「3章-第9話:踏み外された道」
薄暗いゲスト室で、ナビラがディスプレイに向かい、まばたきも忘れたかのようにキーボードを叩いていた。
「──出たよ。」
低く、集中した声が沈黙を破る。
「ほとんどは正規軍の物資運搬。それと民間の食料車……」
間髪入れず、さらに情報が続く。
「ここ最近では、ARCの医療班と、国の役人が出入りしてるね。」
フェリクスの目が細められる。
「政府の役人について、詳しく。」
「都市保全局、外郭民間セクター監査部。役人が二名、今日の昼に到着して、そのまま今もナナシ村に滞在中……!?」
ナビラの声が一瞬わずかに揺れた。
フェリクスの反応は迅速だった。
「ARCの公式データベースで、その二人の顔認証を頼む。」
「──該当者は、なし。」
部屋の空気が一瞬静止する。
セルジュは思わず小さく息をついた。
「……問題ない、ってことでいいのか?」
「なるほど。」
フェリクスの声には、まだ油断がなかった。
「では、ヴェルセリオ共和国内の移住者リスト──そこでその役人の身元を再照会してくれ。」
「……でたよ。」
「顔画像を並べてくれ。」
ナビラが数秒後にスクリーンへ二つの顔画像を並べる。
並んだ二つの顔写真を見比べた瞬間、誰もが息を呑んだ。
「──顔が違う!」
「違うな……」
フェリクスは低く言い切る。
「どうやら──敵国の工作員の可能性が高い。」
その瞬間だった。
隣の寝室から、金属がわずかに軋むような音が響いた。
「?!」
フェリクスが鋭く顔を上げた。
「しまった……リディアだ!」
セルジュがすぐに動き、三人は寝室の扉を開けて中を覗き込む。
窓は開け放たれ、冷たい夜気が静かに吹き込んでいた。
次の瞬間、駐屯施設の外から──バイクの咆哮が轟く。
三階の窓から見下ろすと、路面には微かに立ち上る粉塵が残っていた。
遠ざかるテールランプの光が、見る間に闇へと吸い込まれていく。
誰も言葉を発さなかった。
交わされなかった問いと焦りだけが、ただ静かに部屋を駆け巡っていた。
板張りの床が軋むほどに静まり返った応接室の一角で、場の空気がわずかに揺れた。
若い書記の掌の上に、一羽の折り鶴が乗っていた。虹糖葉紙を冷やして遊んだせいか、白地に淡い光を帯びた折り鶴だった。
だが、その色が――じわり、と。
血が滲むように、赤く染まり始める。
白が紅へと変わり、命を蝕むかのように、折り鶴の胴から翼へと赤がゆっくりと広がっていく。
「……おじさん、怪我してるの?」
子供の無邪気な声に、誰もが折り鶴へ視線を向けた。
それと同時に、部屋の空気に戸惑いのざわめきが走る。
「……え? 血……?」
書記の目がわずかに細まった。
次の瞬間、書記は躊躇なく近くにいた子供を抱え上げ、その喉元へナイフを突きつける。
ティリスが即座に銃を構えた。
「子供を離せッ!」
その叫びと同時に、兵士たちの銃口が一斉に書記へと向けられる。
空気が凍りついた。
先ほどまでの安息が嘘のように――その緊張を割くように、部屋の奥から、落ち着いた男の声が静かに流れ出した。
「 “I took the one less traveled by,
And that has made all the difference.”
