表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メビベルの空  作者: A2
第2章
16/38

「2章-第4話:泡の静寂」

 コンテナ街に日が差すことはない。

 それでも、ノクターン・ヴェールの奥まった洗濯室では、少女が明るい声を響かせていた。


 「よいしょっ!と」

 ティナが乾燥機から取り出した衣服を、かごに移す。

 くたびれた素材のドレスや下着が、彼女の小さな手で丁寧にたたまれていく。

 つらかったはずの時間が、少しずつ、ゆっくりと、ティナ自身の“生活”として染み込んでいた。

 ここには朝も夜もない。だが、毎日同じ作業をすることで、心のどこかに静かなリズムが生まれていた。


 「……」

 その様子を、就寝室の入り口から一人の女性が見守っていた。マディアだ。

 肘を扉の縁にかけ、細い煙草を口元で揺らしながら。


 「そうやって毎日同じことをすると、安心できる時間が増えるんだよ」

 ティナは気づかない。だがマディアは続けた。


 「こうやって何も起きず、平和に過ごせる時間があるとね――

 ……こんな時間、人生でもいいじゃないかって思えてくるよ。こんなクソみたいな世界でもさ」

 ティナが顔を上げ、洗濯物のかごを抱えてマディアのもとへと歩いてくる。

 二人はそのまま、静かに階下へと向かった。



 ノクターン・ヴェールのオーナー室――

 エランは、乱雑に積まれた帳簿と端末を前に、無言で画面を見つめていた。

 数字は整っている――はずだった。だが、ある箇所だけが不自然に“軽い”。

 痕跡はきれいに処理されていた。だが、ほんのわずかに残る癖のような抜け道――

 どこか軽薄な手口だった。

 威圧の裏に冗談を混ぜるような、あの“お調子者”の匂いが染みついている。

 エランは小さく息をつき、目を閉じてから、声を発した。


 「ダン! その辺にしてくれ」

 部屋の隅では、ゴルダンが若い娼婦を壁際に追い詰め、怒鳴っていた。


 「帳尻が合わねぇんだよ……てめぇのせいでな! 聞いてんのか、あァ?」

 怒号に宿るのは、大人の暴力と安っぽい正義感――

 だが、その背にこそ本当の“穴”があった。

 エランの瞳は冷ややかだった。何も言わず、ただその姿を見つめていた。


 「嬢にあたっても、何も解決はしないさ。……大丈夫かい?」

 エランは怯える彼女に声をかけると、そっと肩に手を添えた。

 彼の端末には、決して明るみに出せないデータが浮かんでいた。

 自らが着服した金の動き――証拠は、冷ややかにスクリーンに表示され続けていた。

 (……このままじゃ、誰かが死ぬ)

