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 あの虹は、もう見えない。





「おい、俺のキューは?」


 久し振りにビリヤード場に来ると、見知った三人のメンツはそれぞれキューを持ってビリヤード台を囲っていた。


「おー、洸人ひろと


洸人ひろとさん、お久しぶりっす」


 そう返してきた一番年下のヤツの足元には、口の端から血が出ている男が転がされていた。口の端から血が出ているのは、コイツらがボコった後だからだろう。両足に三角のラックが嵌められているその男の顔は、瞼が腫れているせいで目が開いてるんだか開いてないんだか分からなかった。


「エイトボール?」


 俺が聞くと「そうっす」と一人が頷いた。


 ビリヤード台の上を見ると、8番がキッチンのあたりにあった。


「俺も入れろよ」


「うわっ!」


 転がっていた男は首根っこを掴むと声を出した。三角のラックでうまく立てず、もつれそうになった男の手首を掴んでしっかりと立たせる。


「チョークくれ」


 キューを差し出そうとしていたヤツが、俺の言葉に薄笑いしつつチョークを渡してくる。チョークを受け取り、丸く空いた穴に男の指を突っ込む。ひねると嫌な音がして、男の顔が歪んだ。


「ぜってー入れろよー」


 そのまま指先にチョークを塗った男の手を掴み、7番のボールに当てる。白く汚れた指先の手の甲は、俺と違って染みもタトゥーもない。

 その指先から放ったショットはくぐもった音だった。


 三人が笑って、一人が吐き出す煙草の煙が揺れる。


 ヒョロヒョロと転がったボールは、8番までは届かなかった。


「あーしっかーく」


 俺はその男のチョークのついた指先を逆に曲げる。なんてことはない骨が折れる音。それよりは男の小さな悲鳴の方が耳障りだった。気にしない。


「あと九回チャンスくれ?」


 俺が言うと、おっけい、と三人が笑った。


 二階のビリヤード場の階段を降りる。酒場だか喫茶店だかよく分からない一階で流れているBGMはなかなか趣味が悪い。Xで切り抜きがよく流れてる曲だ。


 客がいない店内の奥のカウンターから、白髪のババアが「ヒロちゃん」と俺を呼び止めた。


「もう帰るの?」


 この空間の音は聞きかねる。この歌はなにかと聞くと有線だと言われた。


「チャンネル替えな」


 趣味わりい。流行りの《みんなのための》歌なんて誰も喜ばないだろ。


 古い建物の薄暗い照明を背に腕時計を見ると、針は午前二時を示している。

 つい、望遠鏡は持ってねえけどな、と思ってしまうくらいには結局俺も流行りの歌に踊らされている。



 ビリヤード場は繁華街から少し離れたところにある。平日のど真ん中、夜の真ん中を過ぎたところ。街頭の少ない道を歩く人影はまばらだ。


 シャッターの降りた商店街は、電気が消えがちで薄暗い。駅に繋がるカラフルな舗装の上を歩いていると、前の方から音が聞こえてきた。


 アコースティックギターと、男の歌声。

 

「っるせぇーなー」


 演奏がぶつっと途切れる。

 周りを囲む四人の女と、座ってギターを弾いている男が俺を見た。ロキノン系とサブカルを履き違えたブスばっかりだ。


「すみません、うるさかったっすね」


 座っていた男がへらりと笑った。移動しようか、と周りの女たちに言うと、肩からギターのストラップを抜いた。


「どこだって耳障りだっつーの」


 太い女は肩を押し退けると「きゃ」と言った。

 真ん中の男に歩み寄ると、へらりと笑っていた顔が眼前の俺に若干緊張したようだった。


 男の瞳の中で、フード付きのパーカーから覗く俺の顔が白く浮かんでいる。タトゥーの入った手のを伸ばしてギターを取った。


「散れ」


 がしゃん、と男の背のシャッターを蹴飛ばす。


 あ、あ、と口パクパクさせる男の手を、観ていた女たちが引っ張った。


「行こ、たっくん」


 目を白黒させるだけのたっくんの腕を引いて、女たちは足元のギターケースだけ持つと足早にその場から逃げていった。ミスチルのコピーならカラオケでやれ。


 誰もいなくなった商店街。点滅する古い照明。星も月も見えやしない空の下。


 奪ったモーリスのギターを弾いた。


 下手くそたっくん。ギターはこうやってやんだ。ロックンロール、ファッキンオール。大人しい歌なんて面白くない。

 ピックはない。爪が削れても構わない。爪も牙も獣らしいものは音楽の邪魔だ。俺はギターをかきむしった。




「──すごい、お上手なんですね」




 は?


