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メビベルの空  作者: A2
第2章
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「2章-第15話:お家に帰ろう」

 披露宴の喧騒が、ノーアの耳から遠ざかっていく。

 気づけば、彼は会場の隅にあった大窓の前に立っていた。白いカーテンがゆらりと揺れ、隙間から庭園の空気が流れ込んでくる。

 ノーアは、ふう、とひとつ息を吐く。

 (……ちょっと外の空気、吸ってこよう)

 大理石の床をコツコツと歩き、大きな窓を抜けて外へ出る。夜風が肌を撫で、耳の奥で喧騒がようやく途切れた。

 ふと、鼻先を甘くくすぐる香りが流れてくる。園に植えられた花々の匂い――きっと高級な品種なのだろう。けれど、その濃密な香りに、ノーアはどうにも馴染めなかった。

 (……なんだか、トイレの消臭剤のにおいみたいだ)

 星明りの下、噴水の傍らに設けられたベンチに、一人の男が腰掛けていた。手にした細身の葉巻から、白い煙が静かに漂っている。

 サイラスだった。

 (……おいおい、まるで外回りの営業マンじゃないか)


 「父上も、お疲れですか?」

 声をかけると、サイラスは一瞬だけこちらを見て、ふと苦笑を浮かべる。


 「……いや、立派な園があって羨ましいなって思ってね。今度、自作で噴水でも造ってみようかと思ってたところだ」

 (おいおい、勘弁してくれ……没落感丸出しな話だな)

 ノーアは心の中で突っ込みながらも、ベンチの隣に腰を下ろした。


 「そういえば、式のときに……め……じゃなかった、ライゼルさんの姿を見かけたけど、もう帰ったの?」


 「ああ、ライゼル閣下はすでに退席されてるよ」


 「姉弟の披露宴に出ないって、ちょっと寂しいね……」


 「うーん……ここで話すことじゃないけどな」

 言葉を濁すように視線を噴水に落としたサイラスは、少し間を置いてから続けた。


 「……お前も、強い女に興味が出てくる年頃だしな」

 煙草を灰皿に押し付ける音が静寂の中で響く。


 「彼女はな、ルフェルト連邦七領土の中でも、群を抜いた武力と影響力を持つ存在なんだ」

 その声音には、どこか達観した重さがにじんでいた。


 「戦歴、カリスマ性、領地の掌握力――どれを取っても一騎当千。彼女の存在は、連邦内の一部の将軍家や評議員にとっては、“将来的な軍主導クーデター”の予備軍と見なされていた」


 「……」


 「本人にはそんなつもりはない。ただ、その“圧”が異質だったんだ。“戦女神”なんて雅なものじゃなく、“女修羅”だと称されるくらいにはな」

 夜風がふたりの間を吹き抜けた。


 「連邦評議会の一部派閥が動いた。軍寄りのヴァリッツァと手を組まれる前に、あえて中立色の強いエルセイン領と結婚させて、信仰と世論で封じ込めようとした」

 サイラスはため息を吐いた。


 「彼女にとっては、自分の信念も、共に戦った仲間たちの期待も裏切るような政治的拘束だった」

 ノーアは言葉を失い、その横顔を見つめた。


 「式の場では礼も尽くさず、挨拶さえせずに退席した。外から見れば“無礼な女将軍”、でもな、内実を知る者からすれば“哀れな強者”だよ」

 (……そういえば、うちの会社がブイブイ行ってた頃――若手のスタッフたちを丸ごと引き抜かれて、クーデターを起こされたことがあったっけ)

 (……跡継ぎなしの会社ほど未来がない。どんな事情があるにせよ、それまで一緒に生きてきた仲間を、平然と裏切るなんて……)

 (自分の利益のためだけに生きる人間――人の上に立つ者ほど、案外臆病なのかもしれない)

