モラハラにはもううんざりです。早くこの婚約を破棄してください。
貴族令嬢リリス・グラナードは、真珠のように艶やかな金色の髪をまとめ上げ、静かに息を整えていた。華やかな夜会の一角、薄紅色の絨毯の上を歩くその姿は、控えめながらも品格と気品に満ちている。
隣を歩く伯爵家の嫡男、レオナルド・フォンテーヌは、すらりとした長身に上質な黒の礼装をまとっていた。その振る舞いにはどこか余裕があり、彼自身は「誰から見ても羨まれる美男美女の婚約者同士」と信じて疑わない。
しかし、その向こう見ずな自信の裏で、レオナルドは自覚のないモラル・ハラスメントを繰り返していた。リリスにとっては、レオナルドが小馬鹿にするような発言をするたびに心が冷えていく。なのに、家のために耐えねばならないのだ。あるいは、いっそ彼のほうから「婚約を破棄してくれないか」と切り出してくれれば――リリスはそれをずっと切実に願っている。
ある夜、夜会が開かれる大広間を見下ろす吹き抜けの踊り場で、レオナルドは小声でこう言った。
「リリス、そのドレスは地味すぎる。僕の婚約者なら、もっと華やかで目を引く色にすればいいのに」
つま先から頭の先まで眺め回し、彼は眉をひそめる。淡い青緑のドレスは、刺繍も派手すぎず落ち着いた美しさを湛えているのだが、レオナルドの好みには合わないらしい。さらに、今度はリリスの表情を見て声をあげる。
「笑顔が足りないよ。僕の隣に立つときは、常に笑顔を絶やさないでくれ。貴族らしい威厳と華が必要なんだから」
慣れた様子での干渉。それに対してリリスは何も言わずに小さく息をつき、穏やかな笑みを浮かべた。
「……お気に召しませんでしたか。では次回、もっと華やかで“威厳ある”お仕立てを用意しますわ。レオナルド様に似合うように」
従順そうに頷くリリスだが、その笑みの奥には冷たい決意が潜んでいる。“こうして少しずつ、あなたが嫌になればいいのに”と。
大広間は多くの貴族が集い、夜会にふさわしい喧騒に包まれていた。煌めくシャンデリアの下、音楽隊が優雅な旋律を奏でる。
レオナルドは人前に立つと途端に饒舌になる。リリスを引き寄せながら、周囲に聞こえるような大きさの声で話し始めた。
「リリスは控えめで従順なんだ。だからこそ、僕によく似合う婚約者だろう? 僕が話題を振ってあげるから、彼女もうまく受け答えができるのさ」
半ば自慢げにそう言われても、リリスは優雅に微笑むだけ。むしろ周りの令嬢たちが引きつった表情を浮かべた。「さすがにそこまで言うのは無神経では?」という視線が交わされる。だがレオナルドはまるで気づかない。
「そうですね、レオナルド様のおかげで、いろいろな方との会話も学ばせていただきましたわ」
リリスは軽く一礼してみせる。だが、口調はどこか刺を含んでいる。周囲の貴族たちは「むしろリリス嬢が場の雰囲気をまとめているのでは」と思い始めていた。レオナルドはその空気を読み取れず、相変わらず自分が“教えてやっている”のだと信じ切っている。
また別の日、リリスは平民たちと協力し、領地の市場をより安全で活気のある場所にするための小さな活動を行っていた。治安維持や商人間の協調体制づくりなど、彼女の尽力によって大きな成果が生まれつつある。
ところがレオナルドは、そうした活動を周囲に話すとき、いつもこう言ってのけるのだ。
「リリスがうまくやれたのは、僕が正しい道に導いてあげたからさ。彼女が僕の婚約者でいられるのも、僕の寛大さがあってこそだろうね」
彼女の努力は顧みられず、まるで自分の手柄のように話されてしまう。
「……そうですわね。レオナルド様のお名前をお借りしたからこそ、関係者も協力しやすかったのだと思います」
