表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メビベルの空  作者: A2
第1章
3/18

「1章-第2話:命を継ぐ贈り物」

 牛小屋の中には、朝の光がまだ柔らかく射し込んでいた。干し草の香りと、わずかに湿った土の匂いが混じり合い、どこか懐かしさを感じさせる。ノーアは、くたびれたバケツを両手で抱え、餌桶へと慎重に運んでいた。


 「よし、これで全部、かな……?」

 隣ではハミルが、てきぱきと乳しぼりをこなしていた。牛の腹をなでるようにして声をかける彼女の姿は、年季の入った農夫のようだった。


 「ハミルは乳しぼり、早いね!」

 ノーアが感心したように言うと、ハミルは照れ隠しのように肩をすくめて笑った。


 「そりゃあ、農夫の娘ですからね」

 そのとき、小屋の扉がきぃ、と音を立てて開いた。

 飼育係のオルゴが顔をのぞかせる。


 「坊ちゃん、お疲れさん。いつもありがとね。……お嬢ちゃん、あんたもな」


 「ありがとうございました!」

 二人そろって頭を下げると、オルゴは手を振って笑いながら去っていった。

 のどかな時間だった。けれど、その平和を破るように、遠くから鋭い声が響いてきた。


 「ノーア様――! いい加減、遊牧任務は切り上げてください!」

 ノーアが顔を上げると、ドームの向こうからユラが歩いてくるのが見えた。片手を腰に添えたまま、笑っていない目だけがこちらを射抜いていた。


 「……いた。ユリウス様がお待ちです。そろそろ“お勤め”の時間ですよ」

 (えっ、うそ、時間過ぎてた!)

 ノーアは跳ねるように立ち上がり、バケツを置いて慌てて出口へ向かう。


 「ハミル、ごめん、また一緒に遊ぼ!」


 「いいよ、またね」

 笑顔で手を振るハミルに背を向け、ノーアは走り出した。まだ小さな背中が、陽射しの中へ吸い込まれていった。


 書斎に隣接する小部屋。

 椅子のきしむ音と共に、ノーアは机に腰かけた。正面には年季の入った古びた木製ボードと、窓際に立つ講師——ユリウス。探求者として名を馳せた彼の授業は、いつも一筋縄ではいかない。

 重厚な声が響く。


 「貴様、読み書きがちょっと人より覚えが早いからって、調子に乗るな……」

 開口一番、それである。ノーアは思わずため息を飲み込んだ。


 「今日からは、歴史について教えてやる。一探求者として心して刻め……」

 彼の語る“歴史”とは、ただの年表や戦の記録ではなかった。

 むしろ原理、因果、文明圏の思想といった抽象的な論理の積み重ね。研究者が口にする専門用語の連続に、ノーアの意識は徐々に遠のいていく。

 だが、そんな退屈な空気を一変させたのは、突然の訪問だった。

 重たい扉がきぃ……と音を立てて開く。


 「姉さま!?」

 ノーアの瞳が輝いた。姿を現したのは、リディアだった。旅支度を整えたその姿は、どこか凛々しくもあり、温もりに満ちていた。


 「これからリディアと行ってくる。」

 父、サイラスの静かな声が続く。

 机の向こうからちらりと息子に視線を送りながらも、口元には誇らしげな微笑みを浮かべていた。


 「寂しいだろうけど、常に姉は見ているからな!」

 リディアの冗談交じりの声に、ノーアは立ち上がって一歩前に出た。


 「父上も姉さまも、気を付けて!」

 ふいに、サイラスが振り返る。


 「ユリウス、ここは頼んだ……」

 言われたユリウスはというと、いつの間にか片肘をついて窓辺に腰かけ、煙草をくゆらせていた。

 返事もなく、ただ煙の輪だけが静かに天井へと昇っていく。

 それからしばらくして、授業は終盤に差し掛かっていた。

 ユリウスは机に腰かけ、変わらず煙草を片手に講釈を続ける。


 「……かくして、“世界のひずみ”は口を開け、世界は分断され孤立していった……」

 その言葉を終えた瞬間、立ち上がった。


 「では今日はここまで」


 「ありがとうございました!」

 ノーアはきっちりと頭を下げ、小部屋を後にしようとした——が、すぐには出ていかなかった。

 部屋の隅にある古い端末の前に座り、いつものように指を走らせる。

 パチパチ、カチカチと響くタイピング音。

 画面には、AIとのチャット画面が開かれていた。何かしらの“議論”が、そこにはあるようだった。

 (うーん……よくわからんが、この“ゲート”ってのは……完全にRPGでいう“世界の核心”部分で、一番ファンタジーで危険そうなことはわかった。それに、ばあちゃんが言ってたクリーチャーって、なんか……わくわくするなw)

