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メビベルの空  作者: A2
第3章
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「3章-第4話:冒険の手引き」

 木漏れ日が揺れる小さな庭。枝を広げた古木の下に、ティリスが仕留めた鹿が横たわっている。

 ティリスは手際よく太いロープを木の枝に括りつけると、鹿の後肢に輪をかけ、ぐいと引き上げた。


 「よし、OKだ。あとは任せたぞ、ミティア衛生兵」

 そう言って、ロープを固定したままの手を放す。ティリスの声は男勝りの低さと強さを帯びていたが、その目には確かな信頼の色があった。

 ロープの端を受け取ったのは、軍服の上にエプロンをかけたコルン・ミティアだった。彼はにっこり笑いながら、しっかりと鹿の体を安定させた。


 「お任せあれ、ノラン軍曹。……アレティアでの活動中は、狩場の安全なんてほとんどなかったもので。皮から触らせてもらうのは……いやぁ、ご無沙汰ですが、腕は鈍らせてませんよ!」

 小さく笑みを浮かべ、薪割り場へ向かうティリス。

 宙づりにされた鹿の皮膚に、ナイフの刃先がそっと触れる。ひと筋、ぬるりとした音とともに裂け目が広がった。コルンの動きは驚くほど滑らかだった。

 皮を裂くナイフの音だけが、静かに響いていた。

 ノーアは、少し離れた場所からじっとその様子を見ている。

 ――それは、思い出さずにはいられなかった。

 唐突に、暗い記憶が脳裏を過った。あの晩、錆びた椅子に縛られた自分の身体。大きな機械音。剥がされた皮膚。皮を剥ぐという行為が、今目の前で淡々と繰り返されていることに、胸の奥が軋む。

 思わず視線を逸らし、顔を背けた。


 「目を背けても構わないよ」

 気さくな声がすぐ隣から響いた。振り向くと、コルンが笑みを浮かべて立っていた。衛生兵とは思えぬほど手際よく、かつての職業の影がにじむ。


 「でも、ノーアがそこに立っているのは、きっと“真実”を知りたいからだろ?」

 コルンの声は穏やかだったが、軽さの奥に何か芯がある。


 「何気なく生きてる中で、俺たちは当たり前のように肉を食べてる。でもさ、大人になったって自然の恵みを本当に知ってる人間は意外と少ない。自分で獲って、自分で調理して、自分で食べる――それができなきゃ、人間ってもの自体が、なんにもわかっちゃいないのさ」

 ノーアはそっと目を開いた。血を抜かれた鹿の身体は、思いのほか整って見えた。

 誰もが目を伏せたその光景は、ただの荒々しさではなく――命の形だった。静かで、どこか神秘的にさえ思えた。


 「今はできないことを無理強いするような時代じゃない。役割に応じて、クリーンな世界ができてる。それはそれでいい」

 コルンは一度ナイフを置き、木の根元に腰を下ろした。


 「でもね、嫌なことも一度やってみればわかるんだ。避けていたこと、ぼやけていたことが、自分の中の“本物”になって初めて、ありがたみってものがわかる」

 言葉の意味が、ノーアの胸にすっと染み込んでいく。


 「……コルンさん。僕にも、やらせてくれますか」

 ノーアはそう言って一歩、鹿の方へと足を踏み出した。震えを押さえながらも、差し出されたナイフを両手で受け取る。

 刃の冷たさに、一瞬だけ指先がすくむ。だが――逃げる気はなかった。

 コルンはノーアの顔をのぞき込むようにして、ぱっと目を見開いて笑った。


 「ようこそ、冒険者!」

 コルンの明るい声に、張り詰めていた空気がふっとゆるんだ。


 「じゃあ、まずはここをこう切ってごらん。無理に力を入れず、筋の流れにそってね」

 彼はまるで料理教室の講師のように、丁寧に説明を続けた。ノーアはうなずきながらナイフを動かす。

 新しいことを知るたびに、世界が少し広がる。苦手だったものが、ほんの少しだけ優しく見えてくる。そんな一瞬だった。



 食堂と宿泊部屋をつなぐ屋根付きの通路。その柱にもたれて、ノーアは一冊の本を読んでいた。手元には古びた医療書。風でページがめくれるたび、紙の匂いとインクの薄香が鼻をくすぐる。