リリスはあくまで彼を立てるように振る舞うが、その言い回しは周囲をぎくりとさせた。「お名前をお借りした」ということは、実際に動いたのはリリス自身ではないのか、という疑問を抱かせるからだ。彼女はあえて「彼の功績」という形で持ち上げるが、それが逆にレオナルドの“何もしていない”部分を際立たせる。
やがて、人々は口を閉ざしながらも心の内で「リリス嬢のほうが遥かに有能では……」と薄々感づき始めるのだった。
リリスは市場を訪れることが多かった。華やかな社交界だけでなく、庶民の暮らしを知っておくことは貴族の責任だと思っているからだ。
しかし、レオナルドはその行為すら蔑む。
「平民ごときに関心を持つなんて、婚約者として恥ずかしい行動だ。なにしろ、彼らは僕たちとは違うんだぞ? 平民の工芸品を称賛するだなんて、君の品位を疑うよ」
せっかく職人を励まし、領地の文化を盛り上げようとするリリスを理解せず、ただ一方的に否定する言葉。それでもリリスは慌てず、わざとらしく沈黙してから言う。
「王宮の催しでも、平民出身の職人が数多く活躍していると聞きますけれど……レオナルド様は、そのような方々も同じく品位がないとお思いなのでしょうか? 貴族の催事に呼ばれるほど優れた技術と才能があるのに……」
一理も二理もある言葉に、レオナルドは「それは……」としどろもどろ。周囲の貴族たちは彼の態度を冷ややかに見守る。リリスは姿勢を乱さず「もし何か私に非があるのなら、お許しいただけないでしょうか」と控えめに頭を下げる。
こうして彼の主張は“どうにも筋が通らない”こととして認識され、静かに面目が潰れていく。
レオナルドには、もうひとつ良くない癖がある。リリスを精神的に依存させようとする発言だ。
「君は僕なしでは生きていけないだろう? 僕が君を選んだからこそ、こうして注目を浴びていられるんだからね」
一方、リリスはそんな言葉をただ“はい”と受け流すだけだ。だが、その顔には悲しみはない。むしろ相手の自尊心をさらにくすぐるような口調で言葉を返す。
「レオナルド様の選びがなかったら、私はずっと名も知られないままだったでしょうか……。そう思うと、私が今こうして貴方とともにいることは奇跡なのかもしれません。おかげさまで王宮の方々と交流できる機会も増えましたわ。もちろん、レオナルド様のお導きによるものですから、どこに行っても“レオナルド様のご尽力”だとお伝えしておりますの」
表向きは彼を称賛しているようでいて、実際は「私は自力で動いている」「しかも、それを周囲に説明するたびにレオナルド様が何もしていないのが明るみに出る」という構図。そのたびに人々は「レオナルド様はどんな“尽力”をしたのかしら……?」と首をかしげる。
レオナルドは自分が主導権を握らないと気が済まないらしい。夜会などの予定があるたび、リリスに対して細かい注文をつける。
「次の夜会では、僕が話している間、君はただ頷いていればいい。変に話題を広げなくていいからね」
また、リリスが執事たちとスケジュールを打ち合わせしていると、
「君にそんなことを決める権利はない。僕が全部決める。余計なことをするな」
と鋭い声で制止する。もしリリスが「わかりました」と答えれば、彼は満足そうに頷くが、結局詳細は考えていない。そのせいで周囲の使用人たちは混乱する。
そこでリリスは、あくまで敬意をもって尋ねる。
「では具体的に、次の夜会に向けて私たちはどのような準備をすればよろしいのでしょうか? レオナルド様が決めてくださるのでしたら、私どもはそれに従いますわ」
ところがレオナルドは細かい準備をまったく考えておらず、「そんなのは後でいい」と曖昧に逃げるしかない。使用人たちは呆れ顔だ。数度それが繰り返されるうちに、彼の支配欲の空回りは周知の事実となっていく。
