「1章-第4話:森を観る目」
裏の森。その入り口に立つノーアは、今日の“装備”にどこか満足げな顔をしていた。
いつもは膝を出した半ズボンに貴族らしいラフな格好だが、今日は長ズボンを履き、首にはひんやり巻きを巻きつけ、頭には麦わら帽子。完璧な野外仕様だ。
「よしっと……装備は命。では、まいりますよ」
カーラが笑みを浮かべながら手袋をはめる。ノーアの家庭教師である彼女は、書斎で講義をするユリウスとは対照的に、体験と実地を重んじる教え方をする。それが、ノーアには心地よかった。
林の中をゆっくりと進む二人。草木に囲まれた小道には涼やかな風が流れ、木漏れ日がスポットライトのように揺れていた。
「今日はシェルレア草、ヴァンカ根、ナミラの苔について教えます」
カーラはふと立ち止まり、足元を指さす。
「ほら、足元に見える石についてるこの苔」
「ほんとだ!よく木陰でみるやつ」
「そう。これがナミラの苔です」
そう言って、カーラは苔を優しくむしり取り、指先で軽くもみほぐすと、岩場で転んで擦りむいていたノーアの膝に、ためらいなくすり込んだ。
「こうやって苔をすりこむことで、傷の治癒促進や止血に使えるんですよ」
「こんな身近に……すごっ」
余った苔をふっと払い、カーラは立ち上がった。
「さてと……まだ薬草の知識がないノーアには少し早いかもしれませんが、今あなたには何が見えますか?」
「うーん……草とか木とか、自分には見分けつかないから、それぞれ違った形がして違う植物なんだろうし、虫にもきっと良い影響を与えてるんだろうな……」
その言葉に、カーラは驚いたようにまばたきをした。
「……えっ!あなたの年齢にしては、とても良い目ですね」
(あっ、ちょっと思ったこと言いすぎたかな……)
ノーアが小さく肩をすくめるのを見て、カーラはくすっと笑った。まるで自然と一体化しているかのような、すがすがしい笑顔だった。
「目の中に光景が入っていても、見ているもの自体に変化はないのですけれど、人間は、勝手に入ってきたものをベースに演算してしまっているのです」
カーラの口調はどこまでも柔らかい。
「それで薬草があっちにあるとか、風向きとか、匂いとか……すべての無意識の情報を確認すること。実はそれこそが、ゴールへの近道なのです」
ふと、ノーアの意識が遠のいた。
木洩れ陽の揺れる林の中、湿った土の香りと薬草の気配に包まれながら、彼の心は、どこか遥か昔の景色へと引き戻されていた。
高層ビルが立ち並ぶ街。その中でもひときわ高く、空に刺さるようにそびえる超高層ビルに向かって、幼い自分は母と手をつないで歩いていた。
「どうしたの?」
優しく、けれど少し不思議そうに、母が尋ねる。前をじっと見つめる息子の表情が、何かを言いたげだったからだ。
「……大きいはずのビルが、なぜ目の中にあるのっ?」
その声は、無垢な疑問だった。あれほど巨大なビルが、どうしてこんなに小さく“目の中”に収まるのか。その問いは、子供らしい直感の形で、世界の認識そのものを揺さぶっていた。
——信じていた世界が違っていた、この感覚……
人の経験、思いが繋がっていく……本当の世界は、自分の中にある?
