「2章-第11話:善の代償」
目が覚めた瞬間、ノーアは闇に呑まれていた。
瞼を開けたはずなのに、何も見えない。まるで濃い墨を塗りたくられたような視界。
息が詰まる。冷たい空気が肺に入り込み、喉の奥でひっかかった。背中には硬いものの感触。椅子――いや、金属製の何かだ。体を動かそうとして、ようやく気づく。両腕は肘から手首、指先まで拘束され、脚も、足首も固定されている。微動だにできない。
口元には異物。乾いた布――だが、かすかに血のような鉄臭が混ざっている。布越しに叫ぼうとしても、喉の奥でくぐもった声がくすぶるだけだった。
(……おちつけ……おちつくんだ……)
心臓の音が、耳の奥で爆ぜるように鳴っている。背筋に冷や汗が流れた。
呼吸を整えようとするたび、鼻腔をつんざくような臭いが襲う。汗、鉄、腐敗、焦げ。ありえない匂いが混ざりあって、胃の奥から何かがこみあげた。
そのときだった。
――クラシック音楽が、どこかで流れ始めた。
優雅で、柔らかく、ゆっくりと上昇する旋律。
まるで高級レストランのBGMのようだ。けれどそれが、今いる場所の異常さをはっきりと際立たせる。冷たい金属と闇の中で、美しい音楽だけが空気を支配している。
(……ふたり? 足音……)
遠くで、コツ、コツと金属を叩くような足音が近づいてくる。
床が金属なのか、靴底が甲高く響いている。二人分。片方は重く、もう片方は軽い。規則的な歩調ではない。おかしい。
(カイ……カイが、声を……?)
かすかに、何かを吐き出すような音が聞こえる。くぐもった、苦しげな声。
それがカイのものだと、ノーアは本能で感じた。助けを求めている――いや、叫んでいる? 名前を呼んでいるのか? わからない。なにも、見えない。
その直後、何かが“外される”ような音が響いた。
そして、息を吐き出すような、荒れた声が空気をかき乱す。
「ぷはっ……く、くそっ……」
誰かの口が開かれた――それが最初の言葉だった。
それは笑い声ではなかった。押しつぶされたような、呻きにも似た息遣い。
続けざまに、かすれた声が漏れた。
「た、頼む……許してくれ……!」
金属のぶつかり合う音が響いた。ガシャリと、硬いものがこすれる嫌な音。
「お、おまえが……“フレイマン”……あんたが“フレイマン”なんだろ!?」
「ま、待て! 話を……話をさせてくれ……お願いだ……ラセルに……ラセルと話をさせてくれ!」
「やめろ……やめろ、やめろやめろやめろっ!!」
ギンッ、と刃物が跳ねるような音とともに、声が悲鳴に変わった。
「う、うがああああああああっ!!」
(えっ!?)
また、金属が跳ねる音。すぐに、裂けたような声が続いた。
「あがっ、ああああああああああっ!!」
「た、たのむっ……! 頼むから……ほ、欲しいものがあるんだろ? な、なあ! あるはずだ……絶対に見つけてみせるから、だから――っ!」
ギリギリと、金属が擦れる。
「あっ、がぁあああああああああっ!!」
(なんだよこれ……っ! なんの間違いだ、夢だろ? 悪い冗談だよな……)
音楽は、変わらず優雅に流れ続けていた。
その旋律が、耳の奥で歪む。どこか滑稽で、残酷で、逃げ場がなかった。
(少女を……助けただけ、だろ? あれくらい、普通のことだ。おれは、子供なんだぞ……子供なんだから……だいじょうぶ、だよな?)
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返した。
けれど、身体は震えていた。冷たく湿った拘束具の感触が、もうそれが“現実”だと否応なく教えてくる。
コンテナ街の一角、かつて「ボーンクラッド」の名で知られた組事務所の前には、赤色灯が鋭く明滅していた。光は鉄骨の壁を不気味に染め上げ、視界に揺れる影を濃く映している。
制圧はすでに完了していた。建物の出入口には「立入禁止」のテープが無数に張られ、封鎖区域の周囲には、装甲キャリーがコンテナの角に据え付けられ、警告灯と共に重い警戒音を鳴らしていた。重装備の警官たちが、隙なく配置につき、視線を鋭く巡らせている。
その中心、仮設デスクに押さえつけられた組員の一人が、憎悪のこもった叫び声を上げる。
「……あぁ!? そんなガキ、知らねーって言ってんだろ!」
刑事は一言も発さず、無造作にその襟元を掴むと、机に頭を叩きつけた。
ガンッ!
「っ……クソが……知らねぇもんは、知らねぇんだよ!」
呻きながらも、なお悪態を吐くその態度に、刑事の顔が歪む。そこに浮かんだのは、怒りでも嫌悪でもなく、焦燥だった。
――時間がない。
ノーアが“まだ”生きている保証は、どこにもない。
「……このまま口を割らせる。だが、次の手を講じる時間は限られている。手分けして、カルテルの潜伏拠点を片っ端から洗え!」
号令に応じ、周囲の捜査官たちが即座に動き始めた。通信装置に声が飛び交い、装甲キャリーが自動で配置を変えながら、警告灯とともに路地を塞ぎ始める。その喧騒の中、刑事は近づいてきた人影に顔を向けた。
「リディア様――申し訳ありません、状況が刻一刻と悪化しています。すぐに“処理棟”側の拷問施設へ向かっていただけますか。組織図には出ていない別棟がある可能性もあります」
リディアは短く、しかし力強く頷いた。鋭く視線を走らせ、迷いのない口調で答える。
「わかったわ」
「……時間との勝負ね。私が行く」
リディアは唇を引き結び、視線をさらに鋭くした。
彼女が身を翻すと、背後からクランクギアがギチギチと音を立てて滑り込んでくる。警官の一人が扉を開けると、迷いなくリディアはその座席に乗り込んだ。
赤色灯が彼女の横顔を照らし、軋む鉄の通路を、車両はゆっくりとだが確実に進み出す。
――弟のもとへ。
静かに息を吐きながら、リディアは目を閉じた。




