「2章-第12話:逃げない痛み」
何かが回転する音が、空間の奥で響いていた。
それは鋭利な何かが空気を切り裂く音――肉を削ぐような金属音だった。
ノーアはその異音を聞きながら、まるで自分の体が、次に投入される何かの素材のように思えた。切り刻まれるのをただ待つ、無力な存在。その感覚に、思考が凍りつく。
「おいっ……うそだろ……この気狂い野郎ッ!!」
男の叫びが、空気を震わせた。
「うぉあああああああッ!!」
直後、何かが軋み、こすれ、引き裂かれるような音が耳をつんざく。切断というより、何かを無理に削ぎ取るような、重苦しい音。
「あああああ……なぜ……なぜ死なない……」
断続的なうめきが闇の中に溶けていく。
そして、静かに紛れ込むような声があった。どこか異様に落ち着いた、男のものだ。
そして、異様に落ち着いた男の声が割り込んできた。どこか得体の知れない柔らかさを含んだ声――フレイマン、と呼ばれる人物のものだった。
「ここには膨大なマナがある……」
「その椅子に座る以上、死ぬことは……許されない」
まるで祈りのように語られる言葉。だが、慈愛はなかった。
「必要なことを話せば……痛みから解放してやろう」
「ああああ……頼む、もう……そんな金なんか……ないんだ……ないんだってば……ああああ……」
叫び声に被さるように、足音が近づいてくる。
ガサリと音がして、ノーアの顔を覆っていた布袋が乱暴に引き剥がされた。
パチン――明かりがつく。
視界が一瞬、白く灼ける。強い光に思わず目を閉じた。
だが目が慣れたとき、ノーアの脳裏は凍りついた。
椅子に拘束された男がいた。
指先は真っ赤に腫れ上がり、乾いた血で黒ずんでいた。
裂けた皮膚の奥からは、まるで剥がれかけた布のような繊維が垂れ下がっているように見えた。
そして――顔の右半分が、まるで擦り剥けたように赤黒く変色し、ひび割れた皮膚の亀裂から、赤が零れている。
すでに正気のない、まん丸な瞳で天井を見つめている。
ノーアは思わず息を飲んだ。だが、もっと恐ろしいものがあった。
男の首には、太い金属の管が接続されていた。
そして、自分の喉元にも同じものが――。
ノーアは震えながら、それを見下ろした。
隣では、カイが拘束されたまま涙を滲ませ、フレイマンがその腕を無言で押さえ込んでいた。
声ともつかない声が漏れる。顔はうつろで、意識のほとんどは虚空に漂っていた。
「あああああ……ガキが死のうが、ないもんはねえんだよ……わかれよ……たのむから……あああああ……」
うわごとのような声が途切れた瞬間、何かが押し当てられ――
「ゔっっ!!」
骨ごと砕かれた。
椅子が軋み、振動がノーアの足元にまで伝わる。
(くっそ……なんてことしやがる、この悪魔ッ!! おい!どうすればいい!)
心が暴れる。
そのとき、ノーア自身の指先に何かが触れた。
「ゔゔゔうううっ!!」
(いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!)
痛みが、波となって脳を揺らす。
(なんでこんなに……人間は敏感なんだ!? 家畜だって、こんな痛み感じてるわけない……)
理不尽が、身体中を駆け巡った。
(うそだ……うそだッ……! 少女を助けただけだろ!? 代償がこれって……そんなの、あんまりだ……!)
(ふざけんな……こんなにも理不尽なら……絶対に負けねえ……逃げない……絶対に逃げないからな……!)
