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メビベルの空  作者: A2
第2章
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「2章-第8話:託された未来」

 ポッドの扉がゆっくりと開いた。

 冷たい鉄の匂いと、濡れた空気が肌に触れた。ノーアは一歩、足を踏み出す前に無機質なポッドの窓へと視線を落とす。うっすらと曇ったガラスには、自分の顔がぼんやりと映っていた。濡れた前髪の奥、目元には緊張の色が隠しきれない。


 「着いたぞ!」

 ポッドからぴょんと飛び出したカイの声が、コンテナ街の狭い通りに響いた。

 その先に広がるのは、錆びた鉄骨と湿ったアスファルトが絡み合う、風俗街――《夜のとばり》と呼ばれる区域だった。ネオンの明滅が水たまりに揺れ、どこか気だるくも淫靡な空気が漂っている。


 「……やっぱ、クールセルにしといたほうがよかったかな……」

 カイが少し声を落とす。興奮と不安が混ざったような顔だ。


 「ほら、感染症とか……怖いしさ」

 (おいおい、コンテナ街の悪童が泣いてるよ)

 ノーアは内心で笑いながらも、胸の奥にうまく言葉にできない緊張を抱えていた。


 「俺は医者の息子だよ?!」

 口ではそう言いながら、喉が乾いて仕方ない。額の汗も、湿気のせいだけではない。

 (前世では経験できなかった唯一の悔いは──これだ。しかし……緊張する)


 「それに、ポルノ中毒防止用の施設なんて……俺たちに必要か?」

 クールセル。中央都市が運営する“青少年保護”の建前で作られた、仮想体験型の更生施設。性衝動を制御するための装置と教育が施されているが──正直なところ、味気ない。


 「よし!」

 カイが拳を握って、叫ぶように言った。


 「俺たち、今日──男になるんだよな?」


 「うん……」

 ノーアも、無理やり声を絞り出す。

 (……ごくり)

 ふたりの影が、濡れた地面に並んで伸びた。



 夜の街に埋もれるように建つノクターン・ヴェールの奥、静まり返ったオーナー室。

 くたびれたソファと安っぽい香水の香りに包まれながら、エランはテーブル越しに並んだ女たちを見渡していた。


 「……すまない」

 エランの声は低く、どこか苦しげだった。


 「横領した分を上乗せして、一週間以内に支払わなければならなくなった」

 室内に、重い沈黙が落ちた。

 娼婦たちは顔を見合わせ、不安を隠せずにいた。誰一人として口を開こうとせず、ただ、エランの言葉を待っている。


 「こちらで、ヴェルセリオ共和国内の村に密航できるよう手配してある。急な話で申し訳ないが……今から荷物をまとめてもらえるかい?」

 沈黙の中で、最初に口を開いたのはマディアだった。


 「……あんたは、ゴルダンと違って私たちに尽くしてくれた」

 その声は静かだったが、揺るがない力を秘めていた。


 「私には、少なからず恩義を返す義理があるよ」

 誰かが、小さくうなずいた。次々と女たちが表情を引き締め、覚悟を決めていく。ただ、一人を除いて。


 部屋の明かりが落ちた後、就寝部屋の隅で、マディアとティナが向かい合っていた。


 「……あんたは逃げるんだよ」

 マディアが言った。


 「なんで?……あなたはここで生きろって教えたんじゃないの?」

 ティナの問いかけは、まるで子どもが大人に抗うような、けれど本気の声だった。


 「言ったろ。――“当たり前”の時間を持つと、人は進めなくなるんだよ」

 マディアの目には、どこか遠くを見ているような光が宿っていた。


 「もう、育てる側に回った大人には、今さら道を変えるなんてできない……」

 ティナが少しだけ俯く。


 「……でも、今はこれでいい時間もあるよ?」

 マディアは、ふっと息をついた。


 「仕事にも、不向きなものはあるんだ。……正直、あんたには向いてない」

 思わずティナが目を丸くする。


 「私のようにね」

 マディアの笑顔は、どこか苦しげで、優しかった。


 「……ティナの“先”が見えるのがつらくてね」

 その言葉に、ティナは何も言わず、強くマディアを抱きしめた。


 「……あんたに、未来を託してみるよ」

 二人は抱き合ったまま、ただ涙をこぼしていた。

 しばらくして、ラセルとフェルマーが静かに店に入ってきた。重い足取りで、まっすぐエランのもとへ向かう。

 就寝部屋の入り口近くでは、マディアが小さな包みに荷物と指示書を詰め、窓の鍵を外していた。それでも、逃がす者に触れるその手には、母のような優しさが宿っていた。

 窓の外へ姿が消えたその瞬間、鳥かごの中の鳥が甲高く鳴いた。


 「ニ・ゲ・タ……ニ・ゲ・タ……」

 まるで、録音された言葉を機械的に繰り返すように。

 ――その冷たい声は、もう自分のものではなかった。


 「……ガキがいない!」

 ラセルの怒声が響いた。

 マディアが振り向くよりも早く、拳が彼女の頬を打った。勢いのままに倒れた身体を、フェルマーが容赦なく蹴りつける。

 それでもマディアは、どこか誇らしげに微笑んでいた。

 床に崩れたその顔には、痛みと共に、どこか清々しさが浮かんでいた。

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