レオナルドにはもうひとつ理不尽な振る舞いがあった。自分は社交界で堂々と他の令嬢と談笑するくせに、リリスが男性と会話することは嫌がるのだ。
「君が他の男性と話す必要なんてないだろう? 僕がいるのに、わざわざ相手をする必要がどこにある」
強い口調で責められても、リリスはにこやかに応じる。
「……なるほど。では、レオナルド様がほかのご令嬢とお話しなさる時、私は邪魔しないように下がっておりますね。何かお気に障ることがあれば、無理にでも婚約を解消してくださって構いませんよ?」
その柔らかな態度にこそ深い皮肉が含まれている。周囲の人間も聞き逃さなかった。「リリス嬢は本心では婚約解消を望んでいるのでは……?」と思いつつも、直接それを指摘する者はまだいない。
レオナルドは度々、リリスに対して上から目線で語ろうとする。
「リリス、君には少し難しいと思うけど、簡単に噛み砕いて教えてあげるよ。貴族の礼儀作法は自然に身につくものじゃないからね」
しかし、リリスは王宮での公式行事にも参加する機会が多く、その場面場面で臨機応変に振る舞えるようになっている。むしろレオナルドが不用意に失態を演じることもしばしばで、そのたびにリリスがフォローしていた。
ある時、リリスはわざとらしく訊ねた。
「礼儀作法といえば、先日の王宮での謁見の際、レオナルド様が先走って謝意を述べる場面を間違えたと伺いましたが……。あれはなぜだったのでしょう? 私も勉強のために理由が知りたくて」
本来なら、王族が言葉を発してから礼を示すところを、レオナルドはタイミングを誤り、周囲の失笑を買った事件だ。彼はそれを思い出し「え、ええと……」と曖昧に口ごもる。
それを見届けると、リリスは申し訳なさそうに頭を下げる。
「せっかくレオナルド様のお話が難しいとおっしゃってくださるのに、私にはまだ理解が至らないようです。何か先日と同じ誤りをおかしたら大変ですから、詳しくご指導いただければありがたいのですが……」
周りで聞いていた人々は含み笑いをこらえられない。レオナルドが真っ赤になったところで、リリスはすっと視線を下げ、しおらしく沈黙した。
このような出来事が重なるにつれ、レオナルドは漠然とした不安を抱き始める。「リリスは本当に僕を好いているのか? いつも従順に見えるけれど、どこか冷たいではないか……」
一方のリリスは「どうかこのまま、向こうから婚約を破棄してくれますように」と心から念じていた。自分から破棄を申し出れば家同士の問題になりかねないが、レオナルドが感情的に破棄を宣言してくれれば、リリスは自由になれるのだ。
やがて、我慢の限界に達したレオナルドはついに声を荒らげる。
「最近、君はわざと僕に恥をかかせているんじゃないのか? 市場だの領民だの、勝手に首を突っ込みやがって……僕を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
リリスはさも驚いたように目を丸くする。けれど、その瞳には動揺は見えず、むしろほんの少しの安堵を宿していた。
「馬鹿になど……そんな、どうしてそんなことをおっしゃるのですか。私なりにレオナルド様のお役に立とうとしていただけで……。もしお気に召さないなら、もう何もいたしません。婚約者として力不足であれば、破棄されても仕方ありませんわ」
「力不足どころか邪魔なんだよ! いい、もうこれで終わりだ。僕は君とは……婚約を解消させてもらう!」
勢いに任せて言い放ったあと、レオナルドは扉を荒々しく開いて出ていった。
こうしてリリスは「相手からの婚約破棄」という、長い間念願していた結果を手に入れる。家の者は一瞬驚いたが、リリスは冷静に状況を整えてみせた。