その瞬間、視界がバチッとノイズを走らせる。
『……ガ ガ ガ…… ニ ン チ…… ガ ガ…… プ デ…… ガ ガ…… カ ン リョ ウ……』
どこかで、以前も聞いた気がした。あの時の、あの森の……。
あのざらついた声が、今は脳を貫いて、以前より容赦なく意識を呑み込んでいく。
錆びた鉄扉の奥にある簡素な控室。埃をかぶった換気扇が、かすかに唸るような音を立てて回っている。
ラセルは椅子に浅く腰掛け、足を組みながら、机の上に置かれたマナエールのグラスをじっと見つめていた。立ち昇る泡がゆっくりと消えていく。その隣では、フェルマーが壁にもたれて無言のまま、思考の奥に沈んでいる。
沈黙を破ったのは、ラセルの指にはめられたリング型デバイスの着信だった。甲高い振動音が空気を切り裂き、彼は反射的に画面を見て、顔をしかめた。
「……なに?! 事務所が?」
次の瞬間には、もう立ち上がっていた。声には焦燥がにじみ、視線は端末の奥の何かを見据えるように鋭くなる。
「よし、おまえはそのまま“さつ”の動向を追ってろ」
ラセルは手際よく通話を切った。肩越しにフェルマーへ振り返ることなく、ただ淡々と言葉を続けた。
「安心しろ。“さつ”とつながっている以上、このエリアから出れば問題ない」
「警察と……? いったいどういうことだ?」
フェルマーの声は低く静かだったが、その裏にある怒りと不信は隠しきれなかった。
その目がほんの一瞬だけ、ラセルの言葉の裏を読み取ろうと動いた――何かを探るように。
ラセルは顔をしかめるでもなく、ただ小さく鼻を鳴らす。
「エランたちは、これが収まり次第始末する」
まるで通達でもするように言い放つと、彼は懐から黒ずんだリボルバーを取り出し、手際よく弾倉を確認した。
「とりあえず今は――ガキも殺して、ここから出るぞ」
その刹那。
フェルマーの視線がわずかに揺れた。
それは、問いの続きではない視線……。
「カチッ」
乾いた金属音が、空気を裂いた。背後から突きつけられた銃口が、ラセルの頭部に冷たく触れる。
「振り向かず、そっと銃を置け」
フェルマーの声だった。静かで、抑制のきいた響きが、かえって場を凍らせた。
ラセルはわずかに目を伏せ、低く笑う。
「なるほど……あの酒瓶に映ってたのは、お前だったってことか……」
ひと呼吸の間があった。
そしてフェルマーが、吐き出すように呟く。
「頼む……泡が消えた酒ほど、つまらねえもんはないんだろ?」
ラセルの口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
次の瞬間、銃声が空間を切り裂いた。
ラセルの身体がスローモーションのように傾き、床に崩れ落ちる。その眼は、すでに何も映していなかった。
撃ったフェルマーの表情は、何ひとつ変わっていなかった。ただ、ひとつ深く――心の底から、息を吐いただけだった。
机の上のマナエールには、まだかすかな泡が、立ち上っていた。
意識の淵を、誰かの声が何度も叩いてくる。
「……ろ、起きろ、起きろ、生きてるか!」
ぼんやりとした闇の中で、その声だけがやけに鮮明だった。
ノーアはまぶたを震わせ、鈍い痛みとともに目を開けた。
「あれ……?」
見慣れない天井。血のにおい。鈍く脈打つ全身の疼き。なによりも、呼吸のたびに感じる胸の圧迫感――
「おい、大丈夫か? ノーア!」
すぐそばからカイの声。ノーアの頬に触れた指が、どこか震えていた。
その指先に、どくん、と記憶がよみがえる。
(そうだ……ここで、拷問を……受けていた? 夢、じゃない……?)
ノーアは自分の指を見ると、背筋に冷たいものが走る。
「事情はいい、ここをすぐ出るぞ。ついてこい!」
短く言い放ったのは、フェルマーだった。血のにおいを吸い込んでもなお揺らがない声。ノーアの手を取って立ち上がらせるその動きには、ためらいがなかった。
急いで部屋を出たその先で、空気が一気に張りつめる。
通路の先から現れたのは、血相を変えた一人の女――リディアだった。
視線が交差した瞬間、彼女の手が腰の剣に伸びかける。次の一秒で刃が抜かれるのは明らかだった。
「待って!」
あわてたノーアは、思わず全力で身を乗り出し、フェルマーの前に立ちはだかった。
「この人が……この人が助けてくれたんだ!」
リディアの動きが止まる。
一瞬だけ目を見開き、そのまま数秒の沈黙が流れた。
そして次の瞬間。
リディアはノーアとカイを無言のまま両腕で抱きしめた。力強く、息が詰まりそうなほど。
「……バカ」
小さく漏れたその言葉に、ノーアの胸が締めつけられる。
それは、怒りでも、安堵でも、何よりも深い、姉の感情そのものだった。