 授業ではピンと来なかった理論の数々。

 だが、不思議と“面白そう”という感覚だけは、彼の胸の内に残っていた。


 昼休みのひととき。

 今日の献立に、彼の大好物が混じっていた。


 「いざ、かてるっ!」

 そんな掛け声とともに、ノーアは手のひらサイズのおはぎを頬張る。もぐもぐと口を動かしながら、ぽつりと呟いた。


 「……うまいな~」

 味に文句はなかった。けれど、なにかが足りなかった。

 ふと目をやれば、居間の揺れ椅子に腰掛けた祖母・キアが、いつものように五円玉でなにやら手芸をしている。

 いつも通りの午後。けれど——

 姉の姿がないだけで、家の中が妙に静かに感じられる。

 リディアの声が響かないと、空気まで音を失うらしい。

 そんな空気を感じ取ったのか、キアがぽつりと語り出した。


 「……大昔、このあたり一帯はね、まったく何も育たない、死んだ土地だったんだよ」

 ノーアが手を止める。キアの声は、淡々としていながら、どこか遠い時代に語りかけるようだった。


 「人は生きるために、ただ猛獣を狩るしかなかった。

 でもあるとき、ご先祖さまが──たくさんの命を刈りすぎてね。とうとう、神罰かと思うほどの大嵐が来た」

 ノーアは、おはぎを咀嚼する手を止め、祖母の手元に目をやった。

 五円玉を紡ぐ手は止まることなく動き続けている。


 「それでね、そのあとなんだ。地が、息を吹き返したのは。肥えてきたのさ……血のかわりに、種が根を張った」

 まるで、大地が命を思い出したかのように。

 そして祖母は、ひと呼吸置いてから、話の核心を紡いだ。


 「そうして、最初に育ったのが……この土地のトウモロコシ。

 人々は、命から命が生まれたと思って、こう言ったんだ。

 “命をはぐように、穫る作物”──“おはぎ”ってね」


 「……え?」

 思わず声が漏れる。キアは微笑を浮かべたまま続けた。


 「潰すときの音や形から、“半殺し”とも言われる。けど、それは“命をつなぐ過程”だったのさ」


 「え……姉さまの“半殺し坊や”って、そういう意味だったのか……!」

 驚きが混じった声に、キアは声を出さずに笑うだけだった。


 「ばあちゃん、ありがとう……なんか、ちゃんと知れてよかった」

 言葉にして初めて、自分の胸の内に何かが芽吹いたような気がした。

 そして、口に出さない声が、静かにノーアの中にこだました。

 (素行の悪い姉のことだから、てっきり“半殺し坊や”ってのも悪い意味で言ってたのかと思ってた……)

 (まさか、そんな命をつないできた話がこもってたなんて……)

 (……やっぱり、この世界は常識があてはまらないな)


 今日は、ユラばあがいない。

 ノーアは心の中で、密かにガッツポーズを決めていた。

 (今日はユラばあいないから助かったぜ。)

 目的地はアマーリエの部屋。母上直々のマナー講義だというが、あの鬼軍曹に比べれば百倍マシだ——そう、たぶん。

 とはいえ、足取りはどこか慎重だった。思い出すのは、あの厳しすぎる訓練の日々。

 回想が脳裏をよぎる。

 白いクロスのかかった食卓。ユラばあが正面に座り、教育用の鞭をしっかりと携えている。


 「今日はテーブルマナーについて。外側の食器から使うこと……」

 (こんなこと、前世じゃ無縁のことなんだけど……)

 (“普通じゃない”って意外と苦労してるんだな……)

 (昼は菓子パンですませてたから楽だったな……)