常識こそが人の可能性を奪い、常にそれなしでは社会として生きにくい枷が、真実を縛る……
すでに欲しいもの——情報は、目に入っている。自分を信じて進んでみるか……
「そっか!それって……自分が欲しくて目に入れ込んだものでなく、自然が勝手に生きるために取り込んでくれてるのかも!」
その瞬間——。
『……ガ ガ ガ…… ニ ン チ…… ガ ガ…… プ デ…… ガ ガ…… カ ン リョ ウ……』
視界の奥で閃光のようなノイズが走り、脳内に走る微細な振動が、点と点を繋いでいく。言葉にできない何かが、脳の奥で起きていた。
「あら、どうしました?」
カーラの声が、ノーアを“今”へと引き戻す。
「ごめん、カーラの話が難しくて……てへへ」
そう笑って誤魔化すが、内心では確信に近いものが渦巻いていた。
カーラの言ってた“無意識の情報”って、これ……かも
カーラはじっとノーアを見つめていた。なにかを察したように、その表情は微かに揺れている。
それ以上は何も言わず、二人はまた林の奥へと足を進めた。
やがて、ノーアが立ち止まって草むらを見下ろした。
「これ、なかったよね?」
その言葉に、カーラが目を見開く。
「うそ……」
一瞬、動揺を見せたが、すぐに態度を切り替えた。
「えっ……あ、あー、ノーア、すごいよ!それがヴァンカ根だよ!」
カーラは地面を這うようにして生えた紫褐色の根に手を伸ばし、声を弾ませる。
「精錬度の高い薬植見でも、これを見つけるのは難しいんだよ。ノーアには、とんでもない才能があるよ!!……もしかして、A級のスクリプト持ちだったりして!」
嬉しさを隠しきれず、彼女は微笑んだ。
風が梢を揺らし、光が葉の隙間から落ちてくる。
森が、彼らを見守るように静かに揺れていた。
牛小屋の夕暮れは、しんと静かだった。
干し草の香りが満ちた小屋の中で、ノーアは小さな体を使ってせっせと干し草をかき集めていた。
「これで良しっと」
手を払って腰を伸ばすと、身体の芯からじんわりと疲労が押し寄せてくる。
(ふー……晩酌に一杯行きたいとこだぜ。まあ、下戸のおれには“お供”が最高の楽しみだったな……枝豆、柿ピー。でも和牛弁当もいいんだよな……)
そんなことを考えながら、ふと目をやると、牛の一頭と視線が合った。
(あれ、この牛は何ランク? オージー? なんだろ……)
じゅる、と口の端からよだれが垂れそうになる。
「モーモー……」
危機感を察知したのか、牛が小さく後ずさった。
「坊ちゃん、お疲れさん。いつもありがとね」
背後からオルゴが干し草フォークを受け取る。
「オルゴもお疲れ様! ありがとうございました」
小屋の扉を開けると、夜風が冷んやりと肌を撫でた。
仕事の締めくくりは、やっぱり風呂。
庭の一角にある簡易風呂へ向かう途中、ノーアは足を止めて空を見上げた。
(長い時間、それだけが至福の時だった気がするな……でも、ここの食事は日本の食べ物に比べると味気ないけど、素材感があって今は落ち着くな)
(エナジードリンクやジャンクばかりの時代を超えて、行き着いた境地かな……あれ?)
ツーーーーッ。
遠くからエンジン音が滑り込むように聞こえた。
門の前にARCの車両がゆっくりと停まり、静かにドアが開く。
先に降りてきたのはユラ。そしてそのあとに続いて、スーツ姿のサイラスと、疲れた様子のリディアが現れた。
二人が門をくぐると、ノーアに気づく。
「ノーア!! ただいモ〜!」
叫びながら走り寄るリディアが抱きつき、プレートがごつんとぶつかる。
「お帰り〜姉さま……」
胸の中から解放されると、ノーアはそのままサイラスに視線を向けた。
「お帰りなさい、父上」
門の外では、別れのやりとりが行われていた。
「お疲れ様でした」
車両の横に立つARC兵士が一礼する。
「お疲れさまでした。報告書一式は、後日領主様を通じて正式に提出いたします」
そう応じたユラの所作は、まるで儀式のように凛としていた。
風呂場の前、タオルを持って立ち止まる。
ノーアはアマーリエから受け取ったふかふかのタオルを手に、廊下の突き当たりの扉の前で足を止めていた。
カツン。
床に転がったプレートがまだ乾いていない音を立てる。その横には、脱ぎ捨てられたままのロングスカート。
扉の向こうからは、小さな鼻歌と、シャワーの跳ねる音が聞こえてくる。
(お疲れ様……)