 手を止めて前を見る。奇しくもさっきのブス女が立っていた場所だ。


「ぱちぱちぱち〜」


 声だけだ。シルエットはデブ女の半分しかないその女は、手を叩くことなく言うだけだった。


「歌はないんですか?」


「は?」


 舐めてんのか。女だろうが拳を握ろうとして──爪が食い込む前に目を疑った。


「あ、いきなりすみません」


 違う。驚いたのはその質問にじゃない。あんたの容姿だ。


「聴いたことないメロディだったので、どんな歌なのかなって」


 頓珍漢に続けた女の手には、ビリヤードのキューとは違う長い棒。地を向く下の方には赤い色が付いている。──白杖。


 だから俺のような『いかにも』な人間に話しかけて来たことに合点がいった。


「……別に、大した歌じゃない」


 視線を足元に落とした俺に、真っ直ぐに声はかけられる。


「え? 素敵なメロディーでしたよ?」


 クラブにいそうな顔立ちのわりに、服装と髪型は垢抜けない。障がい者ってもっと大人しくておどおどしてるんじゃないのか?


「あーどうもどうも」


 関わり合いになりたくない。

 俺はギターをシャッターに立てかけて、女の横を通り抜けた。


「あっ、ギター忘れてますよ!」


 見えてんの?

 背にかけられた声に、振り向く気はなかった。


「……いらね。あんたにあげる」


「え? え?」


 俺は困惑する声を無視して、駅の方向に向かった。


 時刻は午前三時。まだ空は白んでいない。





「おー、洸人ひろときたー」


 午後十時。

 繁華街の中の古い建物が取り壊された不自然な空き地は溜まり場だった。俺たち以外にもいる女たちは、露出の多い服でストゼロをストローで吸っている。

 溜まり場。要はごみ溜め。

 ネオンの明かりも照らしきれない俺たちの擦り減った足元。削れたヒールの足跡。


「あれ行けそうじゃん?」


 俺の隣でそう言って女を指差したヤツは今日も本物か偽物かわからないグッチの野球帽を被っている。tinderのアイコン写真と同じ服を着てるから、ストナンに気合いを入れる気だろうなとはわかっていた。


「おー行ってこい」


 俺は他のヤツとソイツを見送る。成功しないに千円賭けた。声が聞こえる範囲まで近付く。


「はあ? チー牛がイキがんなし!」


「うっせぇデブ! マンジャロ打て!」


 取っ組み合いの喧嘩になった。見えた女のパンツは黒のレースだ。俺は近くのヤツらと煙草を吸って笑い合う。


「ヒロ、酒飲む?」

「あー? 今下痢しそうだからいからねー」

 俺が笑いながら答えると「きたねえ」とヤツは笑った。


 どいつもこいつも汚いことの方が嬉しそうに笑う。夜は汚れがよく見えない。

 俺はこんな夜の中でしか生きられない。



 肩がぶつかった男を殴り、時々その辺で捕まえた女を抱く。ポケモンGOと同じだ。バトルアンドキャッチ。俺だってポケモンマスターになりたかった頃がある。



 夜に外に出て朝日が昇る前に帰る。

 そうやって夜を過ごす。


 そうやって夜を過ごしていた。



「……この前の、人ですか?」


 見えてんじゃねえの?

