「2章-第4話:泡の静寂」
コンテナ街に日が差すことはない。
それでも、ノクターン・ヴェールの奥まった洗濯室では、少女が明るい声を響かせていた。
「よいしょっ!と」
ティナが乾燥機から取り出した衣服を、かごに移す。
くたびれた素材のドレスや下着が、彼女の小さな手で丁寧にたたまれていく。
つらかったはずの時間が、少しずつ、ゆっくりと、ティナ自身の“生活”として染み込んでいた。
ここには朝も夜もない。だが、毎日同じ作業をすることで、心のどこかに静かなリズムが生まれていた。
「……」
その様子を、就寝室の入り口から一人の女性が見守っていた。マディアだ。
肘を扉の縁にかけ、細い煙草を口元で揺らしながら。
「そうやって毎日同じことをすると、安心できる時間が増えるんだよ」
ティナは気づかない。だがマディアは続けた。
「こうやって何も起きず、平和に過ごせる時間があるとね――
……こんな時間、人生でもいいじゃないかって思えてくるよ。こんなクソみたいな世界でもさ」
ティナが顔を上げ、洗濯物のかごを抱えてマディアのもとへと歩いてくる。
二人はそのまま、静かに階下へと向かった。
ノクターン・ヴェールのオーナー室――
エランは、乱雑に積まれた帳簿と端末を前に、無言で画面を見つめていた。
数字は整っている――はずだった。だが、ある箇所だけが不自然に“軽い”。
痕跡はきれいに処理されていた。だが、ほんのわずかに残る癖のような抜け道――
どこか軽薄な手口だった。
威圧の裏に冗談を混ぜるような、あの“お調子者”の匂いが染みついている。
エランは小さく息をつき、目を閉じてから、声を発した。
「ダン! その辺にしてくれ」
部屋の隅では、ゴルダンが若い娼婦を壁際に追い詰め、怒鳴っていた。
「帳尻が合わねぇんだよ……てめぇのせいでな! 聞いてんのか、あァ?」
怒号に宿るのは、大人の暴力と安っぽい正義感――
だが、その背にこそ本当の“穴”があった。
エランの瞳は冷ややかだった。何も言わず、ただその姿を見つめていた。
「嬢にあたっても、何も解決はしないさ。……大丈夫かい?」
エランは怯える彼女に声をかけると、そっと肩に手を添えた。
彼の端末には、決して明るみに出せないデータが浮かんでいた。
自らが着服した金の動き――証拠は、冷ややかにスクリーンに表示され続けていた。
(……このままじゃ、誰かが死ぬ)
エランが思考を巡らせていると、部屋の外から微かに機械音が聞こえてきた。
ガタン――自動搬送キャリーが店に届いたらしい。
コール音が鳴る。扉のロックが解除される音に、エランは立ち上がった。
「すまない、誰か中身を持ってきてくれないか?」
扉越しにそう声をかけると、再び席に戻り、椅子へ腰を落とした。
ひと息ついたその時、ゴルダンが口を開いた。
「OK! わかった……じゃあ――」
冗談めいた笑みを浮かべながら、彼は言った。
「“嬢たち”に強盗やらせるってのは?」
「すまない……今、なんて?」
エランが顔をしかめたその瞬間だった。
「きゃあああ!!」
女の叫び声が、階下から響き渡る。
二人は同時に立ち上がり、オーナー室を飛び出した。
ロビーで、キャリーロッカーの前にしゃがみ込んだ娼婦が、口を手で覆いながら、壁に背を預けて震えていた。
指を伸ばし、ロッカーの中を指差す。
「どうした!!」
エランが駆け寄って中を覗き込むと、そこには――
黒いビニールに包まれたまま、男の首が転がっていた。
それが“誰”であるかは、顔の一部を見れば十分だった。カルテルの組員だった男。
「……」
ティナが階段を下り、廊下の様子に気づいて足を止めた。
異様な空気。死の匂い。空気の重さ。
目が点になる。動けない。声も出ない。
すぐさまマディアが駆け寄り、ティナの肩を抱き寄せ、彼女の目を塞いだ。
「もう、見なくていい……」
エランは頬に指を当て、リング型のデバイスで通話をかける。
コール音が響く――一度、また一度。
まるで、それ自体が焦燥を煽る警告音のように、同じ音が何度も何度も繰り返された。
腰に手を当てたまま、エランは呼吸を整えようとした。
だが、背後に漂う空気がそれを許さない。
焦りと怒りを押し殺すように、エランは静かに、その気配を睨みつけていた。
昼下がりのマック&クック。簡素な店内に、合成木材のテーブルが規則正しく並んでいる。
ラセルとフェルマーはその奥のソファ席に腰を下ろしていた。
