「3章-第8話:虹糖が染まる日」
月明かりが差し込むゲスト室──その隣の寝室から、セルジュが静かに扉を開けて出てきた。
「リディアの様子は?」
すぐにフェリクスが問いかける。室内は緊張に満ちていた。壁際では、ナビラが特殊なデバイスに接続した携帯端末に向かい、キーボードを叩き続けている。
「少しめまいが出てるみたいで、やっと寝静まったよ。」
セルジュはそう答えると、ソファに深く腰を下ろした。表情には疲労と困惑がにじむ。
「……スクリプトを使ったうえ、一人で無茶をしたんだ。無理もない」
フェリクスが静かに言った。
ナビラのタイピングは止まらない。光るディスプレイの中で、何かを必死に追いかけている様子だ。
「……あれだけの外来種が一斉に暴れだすなんて、何かがおかしいよな。」
セルジュが口を開いた。
「周辺の都市が気づかないなんて、あり得ない。」
フェリクスが静かに応じる。低い声には、警戒と確信が交じっていた。
「──人為的?」
セルジュの問いに、フェリクスはすぐにうなずいた。
「実は、その線も考えていて……ナビラが今、洗っている。」
「何か違和感はなかったか?」
そう問われたセルジュは一瞬考え──目を見開いた。
「──?!そういえば……群れがグラセールを目指していなかったかもしれない。」
そう言いながら、セルジュは立ち上がり、室内に広げられた地図へと歩を進めた。
指先がなぞったのは、南方監視塔から北上した経路……だが、途中で微かに東へ逸れている軌跡だった。
「……直進じゃない。わずかに北東に逸れてた。もし意図的に方向を変えていたなら……このあたりの集落が目的地だった可能性もある。」
フェリクスが眉をひそめる。
「ナビラ、北東域の村々──特にここ十日間の出入り情報を抽出してくれ。可能ならARC関係者の通過記録も含めて。」
「了解……」
ナビラが短く返し、すぐさま端末に集中する。タイピングの速度が一段と加速し、部屋に緊迫した空気が走った。
静まり返った室内に響くのは、その打鍵音だけだった。
それは嵐の前の静けさを告げる、不気味な合図のようでもあった。
村の奥に設けられた仮設の医療室。薄暗い灯りの下、子供たちが数台のベッドに横たわっていた。呼吸は浅く、熱に浮かされた顔がじっとりと汗ばんでいる。
マスクと手袋を装着した医療班が慌ただしく動き回る中、最も声を荒げたのは、衛生兵のコルンだった。
「バリス!これはいったいどういうことだ?」
普段は陽気な彼の声が、深刻な色を帯びていた。
白衣のエルノは、額に汗をにじませながらも冷静に言葉を返す。
「俺にもまだ断定はできない……が、これはスカージュ症の初期症状に間違いない」
マルタが片膝をつき、ベッド脇のノーアに優しく声をかける。
「ノーア、もう少し濡れた手ぬぐいをお願い。額を冷やしたいの」
ノーアはうなずき、用意された水桶に手を伸ばす。
その様子を見たコルンは、口を強く結んだまま言った。
「……この村の設備じゃ限界がある。高規格の医療設備が整った施設に、すぐにでも移さなきゃまずい」
エルノは深くうなずきながら、視線をモニターの数値に落とす。
「分かってる。レノ監査官が子供たちの移送をすでに手配してくれている」
空気が張り詰めていた。ひとつの感染が、すべてを飲み込む可能性を含んでいることを、全員が理解していた。
集会所の応接室。仄暗いランプの光が、木の壁に柔らかい陰影を落としていた。
「このたびは誠に感謝いたします。搬送班の到着までは……どれほどかかりますでしょうか?」
村長グゼノの声には、焦りを隠そうとする丁寧さが滲んでいた。
向かいに座るレノ監査官――都市保全局から派遣された役人は、静かに手元の端末を操作してから微笑んだ。
「ご安心ください。あと二時間もあれば、施設の輸送車が到着いたします」
「……しかし、よりによって今、このタイミングで発症とは……」
グゼノの嘆きに、レノは静かに頷く。
「スカージュ症は、症状が出るまで通常の検査では検出できません。人によっては、潜伏期間が一週間を超えるとも言われています」
レノは一瞬視線を逸らし、窓の外を見た。
「おそらく、先日のグラセールから配給された物資などが感染源でしょう。その物資も、もとは感染の報告があったセリカ地方から搬入されていますし……」
応接室の前では、ティリス・ノラン軍曹が腕を組んで警備にあたっていた。
そこに、陽気な声とともに子供たちの群れが近づいてくる。隊列の先頭には、巨人ガルド・ボーネス伍長の姿。肩には小さな子供がひとり乗り、まるで騎馬兵のように高々と笑い声を上げていた。
「ノラン軍曹、お疲れ様です。自分はこれから、この子たちを家まで送り届けます」
肩にしがみついた子供が「出発進行ー!」と無邪気に叫び、ガルドの頭をポンポンと叩いた。ティリスは苦笑しながら視線をやる。
「ふふ、相変わらず子供に好かれてるわね。……あんまり甘やかしちゃだめよ、伍長」
「はは、軍曹は兵士だけでなく子供にも厳しいですからね」
「当然でしょ。訓練も、夜更かしも――規律から外れたら、戦場じゃ生き残れないんだから」
そう言いながら、ティリスはふっと柔らかい目で、列をなす子供たちに視線をやる。
「みんな、もう遅いわよ。おやすみ!」
「……あれ? 一人、足りない?」
ガルドが辺りを見回したそのとき。
「あっ、こら! 中に入っちゃダメよ!」
ティリスが声を上げたが、それより早く、小さな足音が扉の向こうに駆けていった。
応接室の中では、穏やかだった空気が、子供の無邪気な声で一変する。
「ねえ、おじさん。この折り鶴、いいでしょ? あげるね!」
応接室の隅で書類を整理していた若い書記が、ふいに手を止めた。
レノが反応するよりも早く、彼は子供に向かって両手を差し出す。
折り鶴はふわりと宙を舞い、彼の手に落ちる。
次の瞬間、色が変わった。
――虹糖葉紙。冷やされ白く変色していた折り鶴が、子供の小さな手から渡された瞬間、書記の手の中で深紅に染まっていった。
部屋の空気が、一気に凍りついていく。