 ぽこっ。


 「いって~」

 不意に頭をこつかれ、ノーアは情けない声を漏らした。


 「ノーア様!ちゃんと聞きなさい!」

 かすれているが、芯のある叱責だった。


 「ごめんユラばあ……でもさ、お箸で充分じゃないかな? 貴族ってあまり先進的じゃないよね……」

 その瞬間、ユラの目が鋭く細まり、教育用の鞭が音もなくしなった。


 「すんましぇん……え~っと、外側から使うだっけかな……」

 あの冷や汗の記憶が、いまだに抜けない。

 そんな記憶を振り払うように、ノーアはアマーリエの部屋のドアノブに手をかけた。

 軋む音とともに開かれた扉の奥。

 そこには、開け放たれた窓から柔らかな風に揺れる一輪の花。

 そして、その手前に背筋を正して座るアマーリエの姿が、まぶしく映った。


 「母上、よろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げ、ノーアは向かいの椅子に腰かけた。


 「そうね。今日は貴族らしい“贈り物”について教えるわね」

 アマーリエは、静かな声でそう切り出した。


 「贈り物は、“あなたの気持ち”ではなく……“相手の誇り”を考えて選ぶものよ」

 その言葉に触れた瞬間、ノーアの胸の奥に、遠い記憶がよみがえった。


 前世——。

 あの頃の自分は、“母の日”を前にカーネーションを買っていた。

 渡すタイミングまでに枯れないようにと考えた結果、自室の物置にそっと隠した。

 ところが——。

 当日になって扉を開けると、そこにあったのは、くったりと首を垂れた赤い茎。

 (あ……枯れてる……)

 あの瞬間、頭が真っ白になった。

 自分なりに一生懸命考えて、準備したつもりだった。

 でも——そう、だからこそ見落とした。

 “その場しのぎの善意”が、どれだけ脆く、浅かったか。

 きっと、あの頃からだった。

 誰かのために何かしようとすると、いつもどこかで空回りする。

 結局、枯れた花をそのまま差し出した自分は、自分のふがいなさに泣き崩れた。

 すると——母は、何も言わず、ぐっと自分を抱きしめてくれた。

 あのとき、花は手元にはなかった。けれど、母の温もりだけが、確かに胸に残っていた。

 視界がゆらぐ。

 ——あれは、優しさだった。

 ふいに、アマーリエの声が、窓の外に向けて続く。


 「貴族としてではなく、家族からのプレゼントはね、きれいな花束や高級な飾り物なんだって嬉しいのよ」

 ノーアは、心の中で小さくうつむいた。

 (それを自分は……ずっと、ちゃんとできなかった)

 すると、視線を窓辺の一輪の花にやったアマーリエが、そっと言葉を継いだ。


 「でもね、本当はなんだっていいのよ。それがたとえ、枯れた花でも——」

 ノーアは、はっとして顔を上げる。


 「だってそうでしょ? 人のために何かしようと思った結果がそれなら、もらって嬉しくないわけないでしょ?」

 その言葉と同時に、過去と現在が交差する。

 ——優しい笑顔の母。

 ——そして、もう手元にはない、あの枯れたカーネーション。

 胸がぎゅっと締めつけられた。

 こらえきれず、ノーアは涙を流した。

 ぽろぽろと零れる雫は、やがて頬を伝い、膝に落ちていった。

 その肩を、アマーリエがそっと包み込む。

 言葉はなかった。ただ、静かに、優しく。

 風が、部屋を吹き抜けていった。


 昼下がりの光が、緑の葉の間をゆらゆらとすり抜けていた。

 庭の一角には、薪を積み上げた上に一枚岩を据えた台所があり、簡素な屋根が日差しを遮っている。まるで自然と溶け合ったキャンプ場のような光景だ。風が通るたび、葉が擦れ合い、小鳥のさえずりが遠くから響く。

 大きな木をくり抜いた竈に、オルゴが静かに火をくべている。その上では、サイフォン式のティーポットが音もなく揺れていた。

 透明なガラス越しに見える湯が、下の層でぷつぷつと泡を立て始める。やがて、中央の細い管を伝って、上段の茶葉の元へとお湯が昇っていく。

 ノーアは膝に手をつき、その様子をじっと見つめていた。

 (カタ……カタ……)

 (見てて楽しい。)

 茶葉と混ざったお湯が、ゆるやかに色を変えていく。

 やがて、オルゴがポットをテーブルへと置いた。その瞬間、上の液体が再び下に降りていき、もとの場所へと帰っていく。

 ノーアは無言のまま、肘をついた腕にそっともう一方の腕を重ねると、組んだ腕をそのままテーブルに乗せた。

 静かに、その器具の動きを見つめ続ける。

 (何回診ても飽きない。)

 遠くに滝が見えた。水しぶきは届かないが、あたりの空気を潤すような、みずみずしい気配が漂っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