「1章-第5話:思いの力」
談話室では、穏やかなひとときが流れていた。
サイラスとユリウスは、年季の入った本物のクラシックチェス盤を前に、静かに駒を動かし合っている。革張りの椅子に身を預け、グラスの中で琥珀色の液体を揺らすその姿は、まるで時間すらゆったりと歩んでいるようだった。
一方で、その傍らにはまるで世界のテンポが違う人物がいた。リディアはリングデバイスを装着した手を何度も振りながら、画面の中の牛たちを追いかけていた。
「んも~っ、また牛執事でなかったよ……これ本当に出現率あってんの?」
彼女がプレイしているのは、人気牧場かくれんぼ系のゲームアプリ『パラダイス・カウズ』。牛たちの中に紛れて現れる“牛執事”という激レアキャラを追い求めるその様は、どう見ても貴族の姿とは思えない。
(まあガチャの出現率なんて、無課金者には出ないように数値的にいじってるからな……そりゃ渋いわけよ。でもあんた、一応貴族だよね?)
呆れ混じりの思いを胸に、ノーアはソファの背にもたれて姉のプレイを見守っていた。
「そういえばさ、姉さま。おはぎの由来って知ってる?」
ぽつりと投げかけた言葉に、姉は目を見開いた。
「え! そんなことも知らなかったの?! じゃノーア、あんたただの“半殺し”じゃんっ! がははははっ!」
その豪快な笑いに、サイラスもつられて吹き出す。
「ぷっぷっ……」
(んだあこの家族のこの態度は~……っ!)
憤りながらも、どこかあたたかな気配に包まれるノーア。やがて姉がふにゃりとした顔で、腕を広げるようにして近づいてきた。
「ごめんごめん、許しておくれよノーア~」
(……こいつ、完全に有頂天になってやがる)
そんな心の声を余所に、リディアはさらに得意げな顔で言った。
「んじゃ、優しいお姉さまが――さらにおはぎにまつわる伝説を教えて差し上げましょう!」
胸を張り、得意満面で話し始めるリディア。その口元には、今にも語り出さんとする物語の気配が宿っていた。
室内を照らすのは、揺らめく魔力ランプと燭台のやさしい火。カーテン越しに差し込む月の光が、淡い影を床に落としていた。
家族を包むその静けさのなかで、リディアが語り出した。
「その昔ね……命を刈り取る“あいつら”がやってきたの。トウモロコシの精霊が怒るほどに……」
静かに、しかしどこか芝居がかった口調で、彼女は続ける。
「黒い羽音が空を埋め尽くして、畑も街も、人の命までも喰らいつくした」
(……空気が、変わった)
ノーアの胸の奥で、何かがそっと息を潜めた。
キアが椅子から立ち上がる。何も言わずに、すっと部屋を後にした。
「……人々は音に怯え、街はゴーストタウンみたいになってさ。月の照らす田園は、不気味なほど静かだった。一度見たら、もう二度と忘れられないあの夜の静寂──」
リディアの声に、誰もが耳を傾ける。
「血の匂いに集まる、羽音の悪魔。命を吸い、心を奪う。“これは本当に神が望んだ世界なのか……”って、誰もがそう思った」
誰かが小さく息を呑んだ。
重く、沈黙が落ちる。
ノーアは気づいていた。さっきまで笑っていた姉の目が、ほんのわずかに揺れていることに。
そして――
「──ま、私は映画で観ただけだけどねっ」
「ちょっと待って! 結局どうやって終わったの!?」
ノーアが慌てて詰め寄る。
「うーん、でもね……本人には全く似てなかったんだけどさ」
「え、まさか……」
「そう! ばあちゃん──“キア・ファルネイラ”。終わらせた張本人……伝説の人、その人なんだよ」
リディアはどこか誇らしげに語った後、ふと周囲を見回す。
「……あれ? いない?」
「……ルフェルト連邦全域でのイナゴ型クリーチャーの大量発生。作物壊滅、都市機能の崩壊、史上最悪の被害。……だが、ファルネイラ郷だけは、最後まで持ちこたえた」
ユリウスが静かに言葉を紡いだ。
「……お義母さまが畑の小屋で作っていたのは、ただのお団子だったの。でもね、それを食べた人たちだけが、不思議と……正気を保てていた」
アマーリエの声も、夜の静けさに溶け込むようだった。
「……おはぎ……?」
ノーアがつぶやくと、リディアがにやりと笑う。
「そう、そのおはぎだよ、半殺し坊や」
「本当に偶然だったのかもしれない。ただ、体質に合っただけだったのかも……でも──」
アマーリエはそっと目を伏せた。
「それ以来、お義母さまの近くには、イナゴが寄りつかなくなったの。どれだけ群れが迫っても、そこだけぽっかりと空が空いていたのよ」
(誰にもわからなかった。でも──ばあちゃんだけは、知ってたんだ。“何か”に、触れていたから──)
「記録には残っていない。ただ、被害の少なかった集落が“ファルネイラ郷”だった──軍やARCでは気づけなかった真実が、そこにあった」
ユリウスが、淡々とした口調のまま言った。
「……夜通し団子を作っていた母の姿を、私は聞き伝えでしか知らない。だが、そこには執念も悲壮感もなかったらしい。まるで、それが“当たり前のこと”であるかのように──」
サイラスはゆっくりと目を伏せた。
「……それ以来、母は無口になったという。……私は、“悪魔に魂を売ることで願いを叶える”という逸話も……あながち、嘘ではない気がしている」
ノーアは手元の団子をひと口かじった。ほんのり甘く、でも……どこか、苦味が残った。
(ばあちゃんの静かな背中が、なぜか胸に残って離れなかった)
(忘れられない夜の静寂が、今は、さまよう魂を安息へと導いているように思えた──)
窓の外、オレンジの光が静かに消えていく。
ファルネイラ邸の中から、誰かのやさしい声が微かに響いてくる。
夜の静寂が、そっと家を包み込んでいた。