「3章-第10話:逃げ場のない夜」
応接室のある棟と、寝室や医療室のある棟をつなぐ野外の屋根付き通路に、少し前に響いた爆音の余韻が、まだ空気に残っていた。
その音を受けて警戒を強めた医療班の面々は、通路の両端にある柱へと咄嗟に身を隠し、何が起きたのかをうかがっていた。
やがて、建物の奥から誰かの足音が響いてきた。
それは、ティリスだった。
走ってきた彼女は人の気配を察知し、すぐさま対面の柱に身を寄せる。気配に緊張が走った瞬間、柱の陰から男の声が上がった。
「ARC医療班です!」
そう名乗ったのは、エルノだった。
彼だけが銃を下ろし、通路の中央に一歩踏み出す。その姿を確認したティリスも警戒を解き、ゆっくりと歩み寄る。
「カーロが時間を稼いでる。その隙に逃げるんだ」
ティリスは息を整えながら言った。
「銃器は使うな。P.D.ガスが使われてる」
エルノの目が、ティリスの顔に滲んだ血に気づいた。
「その怪我……ノーア」
名を呼ばれると、ノーアは無言で背負っていたバックパックを下ろす。エルノはすぐに医療道具を取り出し、治療の準備に入った。
「な、何がどうなってるんですか?敵襲ですか?」
慌てて尋ねるコルンの声をよそに、エルノは迅速に処置を始める。消毒液を含ませた布で血を拭い、ガードをかぶせた後、包帯を斜めに巻いていく。
「装備を整え次第、すぐに隠れるんだ」
ティリスが再び指示を飛ばす。
「役人たちが攻撃を仕掛けてきた。一人は隊長が仕留めたが、監査官は間違いなく手練れ……今の戦力じゃ命はない」
(監査官って……レノさんが?)
ノーアの頭に疑問が浮かぶ。
「すまない、俺は患者を置いていけない」
エルノの発言に、ティリスが目を細めた。
「……命あっての医療だからな。逃げる判断は正しい。だが、俺には……守る命がある」
「患者は、俺に任せろ」
そう言って、エルノはノーアの背中に目を向けた。
「ノーア、中を見せてくれ」
ノーアは無言でうなずき、いったん背負い直していたバックパックを再び下ろす。
留め具を外し、開口部を大きく開いて、中身が見えるように向けた。
「軍曹……お願いしても?」
エルノは躊躇なく手を伸ばし、包帯、止血剤、消毒液……最低限必要な道具を手早く選び出していく。
それらをコンパクトなケースに収め終えると、小脇に抱え直した。
「了解した……ご武運を」
ティリスはそう言って敬礼を送ると、静かに付け加えた。
「必ず迎えに戻ります。」
エルノは敬礼を返し、迷いなく身を翻すと、足早に医療室のほうへと戻っていった。
残された四人は、逃げ道を探しながらも、今この場で何を選ぶべきかを必死に考えていた。
「くそ! どうすれば……」
コルンが呻く。
「おそらく、敵はティリスさんの血痕を追ってここに来ます」
マルタが冷静に言う。
「幸い、ここは応接室と医療室の中間。食堂に抜けて庭を経由すれば、村に戻れるはず」
「それだ。あたしの血痕をたどらせて村に向かわせれば、医療室には来ないはずだ。それに、この暗闇なら兵長と合流できれば、あいつを仕留められるかもしれない」
ティリスの声に、一瞬だけ安堵の色が混じった、そのときだった。
ノーアの視線が、彼女の背後に向かって固まる。
「レノさん……?」
血まみれのシャルドが、そこに立っていた。
「えっ……?! なんで……?」
「敵!」
コルンが叫び、ナイフを手に突進する。
だが、次の瞬間――彼の腕が宙を舞った。
「それでも兵士かよ?」
冷徹な声が通路に響く。
「逃げろーーー!!」
ティリスが怒鳴った。
(この状況で……何を言ってるんだ、ティリスさんは?)
