「3章-第2話:優しさという医療」
ナナシ村の一角、赤土のぬかるみに囲まれた空き地に、ARC医療班が設営した簡易テントが二棟並んでいた。片方はエルノ主任と衛生兵コルンによる処置室、もう一方はマルタとノーアによる感染症検査用の診断室である。
木道の上に村人たちが無造作に列をなして並び、竹林の陰から誘導された兵士の掛け声がときおり響く。高床式の家屋から降りてきた者、畑から足を引きずって戻ってきた者、皆どこか遠慮がちに、けれど順番を守って並んでいた。
太陽光を利用した蓄電式の冷却装置が、いくつかの扇風機を動かしている。湿った風が村の空気をかき混ぜる中、テントの布がわずかに揺れた。
列の列の後ろのほうで、何かを確認するように足元を見ながらゆっくりと歩く老人の姿に気づき、ノーアはそっと声をかけた。
「どおしました?」
老人は顔を上げ、やや照れたように笑う。
「いやね、作業中に足を壊してしまったみたいでのぉ。どうも歩きにくんじゃよ。」
「そうですか……では、隣の処置室の方に先に行きましょうか。」
ノーアは軽く礼をすると、振り返って声を張った。
「あっ、次の方お入りください。」
そしてもう一度、老人に向き直る。
「捕まってください。」
その小柄な体で、迷いなく老人の肩を支える。赤土に足を取られぬよう慎重に歩きながら、処置室へと連れていく。
「すまないね。気持ちはまだわけーんだが、どうも体がついてこんくてな……」
そんな言葉に、ノーアは曖昧な笑みを浮かべた。
その様子を、隣のテント越しにマルタが見つめていた。薄布の向こうに浮かぶ若者と老人の影。その眼差しには、ただの検診以上の何かを見て取ったような静けさがあった。
その診断テントのひとつ――感染症検査用の室内では、マルタとノーアが小さな騒動に向き合っていた。
「やだーーーっ!」
甲高い泣き声が、テントの布を揺らすように響く。もじもじと立ち尽くす幼児を、母親が必死になだめていた。
「すいません、この子、珍しく神経質っぽくて……無理でしょうか?」
申し訳なさそうに頭を下げる母親に、マルタはにっこりと微笑みながら首を振る。
「安心してください、元気な子は山ほど見てきましたから。」
そして視線を幼児に向け、優しい声をかける。
「大丈夫だよ、怖くないからね~。」
泣き続ける子どもを前に、マルタは少しだけ苦笑いして振り返る。
「ノーア、検査棒取ってくれる?」
「はい。」
手渡された綿棒を手に取ると、再び子どもに向き合うが——
「わぁぁぁ! うわぁーー!」
手こずる気配に、マルタは軽く肩をすくめる。
「う~ん、できたら飴玉あげようかなぁ。」
だが泣き声は止まず、どうしたものかと視線を巡らせたそのとき、ノーアがそっと一枚の紙を取り出した。虹糖葉紙でできた淡い黄橙色のそれを、器用な手つきで折り始める。徐々に形になっていく折り鶴に、幼児の目が自然と引き寄せられる。
完成した折り鶴を、ノーアは保冷ユニットの上にそっと置いた。温度変化で徐々に水色へと変わっていく様子に、幼児は目を丸くして見つめる。
その隙を逃さず、マルタはするりと綿棒を鼻に差し入れ、検体を素早く採取した。
「ノーア、シールと保存ね。」
「はい。」
ノーアが情報シールを貼り、検体を冷蔵ユニットに収めると、マルタが穏やかに告げる。
「検査結果は後日になりますので。」
「ありがとうございました。……あっ、これ……」
母親が折り鶴を返そうと手に取る。
「どうぞ、差し上げます。」
ノーアが静かにそう言うと、母親は微笑みながら息子を見た。
「よかったね!……では失礼します。」
その背中を見送りながら、マルタが感心したように呟く。
「ノーア、やるね。」
「異文化交流用に虹糖葉紙を折り紙にしてみました。」
「そっか、私たちが子どものころは、よくお世話になったものね……食べ物のイメージしかないけど、よく考えたね。」
「足手まといなので、これくらいはやらないと。」
自嘲気味に笑うノーアに、マルタは真っすぐな声で返す。
「あなたはとてもやさしいよ。その思いやりが絶対、届いてるから。」
少しだけ声を落とし、言葉を紡ぐ。
「あなたの医学が十分でなくても、治療は必ず届いてるよ。今は十分でなくていいんだよ。」
