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メビベルの空  作者: A2
序章
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「序章:産声を上げるトラック」

この作品はフィクションです。登場する人物・団体・地名などはすべて架空のものであり、現実の存在とは関係ありません。


 冷たい空気が、部屋の隅々に沈殿していた。

 カーテンは閉じ切られ、壁の時計の針はどこか頼りなく、湿った音を立てている。

 唯一の光源は、開きっぱなしのノートPCの画面だけだった。

 液晶に映るのは、真っ暗な道路を一台のトラックが延々と走り続ける、開発中ゲームの素材──“暗闇するループ”。

 その映像はまるで、赤子が闇の中で親を探すように、光を求めて彷徨う魂のようだった。

 ディスプレイの下、机には付箋が乱雑に貼られている。


 “仕様変更”


 “期日”


 “修正指示”……

 だがその合間に、こんな言葉も見える。


 『自分は自分、他人は他人』


 『地獄は今だけ』


 『明日は違う日』……

 それは、誰にも見せるはずのない、彼が彼自身にだけ宛てた言葉だった。

 男は座椅子に沈み、スーツ姿のまま動かない。

 指が微かに震えている……だが彼は、その異変にも、もう気づいていない。

 だが彼は、その揺れにももう気づいていない。

 静寂を割って、スマートフォンが鳴った。

 液晶にはこう表示される。


 『?&{]リーダー(14)』


 『?&{]部長(5)』


 『留守番メッセージ:7件』

 バイブが三度震え、鳴り止み、また鳴る。

 その音は、罰そのものであった。

 男は画面を見ない。ただ、自分の腕を抱えるように項垂れていた。

 ──午前七時、オフィスロビー。

 男はエントランスをくぐり、リーダーと合流していた。

 リーダーはプレゼン用のUSBを見せつけたのち、自信に満ちた笑顔を見せる。


 「俺たちの企画、今日で通すぞ。…大丈夫、お前の映像、クオリティ高いから。」

 男は、うなずいた。

 (数パーセントの確率で難病にかかる人間もいるが、その数パーセントに入る人は必ず存在する……)

 今は信じて──それが“希望”と呼べるほどのものではなかったが、それでも、“信じたい”という想いは確かにあった。

 場所は、自社の役員会議室。

 重厚な木製の会議テーブルを囲むのは、スーツを着こなした重役たち。

 資料の置かれた机の下では、高級靴が静かに並んでいる。

 大画面に映し出されたのは──「暗闇を走るトラック」だった。

 空気が止まる。

 男は凍りついたまま、次のスライドを出せない。


 「……ええと、す、すみません。こちらの映像は手違いでして……」

 無理やりプレゼンを続けようとするが、声が震えている。

 その横で、リーダーは何事もなかったように平然と説明を引き取っていた。

 男は放心状態で椅子に座り、微かに何度も口元で繰り返していた。


 「すみません……すみません……すみません……」

 その言葉は、誰にも聞こえていないかのように、その場は過ぎていった。

 給湯室。

 リーダーは缶コーヒーを片手に、壁にもたれて笑っていた。


 「できる人間は失敗を好んでするってSNSでも言ってるだろ?w」

 男は缶を受け取るが、笑顔はない。

 その“優しさ”に救われることもなく、

 むしろそれは、「自分の罪が軽くないこと」を再確認させるだけだった。

 ──彼は、“優しさにさえ疑心暗鬼になる”という地点まで、落ちている。

 その後すぐ、受付から女性スタッフが呼びに来る。


 「?&~{]リーダー、今朝の件で部長からお電話です」

 リーダーは笑顔で男に肩を叩き、別室へと向かう。

 廊下に響く彼の声が聞こえてきた。


 「いやー全部部下の判断でしてね。僕は止めたんですよ? でも熱意っていうか、空回りっていうか……」

 PC画面にはまだ、トラックの映像が流れていた。

 延々と、真っ暗な中を彷徨い続ける、終わらない旅。

 電話の着信音。彼はもう応じない。

 身体が、ゆっくりと、横に倒れる。

 机にあったコーヒー缶が、カラン……と転がった。

 その瞬間、ふと彼の表情が和らいだようにも見えた。


 「──ようやく、──」

 それは、罪からの逃避か。救済か。ただの無か。

 画面は黒転。心音だけが、遠くから聞こえる。

 ドクン……ドクン……ドクン……


 ──蜂の巣状の巨大な透明ドームから覗く曇天が、まるで完璧に投影された液晶の空を映し出しているかのようだった。

 冷たい陽光が、監視塔の上に射していた。


 「そういや、またゲート側から何か来たらしいよ」

 誰かがぼそりと呟く。清掃員は無表情のままモップを動かしていた。

 都市の中心には、演算制御された都市管理棟がそびえ立っている。

 演算と効率の支配する都市──だがそこには、人の声はなかった。

 (……まるで、人の温度を奪われた都市)

 ──光。

 目を開ける。

 強すぎる光が、瞼の内側から刺してくる。

 音が反響するように聞こえた。


 「……あれ……おかしいな……」


 「……息……してない……?」

 誰かの声。看護師か?

 (ここは……どこだ? ……病院……?)

 (俺は……あの時……死んだのか?)

 騒がしい。

 誰かが自分の体を叩き、揉み、何かを注入している。

 だけど──息ができない。

 (……苦しい……なにこれ……息が──できない──)

 身体が冷えていく。

 思考が崩れていく。

 ──深海のような黒。

 記憶も体もない空間に、ただ思考だけが浮かんでいた。

 (……誰か……助けて……)

 遠くで──風鈴の音が鳴る。

 その音が、風穴のように世界にヒビを入れた。

 ──光。

 目を開ける。

 強すぎる光が、瞼の内側から刺してくる。

 音が反響するように聞こえた。


 「……あれ……おかしいな……」


 「……息……してない……?」

 ──同じ会話。

 看護師と医師の声。

 (……さっきのは夢……? ……でも、今は……苦しくない……)

 ふとした違和感。

 でも、身体は暖かい。

 誰かの手が、自分を優しく抱き上げる。

 (──ありがとう……)

 (このまま……自然でいられる時間が……もったいない……)

 その目がどこか、人のそれとは違う意志を宿しているかのように見えた。

 母は汗をぬぐいながらも、ほっとした表情を浮かべている。

 父は誇らしげに頷いていた。

 部屋の片隅には姉らしき少女が立っていた。

 軽装備にスカート姿。腰には、見慣れぬ紋章が刻まれた剣が下がっていた。

 少女は新しい命を見つめながら、口角をわずかに上げた。


 「生まれたか、半殺し坊や」

 誰にも聞こえないような声だった。

 ──夜。

 町全体が川沿いに集まり、静かに故人を見送る。

 灯篭流し。

 空には、ゆっくりと浮遊する灯篭がいくつも浮かび上がり、微かに光を放っていた。

 その光は、赤子の未来を照らすようでもあり──

 世界の静かな破壊を予兆するようでもあった。

 ──暗転。

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