「1章-第2話:命を継ぐ贈り物」
牛小屋の中には、朝の光がまだ柔らかく射し込んでいた。干し草の香りと、わずかに湿った土の匂いが混じり合い、どこか懐かしさを感じさせる。ノーアは、くたびれたバケツを両手で抱え、餌桶へと慎重に運んでいた。
「よし、これで全部、かな……?」
隣ではハミルが、てきぱきと乳しぼりをこなしていた。牛の腹をなでるようにして声をかける彼女の姿は、年季の入った農夫のようだった。
「ハミルは乳しぼり、早いね!」
ノーアが感心したように言うと、ハミルは照れ隠しのように肩をすくめて笑った。
「そりゃあ、農夫の娘ですからね」
そのとき、小屋の扉がきぃ、と音を立てて開いた。
飼育係のオルゴが顔をのぞかせる。
「坊ちゃん、お疲れさん。いつもありがとね。……お嬢ちゃん、あんたもな」
「ありがとうございました!」
二人そろって頭を下げると、オルゴは手を振って笑いながら去っていった。
のどかな時間だった。けれど、その平和を破るように、遠くから鋭い声が響いてきた。
「ノーア様――! いい加減、遊牧任務は切り上げてください!」
ノーアが顔を上げると、ドームの向こうからユラが歩いてくるのが見えた。片手を腰に添えたまま、笑っていない目だけがこちらを射抜いていた。
「……いた。ユリウス様がお待ちです。そろそろ“お勤め”の時間ですよ」
(えっ、うそ、時間過ぎてた!)
ノーアは跳ねるように立ち上がり、バケツを置いて慌てて出口へ向かう。
「ハミル、ごめん、また一緒に遊ぼ!」
「いいよ、またね」
笑顔で手を振るハミルに背を向け、ノーアは走り出した。まだ小さな背中が、陽射しの中へ吸い込まれていった。
書斎に隣接する小部屋。
椅子のきしむ音と共に、ノーアは机に腰かけた。正面には年季の入った古びた木製ボードと、窓際に立つ講師——ユリウス。探求者として名を馳せた彼の授業は、いつも一筋縄ではいかない。
重厚な声が響く。
「貴様、読み書きがちょっと人より覚えが早いからって、調子に乗るな……」
開口一番、それである。ノーアは思わずため息を飲み込んだ。
「今日からは、歴史について教えてやる。一探求者として心して刻め……」
彼の語る“歴史”とは、ただの年表や戦の記録ではなかった。
むしろ原理、因果、文明圏の思想といった抽象的な論理の積み重ね。研究者が口にする専門用語の連続に、ノーアの意識は徐々に遠のいていく。
だが、そんな退屈な空気を一変させたのは、突然の訪問だった。
重たい扉がきぃ……と音を立てて開く。
「姉さま!?」
ノーアの瞳が輝いた。姿を現したのは、リディアだった。旅支度を整えたその姿は、どこか凛々しくもあり、温もりに満ちていた。
「これからリディアと行ってくる。」
父、サイラスの静かな声が続く。
机の向こうからちらりと息子に視線を送りながらも、口元には誇らしげな微笑みを浮かべていた。
「寂しいだろうけど、常に姉は見ているからな!」
リディアの冗談交じりの声に、ノーアは立ち上がって一歩前に出た。
「父上も姉さまも、気を付けて!」
ふいに、サイラスが振り返る。
「ユリウス、ここは頼んだ……」
言われたユリウスはというと、いつの間にか片肘をついて窓辺に腰かけ、煙草をくゆらせていた。
返事もなく、ただ煙の輪だけが静かに天井へと昇っていく。
それからしばらくして、授業は終盤に差し掛かっていた。
ユリウスは机に腰かけ、変わらず煙草を片手に講釈を続ける。
「……かくして、“世界のひずみ”は口を開け、世界は分断され孤立していった……」
その言葉を終えた瞬間、立ち上がった。
「では今日はここまで」
「ありがとうございました!」
ノーアはきっちりと頭を下げ、小部屋を後にしようとした——が、すぐには出ていかなかった。
部屋の隅にある古い端末の前に座り、いつものように指を走らせる。
パチパチ、カチカチと響くタイピング音。
画面には、AIとのチャット画面が開かれていた。何かしらの“議論”が、そこにはあるようだった。