白い人工皮革のソファに体を預け、ラセルが腕をソファの背にかけて足を組む。間もなく、軽快な電子音とともにトレイを乗せた配膳ロボットが姿を現した。
「おいおい、姉ちゃんはいないのかよ……しけてんな……」
この店――マック&クックの“売り”は、制服姿の愛想のいいスタッフが料理を運ぶ、昔ながらの接客スタイルだった。
だが今は、時間帯や人手の事情か、無機質なAIロボットがその代役を担っている。
返事などあるはずもなく、ロボットは料理をテーブルに置くと、振り返ることもなく背後に去っていった。
「しかし、ここ数年で便利な時代になりましたよね」
フェルマーが、紙ナプキンを折りながら静かに言った。すでにランチの具材に目を通していたが、言葉の端には機械への距離が滲んでいる。
「古いしきたりは消え、便利な時代がきたせいで、ずいぶんここも居心地が悪くなったな……」
ラセルの言葉は、軽口のようでいて、どこか吐き出すようだった。
「……それは俺たちが住む世界は、いつでもそうですよ。
人の手が汚れることで、上の欲は底知れなく深くて、終わりがない」
フェルマーは真顔のまま、それを返す。目線はラセルではなく、真っ直ぐ前を向いていた。
「人の手が汚れるってのは、間違っちゃいねえんだよ」
ラセルは片方の眉をあげて呟いた。
「みんな、生まれ持った環境で生きてくしかねぇんさ……
だけど仁義は通さなくちゃな……結局は、みんな他人を恐れて組織に溶け込む……
――誰もが、利用され合って消えていくのかもしれない……」
その言葉の余韻の中、ラセルは手元のマナエールを手に取った。瓶の中では、泡がやわらかく立ち上がり、ゆっくりと消えていく。
ふと、瓶越しにフェルマーの姿が映った。ラセルの表情がわずかに変わる。
「この泡ってやつは、不思議なもんだな……
どんなに丁寧に注いでも、綺麗に立っても、一番最初に消えるのがこいつらなんだ。
誰よりも先に、静かに、音もなく蒸発して、誰にも惜しまれずに、ただ“無かったこと”になる」
その声はいつになく落ち着いていた。
「……それでいて、一番うまい瞬間を作ってるのも、こいつらなんだよな。
でも明日にはいないんだ……でもよ……
泡がないマナエールほど、つまらねえもんはねえよ」
瓶には、うっすらと自分自身が映り込んでいた。
ラセルはそれを見つめたまま、ひとつ息をつく。言葉にならない想いが、しばらくそのまま喉の奥で泡立っていた。
その沈黙を破るように、手元のリングデバイスが振動と共に音を立てる。
しかし、ラセルはすぐには出なかった。代わりに、ポケットからタバコを取り出し、一本だけ火をつける。
紫煙がゆっくりと立ちのぼる。ラセルはその煙を眺めながら、しばし目を閉じた。
通りの片隅に設置された古びた公衆電話ボックス。
誰も見向きもしないような時代遅れの通信機器だが、この街ではまだ現役だ。防犯カメラの死角にもなる。
その中に、ラセルとフェルマーの姿があった。どちらも、周囲に視線を走らせながら、どこか落ち着かない様子で立っている。
ラセルはリング型のデバイスを電話機の認証パネルにかざすと、無言で数秒待った。
通信は繋がっていない。ただ、"あちら"の応答を待っているだけだ。
通話先のボスからの指示を仰ぐ――それが彼らの目的だった。
フェルマーが折り畳み式の扉を背で抑え、周囲を伺いながら、そっと囁く。
「……妙に静かですね――まさか、俺たちが“撒き餌”じゃないでしょうね?」
その瞬間――
リンリンリン
無機質な着信音が、狭いボックスの中を貫いた。
ラセルが受話器を取り上げ、何も言わずに耳を傾ける。
数十秒の沈黙の後、静かにそれを戻すと、無言のままボックスを出た。
まるでふてくされた子どものように、両手をポケットに突っ込んだまま歩き出す。
「奴ら、薬作ってちょっと売れたら、もう世界取った気でいやがる」
薄汚れた壁にタギングが走るスラムの路地を、ふたりは肩を並べて進んでいく。
頭上では、風に煽られた洗濯物が乾ききらぬまま揺れていた。
「東の連中が尻を叩いたせいで、馬鹿が“反乱ごっこ”始めやがった」
ラセルの口調には苛立ちと呆れが混じっていた。どこか遠くで犬が吠える。
「サッドが動いた時点で、もう“話し合い”って選択肢はねぇんだよ」
通りには昼なのに人気がなく、建物の影が異様に濃い。
ふたりの足音だけが乾いた舗装を打ち続ける。
その背には、常に誰かに見られているような張りつく空気があった。