ノーアは呆然と立ち尽くす。
その手を、マルタが強く握り、無理やり走り出す。
背後では、ティリスがマチェットを大きく振りかざし、シャルドに斬りかかる。
だがその一撃は受け流され、反撃の刃が彼女の肩を裂いた。
それでも、ティリスは歯を食いしばってもう一度踏み込み、二撃目を繰り出す。
だが、その腕を狙っていたかのようにシャルドが動く。
次の瞬間、彼女の右肘が弾け飛ぶように砕かれ、バランスを崩したところへ、足払い。
背中を地面に叩きつけられたティリスに、容赦のない拳が振り下ろされる。
彼女の顔は、腫れ上がり、原形を留めていなかった。
血まみれの彼女を見下ろし、シャルド――いや、レノは、ようやく興奮を抑えるように深く息を吐く。
「……なぜ殺さない?」
ティリスが問う。
「女だから……か? あの男の性が出ちまったな……まあいい。全員潰すのは手間だ、退くか」
無慈悲な声。
ティリスは、血の混じった唾をレノの足元に吐きつけた。
「くたばれ……」
その瞬間、爆発が起きる。レノは倒れた死体を盾にして爆風を防ぐも、破片で負傷する。
「……気が変わった」
彼は満面の笑みを浮かべた。
そして、逃げた二人の後を追い始めた。
シャルドが通ってきた小道の先には、知った顔の者たちの屍がいくつも転がっている。そのすべてが、無惨な死を遂げていた。吹きつける夜風の中に、まるで猛獣が解き放たれたような気配が漂っている。
整頓された厨房の一角――ノーアとマルタは、食器棚の陰に身を潜めていた。
調理台の上には整然と並べられた器具。さっきまで人の気配があったはずの空間が、今は異様なまでに静まり返っている。
新しい人たちと、新しい思い出を築きはじめた……そんな“楽しいはずの厨房”であるはずだった。
けれど今、この空間は異質なまでの沈黙に支配されている。
荒れた足音も、叫び声も、もう聞こえない。
だが、それが安堵を意味するわけではなかった。むしろ――“何も聞こえない”という静けさこそが、恐怖をより濃くする。
マルタはそっと身をかがめ、厨房の奥にある小窓から外をのぞいた。
丘の下――村の正面口の方には、かすかな明かりがちらついている。複数のランタンと人影。村人たちが、軍の施設があるほうへと移動しているようだった。爆音に誘導されたのだろう。
だが、そこにあるのは人のざわめき、呼びかけ、足音――生の気配だった。
それに比べて、この厨房の静けさは、あまりにも異常だった。
(いまの私たちは、野に放たれたネズミみたい。手を伸ばした先には自由が見えるのに、どこにも行けず、ただ息を潜めるばかり……まるで、自分がモルモットだったと気づいてしまったネズミのように感じる)
マルタは思わず、隣で身を固くしているノーアを見やった。
「……ここを出たら、一度花畑の庭にある小屋を経由して、裏手の森に向かう。そこから村の南縁をぐるっと回って、丘の下の合流地点まで出るわ」
ノーアがわずかにうなずいた。
マルタは彼の顔を見つめる。その頬に張りつく冷や汗も、震える肩も、すべてが痛いほど伝わってくる。
だからこそ、彼女は微笑んだ。
「怖くないからね、目を閉じて…」
マルタはそっと囁いた。その声は優しくも、どこか祈るような響きを持っていた。
(このままでは二人が死ぬのも時間の問題…若い未来の芽を、摘ませるわけにはいかない…)
マルタはノーアの手を握りかがんだ状態で食堂の外へと出ると壁越しによりかかる。
ノーアの目が揺れる。ふと頭をよぎるのは、くだらないとも言える思考だった。
(マルタさんが死んだら、俺はどうやって帰ればいいんだ…自分一人になっても詰んでしまうのでは……そうだ、車は? 前世で免許証とっておけばよかったのか? 姉さんのバギーと同じ感じでいけるのかな……)
少し混乱気味のノーアをよそに、マルタは黙したまま、小屋を見て思考を張り巡らせる。
(二人で走って、表のドアを閉めれば、その間に裏から逃げられるかもしれない。森の中へ……でも、今はやつがどこにいるのか全くわからない。)
(音がしない……みんな、もういないの? 主任も? 患者も? 私……見捨てたの? ……っ、しっかりしろ、マルタ……!)
この極限状態で、冷静な判断を保つのは困難だった。しかしノーアにとっては、医療班のマルタであっても“兵士”というだけで、その言葉が唯一の希望に思えた。
意を決した様子のマルタがそっと口を開く。
「1・2の3であそこの小屋まで走るよ。いいね? 私は背後からついていくから、安心して前を向いて走りなさい。わかった?」
ノーアは答えなかった。返事がないまま、肩がわずかに震えていた。
「わかったか、ノーア。」
マルタがそっと体を揺さぶる。
「?! わかった。」
「いくよ。1――2――の、3……!」
ノーアが走り出す。その背を守るように、マルタが後ろに続く――はずだった。
(あ、足が動かない……)
(え? このまま……囮にして、私……逃げるの……?)
その瞬間だった。
鋭い音とともに、ノーアの右足に激痛が走った。
「え?! 痛い…走れない、歩けないよマルタさん…!」
(マルタが……いないっ!!)
目が暗闇に慣れ、うっすらと一人の男の影が浮かび上がる。その背後に、マルタの姿はなかった。
「こんなとこでボーイスカウトが何をしてるんだ?―――マルタを呼んでくれたら、君を殺さずに済むかもしれない。……運がよければ、ね」
「知らない…知らないよ……」
次の瞬間、鈍い音が顎の下を直撃した。
痛みがじわじわと広がり、ノーアは両ほほを裂かれたことに気づいた。顎が、落ちそうになる。
「知らないんならお口チャックだ坊や。」
男――シャルドの声が、不気味なほど静かだった。
だがその時、突然、閃光が闇を裂いた。
(目が……見えない……何が……?)
(ごめん…いくよ、ノーア!)
