「2章-第9話:大人になる覚悟」
空の色など届かぬコンテナ街の風俗街には、ネオンさえ点かない曖昧な闇が横たわっていた。金属の通路は湿気を帯び、どこか血の匂いにも似た熱が漂っている。
「おい! こっちのほうがよさそうかも!」
カイが振り返って手招きした。ノーアは歩を止め、彼の示す方角を見やる。
店舗の外壁は、無機質なパネルで覆われていたが、その一角には笑顔の女たちの顔写真が並んでいた。赤いLEDの縁取りが、営業中であることを示している。
一見清潔に保たれているようで、どこか空虚な空気が漂っていた。
二人は顔を寄せ合い、覗き込もうとした。だが次の瞬間――。
脇の非常扉が、内側から勢いよく開いた。
「うわっ……!」
小柄な身体が飛び出してきて、ノーアと正面からぶつかった。
「いって~……」
ノーアが頭を押さえてうずくまる。
「なにすんだよ、おまえ! いってーな……!」
カイが勢いよく立ち上がって文句を言うと、少女はその場に崩れ落ちるように立ち止まった。服は薄汚れ、肩で息をしながら、まるで言葉も忘れたかのように震えていた。
「……ごめんなさい」
少女のかすれた声が、ようやく漏れた。
「何泣いてんだよ。お前から当たったくせに……」
カイが呆れたように言いかけたが、ノーアが小さく手を伸ばす。
「……どうしたの?」
視線が交差した。ノーアは、その瞳に言葉以上のものを感じていた。
(生きようとしてる……こんな場所で、必死に)
――なぜだろう、胸の奥がざわめく。少しだけ息が速い。自分でも気づかないうちに、何かが昂ぶっている。
こんなにも強く、誰かの“存在”を感じたのは……初めてかもしれない。
(……もしかして俺、ちょっと興奮してる? いや……なんで。こんな時に)
その時だった。
「こっちで見たぞ!」
怒号のような声が飛んできた。路地の奥から、重い足音が響く。
ラセルとフェルマー――。
二人の男が向かってくる気配に、ノーアとカイは顔を見合わせた。そして、黙ってうなずいた。
「行け!」
ノーアが道を開く。少女は一瞬ためらったが、すぐにノーアの腕をすり抜けて走り出した。かすれた靴音だけが、闇の中へ吸い込まれていく。
「……行った」
「……間に合ったな」
カイが小さく安堵の息を吐いた、ほんの数秒後――。
「おーい、お前ら」
ラセルの声が背後から響いた。
「逃げた女の影も一緒に見たんだが?」
フェルマーが無表情に続ける。
二人の大人が、路地の両端を塞ぐように立ちふさがった。まるで出口が封じられていくように、空気が重くなる。
ノーアとカイは背筋を凍らせながら、ただその場に立ち尽くした。
「ちなみに……何か話したかい?」
ラセルがゆっくりと問いかける。
二人は何も言わなかった。ただ、睨み返すでもなく、目をそらすでもなく、沈黙を守った。
「……なるほど。何かは聞いてるみたいだね」
ラセルが一歩、また一歩と近づいてくる。
拳銃もナイフも持っていない。けれど、必要ないのだと伝わってくる。あの目の圧だけで、呼吸さえも乱される。
「言えよ。どこに逃がした?」
ラセルの声は静かだった。
ノーアは一度だけ、深く息を吸った。
「……知りません」
ラセルは眉をひそめ――そして、ふっと笑った。
「……面白いな、お前」
拳が振り抜かれた。音はなかった。
だが次の瞬間、ノーアの身体は路地の壁まで吹き飛ばされていた。
「てめっ……!」
カイが駆け寄ろうとした刹那、フェルマーの肘がカイの腹に深く突き刺さる。言葉にならない呻きが漏れ、カイはその場に崩れ落ちた。
「ガキってのは、大人に逆らうことが“正義”だとでも思ってんのか」
フェルマーが冷たく言い放つ。
「ちが……う……。正しいとか……そういうんじゃ、ねえよ……」
地面に手をつきながら、カイが答えた。
「……じゃあ、何だってんだ?」
ラセルの問いに、今度はノーアが立ち上がる。
鼻から血を流しながら、それでも瞳を逸らさずに叫んだ。
「大人が子どもに聞くことなのか!!」
一瞬、ラセルの動きが止まった。
まばたきもせず、無言でノーアの前にしゃがみ込む。
「……そっか。大人として、申し訳ないね」
そう言って、ラセルはリングデバイスにそっと手を添えると、短く何かを送信した。
「ガキは使えそうだ。俺が連れてく」
そして、言い捨てるように付け加えた。
「……おまえはこのまま、ガキを終え」
「了解」
フェルマーが淡々と答える。
そのやりとりを、少し離れた場所で見ていた男が、リング型のデバイスに小声で話しかけていた。何かを、報せるように。




