「2章-第1話:焦げた景色」
※この章には暴力・拷問・流血など、残酷な描写を含む話があります。
精神的にショックを受けやすい方や、センシティブな内容が苦手な方はご注意ください。
夜のスラム街は、仄かな沈黙を敷き詰めていた。
コンテナを積み上げて造られた建物。その中の一角、鉄骨の間に布を張って仕切られた小部屋。ブランケットにくるまった女性たちが、疲れたように静かに眠っている。
その奥。わずかに明かりの届く場所で、小さな影がじっと鳥かごの前に座っていた。
錆びた鉄の枠に囲まれたその中で、一羽の小鳥が身じろぎもせず、じっとこちらを見つめていた。
羽の色はくすんでいて、鳴き声もあげない。
誰かがつぶやいた気がした。
「……なんで、鳴かないの」
――でも、それが声だったのか、思考だったのかはわからない。
少女は、かごの前から離れ、音を立てないように窓のそばへと歩く。
ビニールがかすかに揺れて、外気が肌に触れた。
そこは広場のように開けた空間だった。
金網の柵、崩れたドラム缶、ネオンの残骸が転がる舗道。
柱には電灯らしきものがぶら下がっていたが、すでに灯りは消えて久しいようだった。
それでも、闇は完全ではなかった。
どこからか届くかすかな光――それが月なのか、別の何かなのかは分からない。だが、少女の瞳には、その仄かな明かりの中で広がるスラムの残像が、しっかりと映っていた。
彼女はしばらく、動かなかった。
まるで、目の前の世界が変わるのを、じっと待っているかのように。
ファルネイラ邸の庭に、涼やかな風が流れ、植え込みの葉をわずかに揺らしていた。
乾いた音が響く。竹刀が交差する鋭い打撃音が、静かな空気を切り裂く。
リディアとノーアが対峙していた。姉弟の稽古は、静寂の中で激しく、剣を通じた対話。
ノーアが地に膝をつく。肩が上下し、息が荒い。
「ふぅん、もう座り込み? 敵が待ってくれるとでも思った?」
リディアの竹刀が、ためらいなくノーアの頭を打った。いつもよりも強く、痛みを感じるほどの一撃だった。
「……………」
ノーアは何も言い返さなかった。地面に落ちた視線は、苔の上に染みを作る汗をただ見つめている。
「この状況、わかってる? ノーア……また、なんか考えてたでしょ?」
姉の問いに、ノーアはわずかに口元を動かすが、声はない。ただ、心の内に浮かぶ思考だけが明瞭だった。
(小学生のころ、頭を踏みつけられた時、想像よりも激しく脳が揺れた。……感動? いや、初めて“痛み”より“感動”が上回った瞬間だった)
(……いじめ──ずる──理不尽──明らかに歪んだ状況を、どこか他人事のように俯瞰していた自分がいた。“面白い”とすら思った。感性が死んでいなかったことに、ほっとした)
(社会の構造が理解できないままの子どもが、無邪気なまま得たインスピレーション。……それって本当は、大切なんじゃないか?)
(人を殺めることに感動するのは、社会的には“悪”……? じゃあ、みんなは何を食べて生きてるの?)
(人種が違えば、文化が違えば、“違ってもいい”のか? “当たり前”って誰が決めた? “多数決”って、つまり“いじめ”と何が違う?)
