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メビベルの空  作者: A2
第3章
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「3章-第3話:命を糧る」

 竹が密に生い茂る道を抜けると、霧にけぶる森の奥、一本のロッセリア樹が静かに枝を広げていた。

 細くまっすぐな竹の茎が、風にそよぐたび微かにきしむ。その音は、まるで森が息づいているかのようだった。

 その下で、一人の少年が肩車されていた。身の丈二メートルを超す大男、ガルド・ボーネスの肩の上で、ノーアは両手を枝に伸ばす。


 「こういったロッセリア樹の枝の分かれ目でよく育つんだけど…どう?」

 横で見守るマルタが、ほんのりと笑みを浮かべて尋ねた。


 「う〜ん……ガルドさん、もう少し右の方に移動してくれますか。」

 ガルドは無言でうなずき、ぶ厚い手でノーアの足をしっかり支えながら、ゆっくりと体を傾けた。


 「……そう、この辺……」

 目を凝らしていたノーアが、ぱっと表情を明るくする。


 「あった! あったよ!!」

 手を伸ばし、慎重に根元をつまんで薬草をむしり取る。


 「もう充分かな。」

 合図を受けて、ガルドは優しく両手でノーアを持ち上げ、ふわりと地面に降ろした。


 「ありがとう、ガルドさん。」


 「……自分は、これくらいしか取り柄がありませんので。」

 そう答えた声は低く、照れくさそうだった。

 (震災の避難所に、大きな力士が現れた時——それまで無表情だったお年寄りが、何年ぶりかに驚いた顔をしたって話を思い出した。たったそれだけで、人の心は動くんだな)

 (……世界には、まだ自分の知らない優しさが、こんなにもあるのかもしれない)

 (……こんな風に、何気ないことで誰かの心を動かせるなら、世界って捨てたもんじゃないかも)

 その時、一発の銃声が森を揺らした。木々のあいだから鳥たちがバサバサと飛び立っていく。

 ノーアとマルタは反射的に顔を見合わせ、すぐさま音の方角へ駆け出した。足場の悪い斜面を飛ぶように走ると、後ろからゆっくりとガルドの足音がついてくる。

 しばらくして、小さな沢のほとりにたどり着いたとき、二人は血を流して倒れた鹿と、その傍らで銃を下ろす兵士の姿を目にした。


 「脅かしてすまなかった。」

 静かにそう声を発したのは、ナナシ村の守護兵、女性軍曹ティリス・ノランだった。右手には銃、足元には息絶えた野生の鹿が横たわっている。


 「ボーネス伍長。これを川辺まで頼めるか。」


 「了解です、軍曹。」

 ガルドはいつもの調子で一言だけ返し、黙々と鹿の遺体へと歩み寄っていった。



 森を抜けた先、小川のせせらぎが静かに響く川辺に出た。木々のすき間から覗く青空と、遠く霞む山々が一枚の絵のように広がっている。


 「この辺でいいか。」

 ティリスが足を止めて言った。マルタは籠を降ろし、ノーアは手にしていた枯れ枝を積み上げる。ガルドは肩に担いでいた鹿の死骸をそっと地面に下ろすと、川の方へ歩いていった。


 「うわ〜、綺麗だな……山も見えて、まさに絶景ですね。」

 ノーアは思わず声をあげ、川に顔を近づけて水面を覗き込む。冷たく澄んだ水が、流れるたびに陽の光を反射してきらめいていた。

 その背後で、ティリスは腰のサバイバルナイフを抜き、鹿の腹に迷いなく刃を入れる。ぐぐ、と力を込めて皮を裂くと、内臓が音を立ててこぼれ出た。

 ノーアは一瞬だけ目を細めたが、目をそらさなかった。これまでにも魚の解体や、動物の産卵を間近で見た経験がある。生き物が生き物であるという事実を、ただ静かに受け止める。

 川辺では、ガルドが枯れ木を中心にして数個の石を拾い、囲うように並べている。その無骨な手つきは、まるで毎日の作業のように迷いがない。

 ティリスは手早く内臓を選り分け、不要なものを川に流した。肝や心臓を残し、その他を両手で流すように押し流していく。

 ノーアはその様子を見つめていた。

 水に乗って流れていく赤黒い臓器は、まるで灯篭流しのように見えた。どこか寂しくて、それでいて美しかった。

 気づけば顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 何かを目にするたびに、どこかに自分の故郷を重ねてしまう癖がある。ファルネイラ郷の灯りや川の記憶、失われた日々の風景——そんな断片が不意に心に差し込んでくる。

