? 終わったよ、今日の仕事」
リディアはニコリと笑う。普段なら“姉さま”と呼ぶ弟が、思わず漏らした言葉に、彼女はふと違和感を覚えたようだった。
「姉さま……ごめん……」
ノーアは、もう一度つぶやいた。
「さあ、昼飯いくよ!」
リディアは明るく笑って、弟の背をポンと叩いた。
「よし、今日は“マック”にでも行くか!!」
サイラスが満面の笑みで声を上げる。
「よっしゃ!」
リディアが拳を突き上げて応える。
「マ・ッ・ク?」
ノーアは、やや呆けた声でそれを繰り返した。
第17コンテナ街。そこは金属と油の匂いが入り混じる、雑多でどこか懐かしい雰囲気の食堂街だった。
無数の屋台や小さな店舗が迷路のように並び、鉄板焼きの音やスパイスの香りが入り交じるなか、ノーアたちはその一角を歩いていた。
(……この世界にも、あるのか?!)
驚きのあまり思考が止まるノーアの目に、サイラスが曲がり角をすっと入り、ある店の扉を押し開ける姿が映る。
「では我々はここで警備に入ります」
同行していた兵士の一人、バスティアン伍長が敬礼すると、部下たちとともに店舗の脇に立ち位置を取る。
「頼んだよ、伍長」
そう返したサイラスの頭上には、大きな看板が掲げられていた。
「“マック&クック”?!」
そのロゴを見て、ノーアは声を上げそうになった。どこか既視感のある、あまりに“それっぽい”雰囲気に、興奮すら覚えていた。
「おまちどうさまです! 緑のベレー帽の兵隊さんセットになりますっ!」
威勢の良い声とともに、女性スタッフが木のトレイを差し出す。その上には、両手で抱えたくなるほど巨大なバーガー。
横に添えられたふかふかのバンズ。そしてパティの上には、緑のアボカドがまるごと一個──圧倒的な存在感で鎮座していた。
「うわー美味そう!」
思わず前のめりになりかけるノーアだったが、すぐに姿勢を正す。祈りの時間を待つべきだという意識が、体を止めた。
「では……」
「糧るっ!!」
サイラスとリディアが、まるで儀式のように声を揃える。
(おいおい、祈りどおした没落貴族?! それどころじゃねー、今は……)
「糧ります!」
腹の底から叫ぶように言い放つと、ノーアは勢いよくかぶりついた。口の端にソースをべっとりとつけたまま、夢中で頬張る姿は貴族とは思えない。
「糧ります?! なにそれ(笑)」
リディアが笑いながら、ナプキンでノーアの口元をぬぐってやる。
「父さんはね、こうして民の文化や風習を実践することで、そのソールを理解しようとしてるの」
「“虎穴に入らずんば虎子を得ず”ってやつね」
「それを言うなら、“足を運ばねば、土の匂いはわからぬ”だろ」
ユリウスが口を挟み、自分のハンバーガーにナイフを入れる。赤いベレー帽を模した“兵隊さんセット”のパティは、見た目にも明らかに辛そうだった。
「ノーア、そっちも食べたいんだね! ちょっとお姉さん? お皿もらえる?」
スタッフから追加の皿が届くと、リディアは何の遠慮もなくユリウスのバーガーを半分に切り、ノーアの前に差し出した。
「これ、どうぞ♪」
その笑顔には、どこか意地悪な余裕があった。だがノーアはその意味を深く考えることもなく、うれしそうに口を開けた。
「かれーーーーーっ!!」
口の中で爆発した激辛スパイスに、ノーアの喉が焼けつく。
「そうそう、赤帽子はカプサイシン入りでした(笑)ねっ? 土の匂い、したでしょ?」
水をがぶ飲みしながら涙目のノーアを見て、リディアは楽しそうに肩を揺らして笑った。
ふと、ノーアは卓上のお皿の数に目をやった。
「あれ、なんかお皿……四枚来てない?」
「ちょっともらいすぎちゃったね。悪いことしちゃったかな……」
「そうでもないさ」
サイラスはバーガーを手に取りながら、静かに言葉を続けた。
「たとえ使わなかったとしても、余分なお皿があることで得られる安心感はある。たったそれだけのことで、心に余裕が生まれるのなら──」
「その分だけ、人の優しさを受け取ったと考えればいい」
「そしてそれが糧となって、明日の意欲に変わるのなら、決して無意味ではないさ」
(……他人を見ることで、自分の知らない何かに気づかされる……?)
(……皿の話、なんかわかるかも……)
サイラスとリディア。二人の在り方から、ほんの少しだけ“働く”ということの意味が見えた気がして、ノーアはそっと息をついた。