その思考の連鎖に、ふいに別の声が重なった。
「それ、わかるぜ。」
ふとした拍子に口を挟んできたのは、庭の端にいたカイだった。壁にもたれ、肩を竦めながら言う。
「次々と、全然違うことに繋がっていくんだよな。まるで連鎖反応みてぇな。そういうの、この世界の理ってやつにも関係してるらしいぜ。スクリプト持ちは、とくにそうらしいし……」
リディアが竹刀のつばを指で回しながら、笑った。
「……コンテナ街の悪童にしては、よく知ってるじゃない。」
言うが早いか、リディアは、さりげなく竹刀を蹴り上げ、空中でキャッチすると、カイに持ち手を差し出す。
「さあ、今度はあなたよ。」
リディアはその竹刀を、カイに手渡した。
「えっ……お、おれっ?!」
庭の端で見ていたハミルが、声を弾ませる。
「カイ! がんばれーっ!」
陽光が差し込む庭の中央で、少年たちの稽古は続く。その一方で──ノーアの脳裏には、ある一日が、静かに蘇っていた。
あの日──
ノーアは、一人でコンテナ街の裏通りを歩いていた。
迷路のような構造、喧騒と沈黙が隣り合う道筋。どこか、転生前の記憶と重なる景色だった。秋葉原の裏路地、中野ブロードウェイ。次の角を曲がれば、何か新しい世界が開けるような期待感があった。
家族には秘密だった。だが、ノーアはこの街が好きだった。
特にお気に入りは、いつも決まった場所に停まる移動式のコーヒー屋台だった。
深煎りのアレティナ産豆。転生前の激務時代に飲んでいた、懐かしい苦味。今日も、それを選んでいた。
支払いのためにリング端末をかざした──だが、認識されない。
ノーアは、それに気づかず、そのまま店をあとにした瞬間――
「コラーッ! このガキ! 払ってないだろうがッ!!」
店主の怒鳴り声に、周囲の客と通行人の視線が一斉に集まる。ノーアは言葉が出なかった。ただ、呆然と立ちすくんでいた。
そのとき──
「……あんたら、“高級豆”で脳まで煎れちまったか?」
人混みをかき分けるようにして、現れた少年がいた。濃いグレーのキャスケット帽。目つきの鋭い、しかしどこか親しみやすさを感じさせる顔だった。
一瞬、空気が止まる。
店主の怒声も、ざわめいていた通行人たちも、声を失ったようにその少年を見る。
「お、お前……ファーレン家の……」
店主が、しぶしぶ顔をしかめた。
「……確認もせずに、いきなり泥棒扱いかよ?」
カイの声に、店主がむっと眉をひそめる。
「エラー音が鳴っても歩き出したからさ……」
「はー……もう一度かざせば済む話だろ? その怒鳴り癖、早く直さないと客離れするぜ、大将。」
少年が肩をすくめ、ノーアのリング端末を軽く持ち上げ、店の読み取り機にかざす。すると──今度は、すぐに認識音が鳴った。
静寂が破られ、周囲に安堵とざわめきが戻ってくる。
「……ありがとう」
ノーアがぽつりと呟いた。
「いいんだよ。この店じゃ、しょっちゅうなんだ。あの親父、いい加減気づけよな」
少年──カイは鼻で笑いながら言った。
「俺も、いつもここでコーヒー買ってるんだ」
ふと、鼻をひくつかせて香りを嗅ぐ。
「おっ! この香り……アレティナの豆か?」
「そうだよ、よくわかったね?」
ノーアが、ふっと笑った。
「酸味があるコーヒー、ちょっと苦手で……この深い苦みが好きなんだ」
「え?! おれも酸味ダメで、苦いやつが好きなんだよ! うわ、まじで?」
カイの目が輝く。
「じゃあさ、猛獣“キングモス”の糞から採れる発酵コーヒー知ってる? あれ、今度一緒に試してみない?」
「いいね! いこいこ!」
二人が笑い合った、その直後だった。
屋台の下で、金属の軋む音がした。
「──っ!」
カートの車輪がずれ、支えを失ったタンクが傾く。蒸気の音。沸騰した湯が、中にいた客の一人に向かって──
「危ない!」
ノーアが飛び出していた。
すぐに持っていた冷却材のカプセルを割り、湯を浴びた腕に噴射。冷気が一気に広がり、火傷の進行を防ぐ。そして、持っていた布で手早く患部を包み込む。
その場にいた誰もが動けなかった。
湯気が立ちこめる中、ただ一人、少年が立っていた。
周囲が静まり返る。
数秒の沈黙のあと──カイが、ぽつりと呟いた。
「……すごいなお前」
落ちたキャスケット帽を拾い、ノーアの隣に立つ。
そして、カイはそのまま被り直すと、にやりと笑った。
「俺、カイってんだ。よろしくな」
「ぼくは、ノーア……」
名乗りかけて、ノーアの表情が変わる。
「あっ!! カートダッシュの悪ガキ?!?」
(そうだ――以前、初めてこの街に来たとき、ポッドの後ろをカートで走ってた三人組。そのうちの一人……)
「は? お前、あのときのバカ面ガキかよっ?!」
カイも叫び返す。
──騒がしい。それでいて、不思議と楽しかった。
あの日から、二人の奇妙な友情が始まった。