 心の声が漏れたわけではないのに、サイラスはハッとしたようにこちらを見た。

 そして、吹き出すように笑った。


 「はははは。そうだね――ビビってるんだよ、みんな」

 煙草の匂いの残る夜風が、噴水の水音と重なって、ひどく静かな調和を奏でていた。


 父との会話を終え、ノーアはふたたび披露宴会場の熱気の中へと戻った。

 空気は変わらない。誰もが笑っているのに、どこか喉の奥が詰まるような、押し込められる感覚。

 それでも、さっきよりは少しだけ――深く息が吸えた。

 ふとした瞬間、視界の端にひっかかった背中があった。

 リディアだった。

 舞踏の輪の中。

 貴族たちが交わす優雅な挨拶、礼儀、微笑、そして言葉のない駆け引き。

 披露宴の空気はすでに飽和していて、誰が本音を言っているのか、もう誰にもわからない。

 その渦の一端に、リディアは立っていた。

 表情は変わらず微笑みを浮かべていたが、どこかマリオネットのようで、魂が抜けているようにさえ見えた。

 彼女の身体が、ふいに小さく揺れる。

 疲れたのか、一瞬だけ首を落とし、眠ってしまったようだった。

 ノーアは、思わず足を踏み出していた。

 リディアの前に立ち、貴族らしく片手を差し出す。胸に手を当て、軽く頭を下げる――お誘いの所作。

 目を閉じていたリディアが、はっと目を開く。

 そして、彼女は――いつもの顔に戻っていた。

 強がりで、鈍感で、でもどうしようもなく愛しい、あの姉の顔に。


 「ノーア・ファルネイラと申します。お相手、してくださいますか?」

 ノーアの声に、リディアは微笑んだ。

 そして、手を取る。

 音楽が再び始まる。

 嫌いなはずの舞踏。

 けれど、二人は夢中になって踊った。

 それはまるで――

 完成されたキャンバスを、何のためらいもなく踏みしめていく――自由な赤子のように。

 既に塗り固められた“上流”という絵の上を、あどけなく、我が物顔で歩いていくような。

 誰のためでもない。

 誰かの目を気にするでもない。

 ただ、自分たちの“今”を、その足で確かめるように。



 ヴェルセリオ共和国の外縁――霧が晴れ始めた山道を、一人の少女が歩いていた。

 背中には擦り切れた布袋。泥にまみれた服の裾が、乾ききらないまま風に揺れている。片方だけ濡れた靴が、ぬかるみに沈むたび、ぴちゃりと音を立てた。

 足元を見つめながら、それでも少女の視線は前を向いていた。

 やがて、山の影に包まれた道の先――

 霧の向こうに、小さな木造の小屋がその姿を現した。

 斜面を囲むようにして立てられた木の柵。その内側には、名も知らぬ花がいくつも咲いている。素朴で、慎ましく、だが確かに誰かの手がかけられた場所だった。


 「……ここ、かな……」

 その声は、息とほとんど変わらないほど小さく、霧に紛れて消えそうだった。

 扉は閉まっていた。けれど、鍵はかかっていない。手を添えて押すと、ぎ、とわずかに軋む音を立てて開いた。

 中に入ると、すぐに鼻先をくすぐる薪の匂い。かすかに火の残る小さなストーブ。風はなく、空気にはぬくもりが残っていた。

 誰かが、ほんのついさっきまでここにいたような――そんな気配が、部屋の隅々にまで染み込んでいた。

 そっと足を踏み入れる。

 すると、古びたソファの上にかけられていた上着の袖が、かすかに風に揺れた。


 「……?」

 思わずその方へ目を向けた、そのとき――やさしい声が届いた。


 「おかえり」

 はっと振り返る。

 ストーブの脇の影から、ゆっくりと立ち上がる人影があった。

 眼鏡を外し、火を見つめていたその人は、まるでずっと前からそこにいたかのように静かだった。


 「ようやく来たね。……ここが、君の“お家”だよ」

 その一言で、胸の奥がふっと緩んだ。

 息をのんで、何かをこらえるように唇をかみしめたが、次の瞬間――

 ぽろりと、涙がこぼれた。

 それを見ていた誰かが、何も言わずブランケットを広げ、そっとその肩を包み込んだ。


 「今日はもう、何も考えなくていいよ」

 その声は、まるで子守唄のように、静かで、あたたかかった。

 言葉は探さなかった。ただ、うなずいた。

 そして三人の間に、しばらくのあいだ、やわらかな静寂が流れる。

 山間の風が、小屋の壁をそっと叩く。

 だが、その音すら――今は、どこか優しく響いていた。


 【第2章fin】

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