 ふと、どこからか芳ばしい香りが漂ってきた。肉と野菜の旨みが煮込まれた、それは夕餉の匂い——鹿肉のシチューだろうか。

 ノーアが本を閉じて顔を上げると、庭の方から足音が近づいてくるのが見えた。


 「飯ができるまで、ひと汗かいとくか、ノーア」

 ティリスだった。庭からそのまま通路の方へ近づいてくると、腰に差していたマチェットを傍の丸太に無造作に突き立て、かわりに木剣を構える。

 もう一本の木剣はノーアへと投げ渡され――目の前のティリスの目つきが変わった。気づいたときには、大ぶりの一太刀が自分に向かって振り下ろされていた。

 ノーアはとっさに身を引き、地面を蹴って間合いを取る。構えを取る頃には、緊張で呼吸が浅くなっていた。


 「……ティリスさん、お願いします!」

 気づけば、打ち合っていた。木剣が交差し、乾いた音を何度も響かせる。何もかもが初めてで、ぎこちない。それでも不思議だった。汗と息遣いの中で、ノーアはどこか懐かしい温度を感じていた。

 (……稽古と似てる。だけど、リディアとやる時とは、何かが違う)

 (荒く力強い重みが伝わってくる……相手によって、これほど変わるものなのか)

 (適当に見えるけど、隙をついても返される……これが“本物”ってやつ? それとも、ただの経験の差?)


 「……あんた、女だからって手加減してない?」


 「そんな余裕ないですよ!」

 ノーアが気合いを込めて斬りかかる。しかしその刹那、ティリスの木剣が鋭く切り上げ、ノーアの剣を空へ弾いた。次の瞬間には、その切っ先が喉元へ突き立てられていた。


 「……参りましたっ」

 冷や汗をにじませながら降参を告げると、ティリスは笑みを浮かべて手を差し伸べた。ノーアはその手を取り、息を整えながら立ち上がる。


 「すまない、少し大人げなかったよ」

 にっこりと笑うその表情に、敵意はない。ただ、どこか清々しいような、誇らしげなものがあった。


 「柄にもねーが、そうやって経験について深く考えれば強くなれる。」


 「強くなるにつれ、意識の外に技がつく。そうやって、いとも簡単に人を殺せるようになっちまうのさ……戦争ってやつは」

 ノーアはその生々しさに身構えたが、同時に、ティリスの思いやりも感じていた。


 「長年、女やってるとさ……男は女を守るためにできてる、なんて言うけどさ。守ってもらってばっかの女が、男を守れなくてどうすんだ、って考えちまうんだよね、あたしは」


 「……」

 ノーアは少し戸惑いながらも笑って返す。


 「女性の気持ちはよくわかりませんが……背が低いからって守られるのは、僕はうれしいですけど(笑)」


 「……女だって一人前になりてーんだよ。それに、受け身だけじゃなくて、自分から動けなきゃ“大人”にはなれねーんだよ、ガキっ」

 二人は顔を見合わせて笑った。通路の隙間から風が通り抜け、焚き火の煙とシチューの匂いがまたふわりと香った。



 ナナシ村、食堂の裏手にある庭先では、夜の空気を赤く染めるようなキャンプファイヤーが揺れていた。薪を高く積んだ炎のまわりには、丸太が等間隔に四本、椅子代わりに並べられている。

 あたりは笑い声と歓声に包まれていた。子どもたちはシチューそっちのけで、ひときわ大きな男――ガルドの巨体によじ登ったり、巻き付いたりしてはしゃいでいる。

 ノーアはその光景を見つめながら、ふとコンテナ街での記憶を思い出してしまっていた。

 ――機械に群がる子どもたち。汚れても笑っていた、小さな手。

 どこか似ている。環境も文化も違うはずなのに、子どもたちの笑い声は同じようにまっすぐだった。

 (あのときと同じ……いや、ちょっと違うか。あの頃は壊すしかなかった。ここは……ちゃんと、生きてる)

