「1章-第1話:ファルネイラ家の朝」
カーテンを開ける音がした。
まぶたの裏に、柔らかい陽射しが滲む。
風が、花の香りを運んできた。
「おはようございます、ノーア様」
耳に届いたのは、優しげな老女の声だった。
朝の訪れを告げるそれは、決まって穏やかで、どこか懐かしい響きを含んでいる。
(……ああ、またこの世界の朝か)
この世界に来て、どれくらい経ったのだろう。
前の人生では、目まぐるしい毎日を必死で泳ぎきるだけで精一杯だった。けれど、ここでの暮らしは違う。時間の流れが緩やかで、心がほぐれていくのがわかる。
そう、癒される……。それに、何よりも——
(最近は好奇心が止まらないんだよな……)
転生してすぐは赤ん坊のふりをするのに四苦八苦したものだが、前世で憧れていた“自由な生き方”——猫や赤ん坊のような——それを思い出すと、つい笑ってしまいそうになる。
(にしても……まだ幼児だから仕方ないけど、着替えさせてもらうのって、やっぱり恥ずいな……)
手際よく衣服を整えてくれる老女の手がふれるたび、心の奥で小さく身じろぎする。
照れくささを押し殺しながら、ノーアは今日という一日を受け入れていく。
そして、いつものように——誰かが近づいてくる気配。
扉が静かに開いた。現れたのは、彼の父だった。
どうやら仕事の合間を縫って顔を出したらしい。
日課のように、抱きしめてくる。
(……ったく、満足したら帰るんだからな……)
ノーアは心の中で小さく呟く。
ヒゲが頬に当たってチクチクする。
(仕事しなさいよ、ほんと……)
けれど、この父のぬくもりは嫌いじゃなかった。
前世では、父の愛情を実感したことなんてなかった。ましてや、背中を追いかけるような存在でもなかった。
なのに、この世界では——
(世が変われば、こんな親父にも出会えるもんなんだな……)
ひげ面の父が満足げに微笑み、部屋を後にする。
その背中を見送りながら、ノーアは無表情を保ち、無我の境地に戻っていった。
……と、また足音。
父が去ったばかりなのに、今度は別の誰かが近づいてくる。
ため息が漏れた。
今度は、姉だった。
扉の陰で誰もいないことを確認するような動きをしたあと、そっとノーアに近づき、ふわりと抱きしめる。
(……親子そろって、何しとんのかね、この世界の住人は……)
けれど、姉の胸の中に包まれる感触は、確かに心地よい。
ただ——
(腕のプレート、痛いんだけどな……)
姉は普段から軽装の甲冑を身につけている。
その硬い素材が、頬に当たって地味に痛い。
理性を保つために、ここでもノーアは再び無我の境地に至る。
抱擁の儀式(?)を終えると、姉も満足げに部屋を出ていった。
今日もまた、いつも通りの一日が始まる。
ノーアはゆっくりと廊下を歩き出した。目指すのは食卓。
今日は、ちょっとした節目の日でもある。
(さて……今日から“書斎デビュー”ってわけか)
静かな足音が、屋敷の木製の床に吸い込まれていく。
古風な照明器具、重厚な家具、手紙や書類が山積みになった棚。
この家には、どこか“アナログ”な雰囲気が漂っていた。
(この家、やたらとアナログだらけだし……前世の記憶もあって、まだ慣れないし、謎も多すぎるよな)
それでも——
(本は得意じゃないけど……今日は書斎に入れるし、探してみっかな……やべ〜、ワクワクしてきた)
思わず頬が緩む。
知識と好奇心が、静かに胸をくすぐった。
玄関先から、小さな声が聞こえた。
ノーアが廊下を抜けて階段を下りると、ちょうど屋敷の扉が開いていた。
サイラスが誰かを見送っている。
立ち去ろうとしたその男が、ふとこちらを振り返った。
(……ん? こんな時間に来客?)
ノーアは目を細める。
(なんだ、あの人……ずいぶん上から目線っていうか……)
その男は、ノーアを見るとわずかに眉を動かし、無言で去っていった。
(うーわ……見下してくるタイプだ。エリートの臭いがする……)
姿勢も仕草も隙がなく、無駄に洗練されていた。
ただ、どこか冷たい。
(あれ……そういえばさっき親父、はぐしに来てたよな……)
不意に浮かんだ疑問は、そのまま霧の中に消えていった。
ノーアが食堂に入ると、台所では母・アマーリエが料理の盛りつけをしていた。
その背中はやわらかく、所作にはどこか音楽のようなリズムがある。
姉のリディアは、既に席についているが、料理を待つ間もソワソワと落ち着きがない。
従者のユラが皿を一つずつ丁寧に並べながら、穏やかにテーブルを整えていく。
やがて、全員が揃い、静かに祈りの時間が始まった。
サイラスが合掌し、短く息を吸う。
「今日という日を、この命を、そしてこの糧を与えてくれた全てのものへ」
「風よ、土よ、育てし命よ──我らの祖霊よ、共に召し上がれ」
厳かに響く声。続いて、皆が手を合わせる。
「いただきます」
「糧るっ!」
リディアの叫びが一拍遅れて響く。
「こらっ……」
台所越しに、ユラのたしなめる声が飛んだが、誰も気にしていない。
毎朝の風物詩だ。
食卓はすぐに賑やかになる。
パンとスープ、蒸した根菜にハーブの香り。
家族全員が顔を寄せ合うこの時間は、ノーアにとっても心安らぐ瞬間だった。