 エランが思考を巡らせていると、部屋の外から微かに機械音が聞こえてきた。

 ガタン――自動搬送キャリーが店に届いたらしい。

 コール音が鳴る。扉のロックが解除される音に、エランは立ち上がった。


 「すまない、誰か中身を持ってきてくれないか?」

 扉越しにそう声をかけると、再び席に戻り、椅子へ腰を落とした。

 ひと息ついたその時、ゴルダンが口を開いた。


 「OK! わかった……じゃあ――」

 冗談めいた笑みを浮かべながら、彼は言った。


 「“嬢たち”に強盗やらせるってのは?」


 「すまない……今、なんて?」

 エランが顔をしかめたその瞬間だった。


 「きゃあああ!!」

 女の叫び声が、階下から響き渡る。

 二人は同時に立ち上がり、オーナー室を飛び出した。

 ロビーで、キャリーロッカーの前にしゃがみ込んだ娼婦が、口を手で覆いながら、壁に背を預けて震えていた。

 指を伸ばし、ロッカーの中を指差す。


 「どうした!!」

 エランが駆け寄って中を覗き込むと、そこには――

 黒いビニールに包まれたまま、男の首が転がっていた。

 それが“誰”であるかは、顔の一部を見れば十分だった。カルテルの組員だった男。


 「……」

 ティナが階段を下り、廊下の様子に気づいて足を止めた。

 異様な空気。死の匂い。空気の重さ。

 目が点になる。動けない。声も出ない。

 すぐさまマディアが駆け寄り、ティナの肩を抱き寄せ、彼女の目を塞いだ。


 「もう、見なくていい……」

 エランは頬に指を当て、リング型のデバイスで通話をかける。

 コール音が響く――一度、また一度。

 まるで、それ自体が焦燥を煽る警告音のように、同じ音が何度も何度も繰り返された。

 腰に手を当てたまま、エランは呼吸を整えようとした。

 だが、背後に漂う空気がそれを許さない。

 焦りと怒りを押し殺すように、エランは静かに、その気配を睨みつけていた。



 昼下がりのマック&クック。簡素な店内に、合成木材のテーブルが規則正しく並んでいる。

 ラセルとフェルマーはその奥のソファ席に腰を下ろしていた。

 白い人工皮革のソファに体を預け、ラセルが腕をソファの背にかけて足を組む。間もなく、軽快な電子音とともにトレイを乗せた配膳ロボットが姿を現した。


 「おいおい、姉ちゃんはいないのかよ……しけてんな……」

 この店――マック&クックの“売り”は、制服姿の愛想のいいスタッフが料理を運ぶ、昔ながらの接客スタイルだった。

 だが今は、時間帯や人手の事情か、無機質なAIロボットがその代役を担っている。

 返事などあるはずもなく、ロボットは料理をテーブルに置くと、振り返ることもなく背後に去っていった。


 「しかし、ここ数年で便利な時代になりましたよね」

 フェルマーが、紙ナプキンを折りながら静かに言った。すでにランチの具材に目を通していたが、言葉の端には機械への距離が滲んでいる。


 「古いしきたりは消え、便利な時代がきたせいで、ずいぶんここも居心地が悪くなったな……」

 ラセルの言葉は、軽口のようでいて、どこか吐き出すようだった。


 「……それは俺たちが住む世界は、いつでもそうですよ。

 人の手が汚れることで、上の欲は底知れなく深くて、終わりがない」

 フェルマーは真顔のまま、それを返す。目線はラセルではなく、真っ直ぐ前を向いていた。


 「人の手が汚れるってのは、間違っちゃいねえんだよ」

 ラセルは片方の眉をあげて呟いた。


 「みんな、生まれ持った環境で生きてくしかねぇんさ……

 だけど仁義は通さなくちゃな……結局は、みんな他人を恐れて組織に溶け込む……

 ――誰もが、利用され合って消えていくのかもしれない……」

 その言葉の余韻の中、ラセルは手元のマナエールを手に取った。瓶の中では、泡がやわらかく立ち上がり、ゆっくりと消えていく。

 ふと、瓶越しにフェルマーの姿が映った。ラセルの表情がわずかに変わる。


 「この泡ってやつは、不思議なもんだな……

 どんなに丁寧に注いでも、綺麗に立っても、一番最初に消えるのがこいつらなんだ。

 誰よりも先に、静かに、音もなく蒸発して、誰にも惜しまれずに、ただ“無かったこと”になる」

 その声はいつになく落ち着いていた。


 「……それでいて、一番うまい瞬間を作ってるのも、こいつらなんだよな。

 でも明日にはいないんだ……でもよ……

 泡がないマナエールほど、つまらねえもんはねえよ」

 瓶には、うっすらと自分自身が映り込んでいた。

 ラセルはそれを見つめたまま、ひとつ息をつく。言葉にならない想いが、しばらくそのまま喉の奥で泡立っていた。

 その沈黙を破るように、手元のリングデバイスが振動と共に音を立てる。

 しかし、ラセルはすぐには出なかった。代わりに、ポケットからタバコを取り出し、一本だけ火をつける。

 紫煙がゆっくりと立ちのぼる。ラセルはその煙を眺めながら、しばし目を閉じた。



 通りの片隅に設置された古びた公衆電話ボックス。

 誰も見向きもしないような時代遅れの通信機器だが、この街ではまだ現役だ。防犯カメラの死角にもなる。

 その中に、ラセルとフェルマーの姿があった。どちらも、周囲に視線を走らせながら、どこか落ち着かない様子で立っている。

 ラセルはリング型のデバイスを電話機の認証パネルにかざすと、無言で数秒待った。

 通信は繋がっていない。ただ、"あちら"の応答を待っているだけだ。

 通話先のボスからの指示を仰ぐ――それが彼らの目的だった。

 フェルマーが折り畳み式の扉を背で抑え、周囲を伺いながら、そっと囁く。


 「……妙に静かですね――まさか、俺たちが“撒き餌”じゃないでしょうね?」


 その瞬間――

 リンリンリン


 無機質な着信音が、狭いボックスの中を貫いた。

 ラセルが受話器を取り上げ、何も言わずに耳を傾ける。

 数十秒の沈黙の後、静かにそれを戻すと、無言のままボックスを出た。

 まるでふてくされた子どものように、両手をポケットに突っ込んだまま歩き出す。


 「奴ら、薬作ってちょっと売れたら、もう世界取った気でいやがる」

 薄汚れた壁にタギングが走るスラムの路地を、ふたりは肩を並べて進んでいく。

 頭上では、風に煽られた洗濯物が乾ききらぬまま揺れていた。


 「東の連中が尻を叩いたせいで、馬鹿が“反乱ごっこ”始めやがった」

 ラセルの口調には苛立ちと呆れが混じっていた。どこか遠くで犬が吠える。


 「サッドが動いた時点で、もう“話し合い”って選択肢はねぇんだよ」

 通りには昼なのに人気がなく、建物の影が異様に濃い。

 ふたりの足音だけが乾いた舗装を打ち続ける。

 その背には、常に誰かに見られているような張りつく空気があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