 鹿肉の旨味が溶け込んだシチューの鍋からは、香ばしい湯気が立ちのぼる。ノーアも木の器を手に、まだ慣れないがどこか懐かしさを感じる味に舌鼓を打っていた。

 ふと、村人の一人が一本の串を差し出してきた。


 「ネズミ!!」

 ノーアが悲鳴のような声を上げると、すぐそばで聞いていたエルノが吹き出した。


 「ははは! うける!」

 大人げない笑いがこだます。

 しかしその笑いは、隣にいたマルタの冷ややかな視線にあっけなく潰される。


 「う、うん……これはな、村長さんが歓迎の意も込めて出してくれた、もてなしなんだそうだ。」

 エルノは言い訳がましく弁明しながらも、姿勢は崩さない。


 「だから我々も、ありがたくいただこう」


 「いや主任、これって……生、ですよね?」


 「見てなさい」

 エルノはそう言って、串ごとネズミを火にかざした。すると一瞬で毛が焦げ、ぱちりと小さな火花が弾ける。


 「まずはこうやって、毛をはがす。……ちょっとさわってみ」


 「?!」

 ノーアが恐る恐る焦げた毛に触れると、細いシャープペンの芯のように、パラパラと折れていった。

 指に軽く触れただけなのに、驚くほど簡単に崩れていく。

 (……え、気持ちいい?!)


 「そう、毛を取ったら……火の中には入れず、こうやってあぶるんだ。焦がしすぎないようにな」

 エルノは手慣れた様子で串をくるくると回しながら、淡々と説明を続ける。


 「そしたらな、一度そこのバケツの水に、ちゃぽんとつけて洗う」


 そう言ってエルノは傍らの桶から、小さな草束を取り出した。針のように細くて硬い草を手のひら大に束ねたものだ。

 それを水にくぐらせ、焦げ残りの表面をやさしくこすっていく。草の繊維が煤や汚れをするすると撫で落とすように流していく。


 「村じゃこれ使ってる。手じゃ落ちきらんからな。こうしてやると、仕上がりが違うんだ」

 エルノは無造作に草束を動かしながら、ぽつりと付け加えた。


 「それに、手も汚れんで済むしな。便利だぞ」


 ノーアはその手元を見つめながら、心の中でこっそり呟く。

 (100均じゃないけど……こういうの、コスパ最強ってやつだな)

 真っ黒だった表面が、草の繊維でこすられるたびに、焦げ茶の肉らしい色に変わっていく。

 (……俺も早く、ほじくってみたいな。まさか異世界で、こんな形で“ネズミ”にワクワクするとは……前世のとは、大違いだ)


 「それからもう一度あぶって、最後にこのタレにくぐらせて──はい完成!」

 得意げな笑顔でエルノが仕上げたネズミ串を掲げてみせた。


 「どうだ!やってみな」


 「はいッ! どうぞ」

 そう言ってマルタが串を差し出してくる。ノーアは手のひらに汗をにじませながら、震える指先でそれを受け取った。

 (おい!焼きマシュマロじゃあるまいし!)

 目の前で揺れる炎が、どこか自分を試しているように見える。

 (火は、消しもするけど……生かしもする……)

 (……守られていたようで、まるで全部、隠されてたんだ)

 (……みんなが同じことをして、できたり、耐えられるわけじゃない。だから大人は、勝手に守ってくれたんだ)

 炙られ、香ばしく焼けていくネズミの表面を見つめながら、ノーアはそっとタオルで額の汗をぬぐった。

 (……だからこそこうやって、自分の手で“初めて”を見つけなくちゃいけないんだ)

 ようやく焼き上がったネズミをタレにくぐらせて、恐る恐る口元に近づける。

 (すげー大変で、すげー不便なのに……なんでだろ、うれしい。もしかして、いま……充実してるのかも)

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