 そのたびに、今いる場所から少しだけ遠ざかりたくなる自分がいる。けれど、それでもノーアは足を止めなかった。

 逃げたいと思ったことがないわけではない。ただ、“逃げる”という選択肢を最初から知らないように、彼は今日も前を向いていた。

 石の上に平らな板石を載せると、ガルドが火打石を取り出し、器用に火を起こす。ぱち、ぱち、と火が弾け、やがて湿った枯れ木がゆっくりと火を吞み込み始めた。


 「こいつは持って帰れねーから、おやつにね」

 ティリスがニッと笑い、残しておいたハツとレバーを手早く川で洗うと、塩をまぶして揉み込む。さらに、摘んできた薬草をちぎってちらし、乱暴な手つきでスライスする。

 ジュワッ。

 石の上に置かれた肉が泡を立てて焼ける。香ばしい煙と、どこか野生めいた匂いがあたりに漂いはじめる。

 その匂いにつられてか、近くの枝に一羽の鳥が止まり、首を傾げてこちらを見ていた。

 ティリスは焼け具合を確かめるように一切れをナイフで切り分けると、そのまま刃先で刺して口に運ぶ。


 「……うん。お前らも早く食えって!」

 そう言って顔を上げた時には、すでに頬がほころんでいた。

 ノーアは自分のナイフを手に取り、熱の残る一切れを口に運んだ。

 ——その瞬間。

 焼きたての肉からあふれた熱が、じんわりと口の中を満たす。香ばしさと野趣の混ざった旨味が、身体の奥から立ちのぼってくる。

 まるで命の熱そのものを噛みしめているようだった。



 グラセールの駐屯施設。木材を積んで作られた即席の訓練場では、ヴェルセリオ共和国ルーテリアエリア正規軍の兵士たちが整列し、顧問として派遣された一人の少女の言葉を静かに待っていた。

 リディア・ファルネイラは、持ち前の快活さで場を支配していた。彼女は手にした古びた器具を掲げ、兵士たちの前に立った。


 「兵士の諸君は、どうすれば強くなれると思いますか?」

 言葉の終わりと同時に、ひとりの若い兵士が手を挙げた。


 「顧問殿!」


 「はい君どうぞ!」


 「持久力アップにはランニング、当たりを強化するための筋力トレーニングだと思います!」


 「その通り。でも、それだけで十分なら、スポーツ選手が前線で無双してるはずでしょ?」

 場に小さな笑いが生まれた。


 「強くなる、つまり――ひたすら銃を構えたり剣を振ったほうが生存率が上がるんだ。」

 そう言うとリディアは、傍らに置いていた器具――かつて古代の兵たちが使っていたというトレーニング用の道具コシティを持ち上げた。


 「この道具は、生き残るために洗練された動きに極めて近いトレーニングが可能なんだ。」

 両手で巧みにコシティを操る彼女の姿に、兵士たちの視線が釘付けになる。細身の体からは想像もできないような滑らかさと重さのバランスがそこにあった。


 「常に重心が変わり複雑だからこそ意味がある…重さを体感で釣り合わせるんだ。」

 しかし、実際に器具を手にした屈強な兵士たちは、誰一人としてまともに扱うことができなかった。なかでもひときわ体格のよい男――ドラン上等兵は、苛立ちを隠しきれずにいた。


 「顧問殿!一つ、よろしいでしょうか。」


 「何ですか?」


 「剣宗とまで称される方と伺っておりましたが……こうして拝見しても、正直、実感が湧かないのです。」

 ざわり、と空気が揺れた。だがリディアは怒りもせず、むしろ楽しげに微笑んだ。


 「……ああ、見た目ね。まあ、女性でこの服じゃ信じにくいよね。うん、仕方ない。」

 小さく肩をすくめ、続けた。


 「君はなかなか鋭い意見言いますね。確かに説得力に欠けてるのは大変申し訳なかった。」

 そして、真っすぐ相手を見据える。


 「じゃあ、組み手で確かめるしかなさそうかな。……あなた、強そうだしね。本気で来なさい。」


 「えっ?!」

 兵士たちの笑い声が響く。


 「顧問殿!危険ですので、ヘッドギアを付けてからに――」

 焦ったように止めに入る声に、リディアはひらりと手を振った。


 「じゃ、君だけでもつけなよ。」

 場が一瞬静まり、ドランが苦笑いを浮かべた。


 「それ……ちょっと笑えないな。」

 その目に宿る遠慮が消え、ドランは拳を構えはじめた。

 ジャブが繰り出される。だがそこにあったのは、宙にたなびいた髪だけ。

 (確かに小柄ゆえに、攻撃が当たらない……)

 続けざまにジャブを放つも手応えはなく、今度は踏み込みと同時に軸足へ蹴りを入れる。だがリディアは軽やかにかわし、大ぶりのフックを放った。

 (このタイミングなら……!)

 ドランは見計らって軸足にカウンターを叩き込む。しかし蹴りが捉えたのは、ひらひらと揺れるだけのスカートだった。

 (くそっ!まさかこんなものに上げ足を取られるとは!)

 スカートが絡み、思わず動きが鈍る。その一瞬、拳が当たりそうになるも――

 次の瞬間、ドランは決断した。

 (なめんなこのアマ!……次のフェイントでスカートをつかみ、一気に手繰り寄せる!)

 (恥をかいて消え失せろ!戦場はおままごとじゃねんだよ先生。)


 「カチッ!」

 勢いでスカートが外れ、ドランの足がもつれて地面に倒れ込む。

 リディアの“タクティカル仕様”のショートパンツが、その姿をあらわにした。右足のホルスターには拳銃が、左の逆サイドにはナイフが収められている。太ももには細身の投げナイフが数本、整然と並んでいた。


 「みんな、これで分かったでしょ?」

 倒れたドランに手を差し伸べながら、リディアは微笑んだ。


 「──どう?これでも、見た目だけじゃ測れないってわかってもらえたかな?」

 彼女はスカートを軽くはたき、くるりと巻き直す。

 その一連の仕草に、誇り高さがにじんでいた。

 兵士たちは、思わず息をのんでいた。

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