 声を出したら答えになってしまうと思って、唾を飲み込んだ。


「あの、ギター、ありがとうございました!」


 午前三時の俺の帰り道。

 相変わらず点滅する照明。いつも誰もいない商店街。薄暗いその場所のシャッター前に、その女はいた。


 シャッターに立てかけられた白杖。服のセンスは相変わらず悪い。


「あれから私、練習しました!」


 俺だって確認できてないくせに、言葉を続けた度胸に少し引く。


「……少し、聴いてくれます?」


「下手なら」


 俺が答えると口元が綻んだ。


 それからギターが構えられる。モーリスのアコースティックギター。たっくんが使ってたストラップ。


 爪弾く弦の動きは目が見えないとは思えない。それからコード進行でわかった。ハイブリッドレインボウ。ピロウズなんて聴くのかよ。アコギに合うし初心者にも悪くない。


「……どうでしたか?」


 ギターから視線を上げて、俺を見た。まっすぐその顔に向かうと、目が合っているのに目が合ってない違和感を感じて、目が見えないのは嘘ではないのだろうとなんとなく思った。


「まあ聴ける」


 たっくんのストラップなことがもったいねえ。

 俺の言葉に、よかった、と笑った。

 それから彼女はギターをゆっくりと外し、地面を何度か触ってからギターを寝かせた。


「私、リトっていいます。十九です」


 もっと若いと思ってた。垢抜けない服装のせいで幼く見えていたのか。本当かよ? 名乗りが源氏名っぽいこともあり、あっそう、としか返せなかった。

 そんな俺の態度に気分を害した様子もなく、目の前の女は笑った。


「へへ、すみません、いきなりガキに話しかけられたら驚きますよね」


 年齢じゃねえよ。年齢も驚いたけど。


 手は差出されている。俺のいる方向ではないけれど。


「……いや、別に」


 そんな態度の正しい答え方がわからない。


 手の甲のタトゥーはトライバル。俺がパーカーの中にしまうと、しばらくして彼女は手を下げた。


「この前弾いてた歌、弾いてもらえませんか?」


「は?」


「好きなメロディーだったんです」


 何言ってんの?