耳元で、マルタの声がした。直後に、マルタがノーアの手を取り、肩へと担ぎ上げようとする。
「……ノーア、今度は……あなたが“自分自身を生かして”あげて……」
その声を最後に、マルタの手が離れていった。
やがて視界が戻る。だが、そこにあったのは――首のないマルタの胴体だった。
ノーアは開いたままの口を両腕で支えながら、ただそこに崩れ落ちた。
次の瞬間、頭の奥にノイズが走る。
『……ガ ガ ガ…… ニ ン チ…… ガ ガ…… プ デ…… ガ ガ…… カ ン リョ ウ……』
沈黙に包まれた村にも、あの時の機械音が響く。
パカーン!
空に向かってフレア弾が放たれる。真昼のように明るい閃光のなかで、ノーアと、それにナイフを突きつけるシャルドの姿がストロボのように浮かび上がる。
その光景を切り裂くように、突進する一台のバイク。
跳ね上がるタイヤ、瓦礫へと激突する瞬間。シャルドもろとも小屋に突っ込む。
リディアが駆け寄り、しゃべれないノーアの顎を布で縛って固定する。足を見て、すぐに肩を貸す。
「行ける?」
(姉さん!……?!姉さんの首に……線が見える? これってゲームの攻撃範囲?!)
煙の向こうから、稲妻のような一閃。リディアが不意を突かれた。
ノーアはとっさにその体を引き倒す。リディアの髪がわずかに散る。
「?!」
「ノーア……もしかして、見えるの?」
ノーアの目を見たリディアは、無言で背負い服をたすきのように縛って固定した。
「私の目になって指示を頂戴! 伝えようとするだけでいい。ここで殺る…」
リディアが腰のロングソードに手を伸ばし、鞘から静かに抜き放つ。
月明かりを受けて、一瞬だけ鞘に刻まれた家紋が光を返す。
――交差する二本の剣。その中心に刻まれた、実りを象徴するトウモロコシの穂。
それはまるで、いま刃を握る姉と、そこに託された弟のようだった。
(確かに見える! 次は右下腹部!)
姉の影が剣と共に揺れる。自分の悔しさも怒りも、その刃が代わりに振るってくれるかのように。
リディアのスクリプト――“ビーストリンク”。接触物とのバランスを保つための超感覚。今、この場で姉弟の心を一つにする。
「よし、行ける!」
シャルドの斬撃を回避し、カウンターに転じるリディア。しかし、読み違いに気づき身を引くも、その斬撃はすでに空を切っていた。
「なるほどね…ジャブのように二撃目の初作だけを磨き上げることで、一刀に見せかけたカウンターのカウンターってわけね。」
「どうやらただの猪ではなさそうだ……人を超えた領域。ふふっ。」
そう呟くシャルドの声には、油断ではなく、本物の警戒が混じっていた。
リディアは斬撃の間合いを読み、左足を引いて体をひねった。だが、その回避の直後、肩に走った痛みに顔をしかめた。
(なにやってるの私! 読みが甘かった?! 二撃目の軌道は変えられる?!)
シャルドの動きが変化する。斬撃のパターンが、ただの二連撃ではない。練り上げられたコンビネーション――。
その刹那、シャルドの刃が布のたすきを断ち切った。ノーアの体が宙に浮き、地面へと転がる。
リディアは迷うことなく、ノーアを蹴り飛ばした。
その一撃は、守るためではなく、「逃がす」ための蹴りだった。ノーアの体は花畑の中央へと転がり込む。
リディアはノーアめがけ全力で地を蹴った。花が舞い散り空へと跳ぶ。
その跳躍は、常人の域を超え、空を駆けるかのような動きだった。
シャルドは、それを追って駆け出した。ノーアの着地地点へ――まるで、その喉元を狙うように。
(小僧は囮。俺をその先へと誘い、上からの一撃で仕留めるつもりか……)
(……だが、俺に背を向けて逃げる小僧より、空中から来る女のほうが先に始末すべき標的だ)
(跳躍中は軌道を変えられない――ならば、この場で“読み勝つ”)
有利なポジションで刃を構え、シャルドは真上を見据えた。
(……?!おかしい!なぜ軌道を変えることのできない跳躍を奴は選んだ?何か違和感が…)
リディアの着地に合わせ、斬撃が走る。刃が一閃――しかし、その到達点で“止まった”。
月光を背に、ナイフの刃先を踏みつけるように、リディアがそこに立っていた。
手綱を握られた獣が指示を待つかのように止まり、
信じられないものを見たように、シャルドの目だけがわずかに揺れる。
ナイフの上、身をひねり、空中で回転するとともに花びらが舞う。
「なんとスイートな……」
シャルドの声が漏れる。
次の瞬間――
鋼の軌道が音を置いてゆく。
リディアの一撃が、正確に、首元へと叩き込まれた。
鮮血が、夜気に咲いた。
シャルドの体がぐらりと傾き、セレスティア草の咲き誇る丘に、崩れ落ちる。
彼の膝がつき、次いで体が倒れる。咲き乱れる花々が、その血を吸い、色を変えていく。
夜のとばりに迷い込んだ陽炎は、邪悪を残して、静かに消えていった。