——人の通らぬ道を選んだ。それが、すべてを変えてしまった。」
レノの言葉が静かに途切れる。
姿勢はそのままに、カーロとティリスが目を合わせた。
わずかな沈黙の後、男は再び口を開く。
「誰もが正しいと思った道を外れたとき、
すでに、“取り返しのつかない差異”は始まっていた。」
そして――
「常に、不幸は隣にいる。」
次の瞬間、小さな音が床に響いた。
コロン…
床を転がったのは、手榴弾だった。
誰よりも早くそれに反応したのは、ガルドだった。
「伏せろ!!」
咄嗟の声と同時に、巨体が駆け出す。ガルドは手榴弾の上に身を投げ、抱え込むようにして――
爆発。
耳をつんざく轟音とともに、肉片が部屋中に飛び散った。爆風にあおられ、そばにいた村長と子供は声も出せぬまま倒れ込む。
怒りがティリスの顔を赤く染める。血に濡れた床に足を踏み込み、彼女は銃を構えた。
しかし、その前にカーロの低い声が響いた。
「待て!……P.D.ガスだ。銃器を使えば、ここごと吹き飛ぶぞ!」
レノがいつの間にか手元の装置――小型の金属筐体を床へと放り投げていた。
ティリスの指が引き金にかかる寸前、カーロが制止する。
「今ここで撃っても構わないんだぜ?」
それに応じるように、レノ監査官が口を開いた。
「それはありえません……なぜなら、そこにいる村長と子供は――生きているかもしれないですしね。」
カーロは舌打ちと共に、銃を静かに床に置いた。
「やれやれ……」
だが――
床に手をついた勢いをそのままに、カーロが素早く書記へと詰め寄り、ナイフを抜いて斬りかかる。
その死角――カーロの動きに合わせるように、ティリスがマチェットを握り、レノに跳びかかった。
書記は反応が遅れ、髪をつかまれて引き倒される。その喉元にはカーロのナイフが走り、赤が弾けた。
ティリスの斬撃がレノをかすめる――が、彼はそれを横へとかわし、マチェットの刃が空を切る。
レノのナイフが旋回する。反撃か、あるいは陽動か。
ティリスはそれを読み切ったかに見え、マチェットを下から突き上げる。
――決まった。
そう思った瞬間、ティリスの体に衝撃が走った。全身に鈍い痺れが走り、マチェットの握りがふと緩む。
まさに前へ出ようとした瞬間、カーロのナイフが放たれた。
咄嗟に身を引いたレノの顔を、刃がかすめる。
赤い線が浮かび、彼の足が床を滑るように後退した。
ティリスは顔を歪め、片目から血を流して後ずさる。
その肩に、カーロの声が落ちた。
「軍曹……医療班と合流して、村人を安全な場所へ。」
ティリスは答えなかった。
沈黙の中、拳だけがわずかに震えている。
「……俺が犬死するとでも?」
その一言に、ティリスの肩がびくりと揺れる。
彼女は苦しげに顔をゆがめ、絞り出すように言った。
「……死ぬなよ。」
背を向けて、彼女はふらつきながらも部屋を後にする。
カーロはゆっくりとレノを見据え、心中で確信していた。
(間違いない……一太刀に見えて、実は二段の連撃。あれが、“連刃のシャルド”。)
薄暗い応接室に、ふたたび静寂が戻る。けれど、それは嵐の前の静けさにすぎなかった。
レノ――いや、正体を現したシャルドが、カーロに向けて口元だけで笑う。
「物騒なもの、投げないでくれるかい。」
そう言うと、床に落ちていたカーロのナイフを足先で蹴り上げる。刃は空中で回転しながら一直線にカーロの顔へ――
紙一重で避けきったものの、頬に鋭い切り傷が走る。
カーロは血を拭いもせず、苦笑を洩らした。
「やれやれ……俺のツキも、ここまでか。」
距離を取りながら、じりじりと位置を調整する。シャルドはその様子を観察していた。
(適当に反撃しているように見せて――何かを狙っている?)
一方のカーロも、眼前の殺気を計るようにまぶたを伏せた。
(この距離なら、お前の“技”は届かない。)
カーロは刃を抜いたナイフを、一つ、また一つと投げ込む。
鋭く、正確な軌道。だが――シャルドは一歩も動かず、それらを次々と靴底で蹴り返していく。
金属の音が何度も室内に弾け、返されたナイフは壁や柱に突き刺さった。
カーロは視線を鋭くし、ゆっくりとうなずく。
(これでいい……俺はナイフを投げ、お前は蹴り返す……)
(怯えろ、くず野郎……曲が変わったとき――お前は、死ぬ!)
その意図を、シャルドも読み取っていた。
(おおかた、何か素敵なカウンターを狙っているんだろう……)
(だけどな――お前の、その冷めた目が俺の思考を焦らせてくれるんだよ……)
(この“寸止め”の世界こそが、人を変えてくれる!……ふふっ。)
どちらも、ぎりぎりの均衡の中で相手の内面を覗き込んでいた。
ついに、カーロが決断する。
左手に1本のナイフ。
その影に隠すように、もう1本――人差し指と中指の間に仕込んだ。
指先をわずかに調整しながら、カーロは流れるように構えを整える。
「――終わりだ。」
一閃。
一本目のナイフが鋭く宙を裂く。シャルドの身体が反応し、身を翻す。
だが、その直後。
ワンテンポ遅れて放たれたもう一本のナイフが、正確に心臓を――
グサッ…
「……?! やれやれ……」
カーロの口から、最後の言葉のような息が漏れた。
だが、その刹那、シャルドの姿が音もなく動いた。
「俺の意識をナイフ一本に集中させたつもりだろうが――」
間合いを詰めながら、声を落とす。
「“連刃”という二つ名は、人を盲目にしてしまう……騙されるのは、人の性。」
その言葉と同時に、カーロの胸元に深く蹴りが入り、彼の体は、壁に打ちつけられるように弾かれた。
カーロの体が、ぐらりと崩れ落ちていく。
壁にもたれ、ナイフを握った手を垂らしながら、静かに目を閉じた。
シャルドは血の飛び散る室内を一瞥し、何事もなかったかのように踵を返すと、扉を開けて――音もなく、その場を去っていった。