ノーアはそっと微笑み、タオルを扉の前に置くと、鼻歌を真似して小さく口ずさみながら、その場を後にした。
夕暮れの食卓は、今日もにぎやかだった。
「鉱山奥で複数のクリーチャーが生息していたらしく、討伐に成功したものの三名の兵士が精神神経系の錯乱状態に陥っていた」
静かに語るサイラスの声に、食卓の空気が一瞬だけ引き締まる。
「傷ついた兵士も多く、大変な状況ではあったが、死者は出なかったらしい。とても幸運なことだ」
みんながホッと胸をなで下ろす。
アマーリエは静かに胸に手を当てて、目を伏せた。
空調の微かな唸りだけが支配する静寂の通路。その最奥に、一際重厚な金属扉が鎮座していた。
表面は光を反射しないマット仕上げで、まるで吸い込まれるような質感。その中央に、無駄のない端正な文字が浮かび上がっている。
《Ark Regulation Command 第七医療室》
中からは、くぐもった声と、スライドをめくる電子音が漏れ聞こえていた。
サイラスは躊躇なく、ノックもせず扉を開ける。途端に、室内の照明が切り替わり、投影装置がスクリーンに立体的な神経断面図を映し出した。
手術前のブリーフィングが始まっていた。
「今回の症例は“G型クリーチャー性神経撹乱”だ。」
開口一番、サイラスが告げる。
机上には、異物と見られる組織モデルや神経信号の反応パターンが複数投影されていた。ARCの記録係が静かに手元の端末を操作し、要点を逐一記録していく。
「コイルの同調率が低いです。異物が神経核に絡んでいるようです」
モニタを見つめながら、医療技師が慎重に言った。
「外科処置で取り出すのは不可能……父さん、どうするの?」
隣に立つリディアが、重く問いかける。
サイラスは無表情のままスクリーンを見据えた。
「削除じゃない。“干渉性無視”で逃がす。局所スキャンと同調コイルを併用して、“神経を騙して”通すしかない」
「……それ、本当に通るんですか?」
技師長が思わず口を挟む。
「通らなきゃ、通すしかないでしょ」
「えっ!?」
思わず声を上げた技師長が、食い下がるように前へ出る。
「理論上、“干渉性無視”は可能です。でも、もし異物が意識野まで侵入していたら……対象は廃人になります!」
その言葉にも、サイラスの声音に揺らぎはなかった。
「そのギリギリで、戻す。それが私がここにいる理由なんだよ。君は与えられた役目に集中してほしい」
室内の空気が、少しだけ張り詰めた。
日が落ち、食卓に明かりが灯る。暖かい湯気と笑い声が、ファルネイラ邸の食堂を包んでいた。
「本当に、お疲れさまでした」
アマーリエが、しみじみとした口調でそう言うと、リディアは胸を張って言い返す。
「でもさ……あたしも、結構役に立ったよね?」
サイラスが眉をひそめ、手元のカップに視線を落としながら答える。
「役に立つも何も、医療チームが一人ミスったらそれでおじゃんだよ?」
「?!」
リディアが固まる。その顔に、サイラスはふっと笑みを浮かべた。
「……そう、お前は充分、人の命を救ったのさ」
「そうだよね」
リディアも笑顔を返す。その横顔は、まるで春先に咲いた花のように誇らしげだった。
(姉は嬉しそうで何よりだ)
(自分も医者の家系として、科学の領域に踏み込む資格があるのだろうか)
(嬉しさもあるけど、父さんや姉さんの背中は……前の人生と同じように、やっぱり遠い)
ふと、そんな考えがノーアの胸をかすめた。目の前の光景はにぎやかで、それだけに、自分の孤独が輪郭を持って浮かび上がる。
「ロスヴァン家の鉱山坊や、あれ絶対ムカつくタイプだよね!」
思考を遮るように、リディアが唐突に声を上げた。ノーアの方をちらりと見て、わざとらしく言葉を続ける。
「あの陰険そうな面と目……う~ん、いけすかん!」
「まあ、そう言うなって……」
サイラスが苦笑まじりに言葉を継いだ。
「ああ見えてアディールも、毎年秋には領地の孤児院に寄付してるし、現場主義者で民との距離も近い。一国の主として、民に慕われる領主なんだ」
「えーなにそれ!? きもっ!」
リディアの心のこもった拒絶に、ノーアは思わず吹き出してしまった。
「……ぶはっ!」
隠し事のない、肩の力が抜けた空気。つい、自分が“子供”ではなく、“転生者”であることを忘れてしまうほどに。
外を見ると、ファルネイラ邸の窓がオレンジ色に光っていた。そこからこぼれる笑い声が、夜の静けさにやさしく滲んでいた。