「馬鹿じゃねぇの?」


「よく言われます」


 言われるんだ。


 ならいいか。俺は地面のギターを手にとった。

 馬鹿につける薬はねえ。俺にも何もいらねえ。フラットを握って弦に指を走らせる。


 ロックンロール。ファッキンオール。みんな死ね。歌詞はあるけど歌わねえ。奥歯を噛み締めて、唇から隙間から一音もこぼれないように息を止めて弾いた。


「すごいですね」


 勢いで弾き終えて、息を整える俺の肩にリトが声を上げた。


「やっぱり私が聴いた中で一番うまーい」


 明るい表情と、開いた目。俺がその目を黙って見ても、表情は変わらない。


「……じゃあな」


 俺はギターを地面に置く。


「あっ! また──」


 背を向けて歩き出すと、彼女は俺のいない方向に声を投げた。


「また、会えますか!?」


「ガキはねんねの時間だろ」


 人間なら、夜は眠る時間のはずだろ馬鹿。


 俺はそれだけ答えて、駅の方向に走り出した。

 振り向くと彼女はしゃがみ込んで地面を触り、手探りでギターを探していた。





「真っ暗じゃん」


 全部照明を落としたラブホテルのベッドの上で、女が笑った。どんな見た目だったっけ。ズボンを脱いで彼女に触れて、髪が長いことがわかった。


「あー俺、金玉にも墨入ってるから見られたくねーの」


「えー、そんなとこの墨、こういう時じゃないと意味なくない?」


 見せて、と言われてパンツを脱ぐ。それから女の顔に近付けて口に突っ込んだ。そのまま出すとイカ墨じゃん、と女は笑った。


「サイゼ行かんから知らんけど」


 それからティッシュを投げ捨てた女の体を組み敷いて、乳房に顔を近付けると、肋骨の浮き出た体が強張った。


「乳首舐めないで」


 あ? 寝転ぶ女に覆い被さり、手首を握る。


「やだ。その歯、怖いもん」


 うるせえな。女が乳首で感じないことなんてSNSをやり始めた頃に知ったわ。自分のために乳首吸ってんだよ。

 乱暴に舐めていると、緩まった拘束から手を流した女は俺の髪を撫でた。

 いつもフードを被っているから、頭を撫でられるのは乳首を吸ってる時だけだ。


 それから今度は腹に出す。洗面台で自分の顔を見て、口の端を伸ばして女が怖いと言っていた俺の歯を見る。痩せた歯茎のせいで尖って見える歯。


「あんたクスリやってる?」


 カピカピになったマン毛を洗い終えた女が出てきた。


「やってねえよ」


 やってねえよ。むしろやった方がいいのなんて、十四歳の頃から知ってる。



 喧嘩以外の独特の疲労感を感じながら、帰路の商店街を歩くと、ギターの音が聞こえた。


「メロディー、覚えました!」


 信じらんねえ。

 俺が商店街を通ると、そこにギターを持ったリトがいた。見えてんのかよ。


「……あ?」


 呼び止められ方が不意でつい返事をしてしまった。俺は顔を顰めたのに、彼女は表情を明るくしてギターを構え直した。


「こうでしたっけ?」


 そう言いながら彼女が弾いたメロディーの出だしが正解だったから、そのまま足を止めて最後まで聞いてしまった。


「ふう。合ってますか?」


「……貸せ」


 彼女が差し出してきたギターは、相変わらずたっくんのストラップ。ネックを持ち差し出してくるギターを貰う。


「出だしは合ってた」


 後は、真ん中の音から違う。

 俺はそう言って出だしから弾き直す。クソッタレ。冷静なって弾くギターなんて面白くねえ。それでも弾き終えると彼女は満足そうだった。


「なるほど……もう一回、お願いできますか?」


「馬鹿じゃねえの」


 よくこんな見た目の俺に物怖じせず頼めるな。


「よく言われます」


 目は合わない。開かれた目は虚空とギターのどちらを見ているのだろう。ああもう。俺はもう一度曲を弾いた。


「やっぱり、いいメロディーですね」


 そうかよ。勝手に言ってろ。

 ネックを持ってギターを差し出す。


「覚えます」


「あっ、そう」


 彼女が受け取らないので、シャッターに立てかけられた白杖の横に並べた。


「じゃ」


「ありがとうございます」


 相変わらずセンスのない服だ。

 立ち去って駅に向かう。背にした場所から、物が倒れる音がした。

 ぶつかった音と不協和音。それからカランと細い物が倒れる音。


 今日は振り向かないと決めていた。



 酒を飲む。煙草を吸う。馬鹿笑いをしながら喧嘩をする。


 開いたばっかのコンカフェの看板が眩しい。夜を照らすな。夜の闇でしか生きられないのに。


 隠す長袖のパーカーは少し暑い。手の甲のトライバルを袖で覆い、フードを被って夜のネオンを凌いだ。



 ちょうど曲が終わる頃だった。


「合ってますよね?」


 つい最近会った気がする。また会った。


「合ってる」


 立ち止まった俺が言うと、ふん、と鼻を鳴らした。


「よかったです」