(うーん……よくわからんが、この“ゲート”ってのは……完全にRPGでいう“世界の核心”部分で、一番ファンタジーで危険そうなことはわかった。それに、ばあちゃんが言ってたクリーチャーって、なんか……わくわくするなw)
授業ではピンと来なかった理論の数々。
だが、不思議と“面白そう”という感覚だけは、彼の胸の内に残っていた。
昼休みのひととき。
今日の献立に、彼の大好物が混じっていた。
「いざ、糧るっ!」
そんな掛け声とともに、ノーアは手のひらサイズのおはぎを頬張る。もぐもぐと口を動かしながら、ぽつりと呟いた。
「……うまいな~」
味に文句はなかった。けれど、なにかが足りなかった。
ふと目をやれば、居間の揺れ椅子に腰掛けた祖母・キアが、いつものように五円玉でなにやら手芸をしている。
いつも通りの午後。けれど——
姉の姿がないだけで、家の中が妙に静かに感じられる。
リディアの声が響かないと、空気まで音を失うらしい。
そんな空気を感じ取ったのか、キアがぽつりと語り出した。
「……大昔、このあたり一帯はね、まったく何も育たない、死んだ土地だったんだよ」
ノーアが手を止める。キアの声は、淡々としていながら、どこか遠い時代に語りかけるようだった。
「人は生きるために、ただ猛獣を狩るしかなかった。
でもあるとき、ご先祖さまが──たくさんの命を刈りすぎてね。とうとう、神罰かと思うほどの大嵐が来た」
ノーアは、おはぎを咀嚼する手を止め、祖母の手元に目をやった。
五円玉を紡ぐ手は止まることなく動き続けている。
「それでね、そのあとなんだ。地が、息を吹き返したのは。肥えてきたのさ……血のかわりに、種が根を張った」
まるで、大地が命を思い出したかのように。
そして祖母は、ひと呼吸置いてから、話の核心を紡いだ。
「そうして、最初に育ったのが……この土地のトウモロコシ。
人々は、命から命が生まれたと思って、こう言ったんだ。
“命をはぐように、穫る作物”──“おはぎ”ってね」
「……え?」
思わず声が漏れる。キアは微笑を浮かべたまま続けた。
「潰すときの音や形から、“半殺し”とも言われる。けど、それは“命をつなぐ過程”だったのさ」
「え……姉さまの“半殺し坊や”って、そういう意味だったのか……!」
驚きが混じった声に、キアは声を出さずに笑うだけだった。
「ばあちゃん、ありがとう……なんか、ちゃんと知れてよかった」
言葉にして初めて、自分の胸の内に何かが芽吹いたような気がした。
そして、口に出さない声が、静かにノーアの中にこだました。
(素行の悪い姉のことだから、てっきり“半殺し坊や”ってのも悪い意味で言ってたのかと思ってた……)
(まさか、そんな命をつないできた話がこもってたなんて……)
(……やっぱり、この世界は常識があてはまらないな)
今日は、ユラばあがいない。
ノーアは心の中で、密かにガッツポーズを決めていた。
(今日はユラばあいないから助かったぜ。)
目的地はアマーリエの部屋。母上直々のマナー講義だというが、あの鬼軍曹に比べれば百倍マシだ——そう、たぶん。
とはいえ、足取りはどこか慎重だった。思い出すのは、あの厳しすぎる訓練の日々。
回想が脳裏をよぎる。
白いクロスのかかった食卓。ユラばあが正面に座り、教育用の鞭をしっかりと携えている。
「今日はテーブルマナーについて。外側の食器から使うこと……」
(こんなこと、前世じゃ無縁のことなんだけど……)
(“普通じゃない”って意外と苦労してるんだな……)
(昼は菓子パンですませてたから楽だったな……)
ぽこっ。
「いって~」
不意に頭をこつかれ、ノーアは情けない声を漏らした。
「ノーア様!ちゃんと聞きなさい!」
かすれているが、芯のある叱責だった。
「ごめんユラばあ……でもさ、お箸で充分じゃないかな? 貴族ってあまり先進的じゃないよね……」
その瞬間、ユラの目が鋭く細まり、教育用の鞭が音もなくしなった。
「すんましぇん……え~っと、外側から使うだっけかな……」
あの冷や汗の記憶が、いまだに抜けない。