「ありがとう、マルタさん……」
「思いやり、100点だね。」
二人の間に、穏やかな空気が流れた。
けれどその直後、マルタはふっと視線を落とし、やや遠くを見るように続けた。
「誰かのために生きるのは大切なの。でも、その複雑さで自分を見失うことがある。」
少しだけ、悲しそうな顔。
「……ごめん、ちょっと言い過ぎたかな。」
そしてすぐに、軽く笑って言い直す。
「今は若いんだし、がむしゃらになってもいいんだよ!」
「はい! がんばります!」
元気よく返すノーアに背を押されるように、マルタも微笑み返す。
外に出ると、ノーアは明るい声で次の人を呼んだ。
古びた講義室に、軋むパイプ椅子の音が小さく鳴った。折り畳みの机が並ぶ質素な室内には、軍服を着た兵士たちが整然と座っている。
講師台の前に立つ男が、一礼と共に声を発した。
「本日より軍事戦術顧問を担当するARCユニット、ランタノイド08――そのリーダーを務めます、フェリクス・マルヴィスと申します。以後お見知りおきを」
静寂の中に軽いざわめきが走る。フェリクスは挨拶を終えると、そのままお手製の資料を束ねた紙を手に取ると、前列から順に配り始めた。
「各スタッフより、戦術に関する講義と実技を行います。今日はその初日です」
資料の残りを手早く整え、角を揃えて一呼吸置くと、フェリクスは視線を上げた。
「早速、内容に入りましょう。本日は、“フォーカスした相手への状況判断”について、簡単にお話しします」
部屋の空気がわずかに引き締まる。
「戦場では、相手が人間である場合、基本的に“止まる”ことはありません。常に動き、情報を与えるのです。誘導を作ることこそが、生き延びる術です」
フェリクスの声は低く、しかし明瞭だった。理論に支えられた言葉が、兵士たちの耳へと冷たく染み込んでいく。
「個人戦闘において、“ための一撃”など、基本的には成立しません。相手の神経系を鈍らせるには、フェイント――偽の動作が不可欠です。特に、止まったように見える敵がいた場合、それは“誘い”の可能性が高いと認識すべきです」
フェリクスは資料のページを指で押さえながら、続けた。
「ただし、例外も存在します。“脱意識域”――つまり極限まで鍛えられた兵は、時に意図的な無作為を纏う。そうした精錬者との戦闘では、常識の裏を取られることになります」
何人かの兵士が、無意識に喉を鳴らした。
「では、クリーチャーを相手にした場合はどうか」
フェリクスの声が一段階、落ち着いた調子に変わる。
「結論から言えば、“フェイク”は不要です。奴らには“読み合い”の概念がない。こちらが迷えば、確実に死ぬだけです。必要なのは、相手の“芯”を見る力」
彼は拳を軽く握り、胸の中央に当てた。
「そこから来る攻撃は、誰にでも見えるようになる。見ようとさえすれば、ですが……問題は、その一撃の“重さ”です」
場が再び静まり返る。フェリクスの声には、冷たい現実だけが滲んでいた。
「皆さんもご存知の通り、クリーチャーの力は人間の比ではありません。そして、その生態は謎に包まれたままです。」
フェリクスは言葉を切り、資料に目を落とす。
「ARCでは原則として、ゲート発生源から出現した個体は“即時殲滅、並びに焼却処理”を基本方針としています。ただし、特定条件下での捕獲・研究が行われているのも事実です。が、それは一部の例外に過ぎず、現場判断では“接敵即処理”が最優先になります」
兵士たちの表情に、緊張の色が濃くなる。
「体格も形状も異なりますが、ひとつだけ共通点がある。それは、“顔”のようなパーツを必ず持っていることです。そして、奴らは血を流します。黒い血ですが、流れるという事実がある以上、討伐は可能です」
だが――と、フェリクスは言葉を切った。
「問題は、“例外”の存在です。人間にも、クリーチャーにも、“普通”が通用しない存在がある」
彼の目が鋭く光る。
「それが――“スクリプト”を持つ者。そして、“異能クリーチャー”――Ωクラスと呼ばれる存在です」
講義室に、無音が降りる。
フェリクスは一息つき、淡々とした口調で、さらなる説明へと移っていく。