(風とか土とか……祈ってるけど、ファンタジー色薄いんだよなこの家)
(精霊とかって、実在するんかな……)
頭の隅で、ぼんやりとそんなことを考えていると、父・サイラスがふいに口を開いた。
「今日は急遽、ARCの要請が入ってね。ヴァルス連峰の病院でオペをすることになった」
ナイフを器用に動かしながら、落ち着いた口調で報告する。
「嫌だねぇ、またクリーチャーの汚染かい?」
キアが苦々しく返す。隣でスプーンを止めながら顔をしかめた。
(クリーチャー……? なんだその物騒なフレーズ……)
ノーアはスープの中の具をいじりながら、耳だけはしっかり傾ける。
「まっ、そういうことは言わないの。こっちはシェリルに任せて、リディアは補佐としてついてきなさい。良い経験になる」
サイラスが穏やかに、しかしはっきりと告げる。
「ママちゃん、移動の準備をお願いするよ」
「了解したわ、あなた」
アマーリエが微笑みながら答えると、サイラスもにこりと笑った。
「心配いらんよ、リディア。アプローチも施術も、パパの手順は完ぺきに入ってるから。ARCの最新鋭の技術も見られるし、なんでもやってみることだ^^」
「了解! 私、頑張るね!!」
リディアが両拳を握って、まっすぐ父を見た。
食卓にはまた、温かい笑い声が戻っていた。
朝の光が、屋敷の裏庭にある小さな畑と石道をやさしく照らしていた。
ノーアは湯気の立つ木鉢を手に、牛舎へと向かう途中で立ち止まった。
「ほら、ティコ。朝食の残りだけど、ちゃんと味わえよ」
そう言って木鉢を地面に置くと、庭の隅に座っていたティコが嬉しそうに尾を振りながら、ずんぐりした身体を揺らしてやってきた。毛むくじゃらの前脚と、短く太い胴体はどう見ても犬そのもの。
だが、頭だけは――立派な角と大きな鼻孔を持つ、まるで子牛のような顔をしていた。
「うまいか、ティコ?」
ノーアはその丸っこい頭を撫でながら、どこか複雑そうな顔で笑った。
「ペット用の牛とはいえ、首から下が犬って……やっぱ、この世界のセンスちょっと疑うよな……」
その時だった。
「あなたって、なんか上から見てるみたいな言い方だね?」
背後から、澄んだ少女の声が届いた。
「えッ!」
ノーアは驚いて振り返る。屋敷の垣根の向こう、朝霧の中に立っていたのは、小柄な少女だった。栗色の髪に、土汚れのついたスカート。だが、その瞳は真っ直ぐで、こちらを見透かすような輝きを帯びていた。
「……“この世界のセンス”って言ってたよね?さっき」
「え、あ、それは――」
ノーアはたじろぎながら、言葉を濁した。
少女はにこっと笑った。
「ふふふふ……私はハミル。あなたって、面白い子だね」
「えっ、あ、そう? ぼ、ぼくはノーア」
「そんなこと、みんな知ってるよ。このあたりの人は」
その言葉で、ノーアは思い出す。市場の一角、麦束を運んでいたあの少女――
「あっ、あの時の! いつも収穫のとき、お世話になってます」
「なにそれ?!」
二人は思わず笑った。
ノーアは少し照れくさそうに、木鉢の空になった底を見つめて言った。
「あのさ……これから牛に餌やりに行くんだけど、来る?」
「うん」
素直にうなずいたハミルの前に、ノーアは少し緊張した面持ちで右手を差し出した。
その仕草はどこかぎこちないが、貴族らしい“エスコート”の名残があった。
ハミルは少し驚いたように目を見開いたが、何も言わずに、その手を取った。
午後の陽が傾きはじめ、ファルネイラ邸の裏手にある小屋の前に、少しずつ人が集まり始めていた。
静かな農道沿いに、数台の荷車が止まり、その周りで荷下ろしを手伝う村人たちの笑い声が、のどかに響いていた。
小屋の軒先には、いくつもの靴が整然と並べられていた。
革のブーツ、底が擦り減ったサンダル、紐がほどけかけた作業靴。どれもが泥にまみれ、かかとも、つま先も、ひと目で土仕事をしてきた足だとわかる。
ノーアはその光景を、玄関脇の柱に寄りかかりながら見つめていた。
なぜか、胸の奥がじんとした。
――玄関いっぱいの靴。
――泥だらけのスニーカー。
「遊びに来たよ!」
「お誕生日おめでとう!!」
そんな声が、どこか遠くで響いた気がした。
前の世界。たしかにそこにあった記憶。けれど今となっては、もう誰の顔も思い出せない。
ノーアは小さく、つぶやいた。
誰に聞かせるでもなく、祈るように。
「……みなさん、いつもありがとうございます」
それは、感謝というよりも、胸に渦巻く名もなき気持ちを、言葉にして落とすような響きだった。
邸の使用人たちが笑顔で対応する中、積み荷が順番に小屋の中へ運ばれていく。
毎年この時期、ファルネイラ家では“おはぎ”用のコーンを近隣農家から分けてもらうのが習わしだった。領民たちと共に季節を祝い、食を分かち合うそのやりとりは、小さな共同体としての温かな風習のひとつだった。
荷下ろしが終わる頃、ノーアはふと、視線を感じて振り返った。
邸宅の石垣の向こう。
荷車の影から、ひとりの少女がこちらをじっと見ていた。
栗色の髪。土の匂いが染みこんだ服。
幼いけれど、なぜかその瞳だけが、ずっと大人びて見えた。
ノーアは一瞬だけ戸惑い、けれど何も言わずに目をそらした。
その視線の意味は、まだわからなかった。