 相変わらずセンスの悪い服。髪はいつだって短い。シャッターにもたれる白杖がなければ、目が見えないとは思わない。


「これ、歌詞、ないんですか?」


「あるけど」


「え、知りたいです」


 なんで教えなきゃいけない。

 お前さあ、と俺は言う。


「リノだかリナだか知らんけど」


「ロンリーガールみたいですね」


 何それ知らねえ。


「ローリンじゃないですよ、ミクでもないです。……あ、ますます《《ぽい》》ですね」


 よくもまあ。


「知らないですか? 加藤ミリヤ」


「お前平気なの?」


 そんな大衆音楽エンタメを聴くなら、一曲ぐらいは夜しか会えない男と関わるなって歌詞があってもいいはずだろう。


「なにがですか?」


「……別に」


 真っ直ぐに見つめられて顔を背ける。視線が痛いと思う。太陽みたいだ。


「歌詞教えてやるよ。なんかねえの、なんか」


 手を差し出して、それからすぐに引っ込めた。


「ケースの中にスケッチブックがあります!」


 地面に置かれたギターケースの中のスケッチブックを取り出す。表紙にペンのクリップ部分が留められていた。


「あっ、どこでもいいですよ」


 あっそう。

 パラパラとめくると『一発100円♡』『デカジリ』と書かれているページがあった。

 しばらくペンを持ったまま白紙のページを見ていた。それからスケッチブックを彼女に向かって差し出した。


「ほらよ」


 俺に向かって伸ばされた手が虚空を探る。


「歌詞、書いといたぞ」


 白い手がスケッチブックを捕まえた。


「え!? ありがとうございます!」


 どうやって読むんだよ。その顔に目を逸らした。





洸人ひろと、顔色悪くね?」


「あー? いつもだろ」


 夜に集まる顔ぶれはいつも一緒だ。


「飲む?」


 差し出された鬼ころしのパックのストローは噛まれまくっていて汚い。


洸人ひろとさん、俺のストゼロあげますよ!」


「あー?」


 差し出されたストゼロには噛まれてないストローが差さっていた。もらってストローを捨てる。

 一気に煽ると、腹の奥に熱がこもった。


「おい大丈夫かよ」


 腹の奥がかき混ぜられている。やばいやつだ。

 輪を離れて側溝に向かおうとすると肩がぶつかった。


「あ?」


「あ? じゃねえよ」


 顔を上げると傍に女を連れたゴリラみたいな男がいた。


「お前この前コイツ抱いた?」


「あー」


 男が指差した女は、長い髪の毛先を指先で弄んで、俺と目が合うと肩越しに舌を出した。


「ブスとヤる時は部屋暗くしてるから覚えてねー」


「てめ」


 男が振りかぶった拳を振り下ろすより早く、持っていた缶をこめかみに押し当ててそこに力を込める。

 ぐしゃ、と缶が潰れて男の体が傾いた。周りが拍手してる。缶を潰した手が濡れた。──そんなことより。


 視界にモヤがかかって、腹の奥の熱が喉まで逆流している。限界だ。その場に膝を負った。

 中身の見える煙草の吸い殻の上に吐く。


「うわっ、きたなっ!」


「肌もザラザラしてたしこいつ梅毒だよ梅毒」


 勝手なことばっか言ってやがる。うるせぇ性病じゃねぇ。

 吐いてるとぐわんと視界が横にずれた。蹴りを避けられず横転して、混ぜられた体の中身がまた溢れる。


 他のヤツらがゴリラに飛びかかったのが見えて、もう一度腹の奥から湧き出るものを溢した。



 もう午前三時になった。朝の四時がもうすぐそこに来ている気がして、足早に進んだ。


 その人影が、座っていた。短い黒髪の女が、ギターを抱いて座っていた。──歩調を緩めてしまったのが悪かった。

 すみません、とその声に捉えられる。


「すみません、この前、あの……」


 リトだかリナだか。その女は、伏目がちになって、あの、とまた言った。


「この前書いてもらった紙、私落としちゃったのか……どれか分からなくなっちゃって」


「……あっ、そう」


 馬鹿じゃねえの。そもそも誰にあのスケッチブックを《《見させた》》んだ?


「もう一回書いてくれませんか……なんて言ったら、おこがましい、ですかね……?」


「あーめんどくせぇ」


 ゲロのついたパーカーを早く脱ぎたい。腹の奥がまだふつふつと湧いている感じがして気分が悪い。

 歌った。

 誰に聞かせるためでもなかった叫び声だ。


「帰る」


 棒立ちになったその姿にギターを押し付ける。動くと改めてゲロ臭い。すぐにネックを掴んだその手を見て、俺は足早に立ち去った。



 家に帰って駆け込んだ便器の中で透明な液体を吐き出す。ところどころ泡だった液体が揺れている。つんと鼻についた酸っぱい匂いに、また嘔吐する。蹴られて骨が痛いのか内臓が痛いのかわからない。体の中身が重くずきずきする。


 トイレの小窓から見える外が白んできた。俺は水を流して部屋に篭った。

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