そんな記憶を振り払うように、ノーアはアマーリエの部屋のドアノブに手をかけた。
軋む音とともに開かれた扉の奥。
そこには、開け放たれた窓から柔らかな風に揺れる一輪の花。
そして、その手前に背筋を正して座るアマーリエの姿が、まぶしく映った。
「母上、よろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げ、ノーアは向かいの椅子に腰かけた。
「そうね。今日は貴族らしい“贈り物”について教えるわね」
アマーリエは、静かな声でそう切り出した。
「贈り物は、“あなたの気持ち”ではなく……“相手の誇り”を考えて選ぶものよ」
その言葉に触れた瞬間、ノーアの胸の奥に、遠い記憶がよみがえった。
前世——。
あの頃の自分は、“母の日”を前にカーネーションを買っていた。
渡すタイミングまでに枯れないようにと考えた結果、自室の物置にそっと隠した。
ところが——。
当日になって扉を開けると、そこにあったのは、くったりと首を垂れた赤い茎。
(あ……枯れてる……)
あの瞬間、頭が真っ白になった。
自分なりに一生懸命考えて、準備したつもりだった。
でも——そう、だからこそ見落とした。
“その場しのぎの善意”が、どれだけ脆く、浅かったか。
きっと、あの頃からだった。
誰かのために何かしようとすると、いつもどこかで空回りする。
結局、枯れた花をそのまま差し出した自分は、自分のふがいなさに泣き崩れた。
すると——母は、何も言わず、ぐっと自分を抱きしめてくれた。
あのとき、花は手元にはなかった。けれど、母の温もりだけが、確かに胸に残っていた。
視界がゆらぐ。
——あれは、優しさだった。
ふいに、アマーリエの声が、窓の外に向けて続く。
「貴族としてではなく、家族からのプレゼントはね、きれいな花束や高級な飾り物なんだって嬉しいのよ」
ノーアは、心の中で小さくうつむいた。
(それを自分は……ずっと、ちゃんとできなかった)
すると、視線を窓辺の一輪の花にやったアマーリエが、そっと言葉を継いだ。
「でもね、本当はなんだっていいのよ。それがたとえ、枯れた花でも——」
ノーアは、はっとして顔を上げる。
「だってそうでしょ? 人のために何かしようと思った結果がそれなら、もらって嬉しくないわけないでしょ?」
その言葉と同時に、過去と現在が交差する。
——優しい笑顔の母。
——そして、もう手元にはない、あの枯れたカーネーション。
胸がぎゅっと締めつけられた。
こらえきれず、ノーアは涙を流した。
ぽろぽろと零れる雫は、やがて頬を伝い、膝に落ちていった。
その肩を、アマーリエがそっと包み込む。
言葉はなかった。ただ、静かに、優しく。
風が、部屋を吹き抜けていった。
昼下がりの光が、緑の葉の間をゆらゆらとすり抜けていた。
庭の一角には、薪を積み上げた上に一枚岩を据えた台所があり、簡素な屋根が日差しを遮っている。まるで自然と溶け合ったキャンプ場のような光景だ。風が通るたび、葉が擦れ合い、小鳥のさえずりが遠くから響く。
大きな木をくり抜いた竈に、オルゴが静かに火をくべている。その上では、サイフォン式のティーポットが音もなく揺れていた。
透明なガラス越しに見える湯が、下の層でぷつぷつと泡を立て始める。やがて、中央の細い管を伝って、上段の茶葉の元へとお湯が昇っていく。
ノーアは膝に手をつき、その様子をじっと見つめていた。
(カタ……カタ……)
(見てて楽しい。)
茶葉と混ざったお湯が、ゆるやかに色を変えていく。
やがて、オルゴがポットをテーブルへと置いた。その瞬間、上の液体が再び下に降りていき、もとの場所へと帰っていく。
ノーアは無言のまま、肘をついた腕にそっともう一方の腕を重ねると、組んだ腕をそのままテーブルに乗せた。
静かに、その器具の動きを見つめ続ける。
(何回診ても飽きない。)
遠くに滝が見えた。水しぶきは届かないが、あたりの空気を潤すような、みずみずしい気配が漂っていた。