「父さま、どうかご心配なく。次の縁談はすぐに見つかるでしょうし、私は私で、もっと有益な形で公の活動を続けられます」
実際、リリスが領地の改善策や社交の計画を自主的に進めていた事実は、貴族社会にも徐々に伝わっていた。彼女は“ただの従順な令嬢”ではない。才覚と行動力を秘めた、頼もしい存在だと高い評価を受け始めていたのだ。
一方、レオナルドはリリスを失ったことで、領地経営や公務の大半を任せきりにしていたツケを痛感する。誰もがあからさまに彼を冷遇するわけではないが、リリスの存在がいかに大きかったかを思い知らされる場面が増えた。
「どうして、どうしてリリスはあんなにあっさり……」
後悔や焦燥に苛まれても、もはやリリスは振り返らない。自分を嘲るような発言を繰り返し、“手柄”を奪われるような婚約関係に戻る理由は微塵もない。こうして、彼女は束縛から解き放たれ、真に自分の道を進むことを決意したのだった。
◇◇◇
レオナルドが感情的に婚約破棄を宣言してから、およそ一週間。
その知らせは驚くほど早く貴族社会を駆け巡り、さまざまな憶測を生み出した。「リリス・グラナードは伯爵家の跡取り息子の逆鱗に触れるような真似をしたらしい」「いや、逆にレオナルド・フォンテーヌが一方的に怒りをぶつけただけのようだ」──人々は噂を交わしながら、リリス本人の動静を注視した。
しかし、渦中のリリスはと言えば、思いのほか穏やかな日々を過ごしている。実家のグラナード伯爵家では、父も母も当初こそ婚約解消に慌てたが、すぐに娘の意向と事情を知って落ち着きを取り戻した。
「リリス、もう少し詳しく話してごらん。レオナルド殿は一体何が不満で、こんな急な破棄を……」 父親である伯爵は、リリスの部屋を訪れてそう問いかける。
「まあ、表向きは私が“余計なことをした”ということになっておりますわ。私のほうから別れを切り出したわけではありませんから、グラナード家の責任が問われることは少ないはずです」
落ち着いた口調でそう返す娘を見つめ、父は複雑そうに眉をひそめた。
「リリス、辛い思いをしたのではないか? あの男が大声で怒鳴り散らす場面を見た者もいる。お前が言い返すことなく黙っていたから、彼が一方的に……」
「お心遣いありがとうございます。けれど私は平気ですわ」
そう言って微笑むリリスの瞳には、一抹の淋しさすらない。むしろ肩の荷が降りたような安堵が漂っている。
「父さま、私はこれまでグラナード家の為に、あの婚約を続けてきました。ですが今はもう、無理をする必要はありません。私の力は、もっと別の形で役立てるはずです」
伯爵は娘の手を取り、小さく頷いた。
「……わかった。お前がそう決めたのなら、父としてはお前の意思を尊重しよう。今後は新たな縁談も候補に上がるだろうが、それまでは好きに過ごすといい」
実は、リリスがもっとも力を注ぎたいのは平民との交流や領地の改善策の提案だった。レオナルドとの婚約関係にある間は「伯爵家の正当な計画」としてしか動けなかったが、今は彼女個人の立場で参加できるのだ。
例えば市井の職人が集まる小さな展示会の場では、リリスが積極的に出資を申し出ていた。彼女の信頼は高く、平民からも「グラナード伯爵家のご令嬢は話が分かる」と歓迎される。
「先日、レオナルド様に叱責された“平民工芸”ですが、王宮の催事に選ばれる可能性もある優れた技法をもつ職人が多いんです。今後はもっと広い市場を得られるはず。私も微力ながらお手伝いできたらと考えていますの」
リリスは明るく笑いながら市場を歩き回り、一つひとつの作品に目を留める。工芸品を手に取りながら、優しく職人に話しかけ、その技法を学ぼうとする姿勢は、彼女が決して“見下す”ような存在ではないことを示していた。
婚約破棄後、周囲の反応に戸惑っているのはレオナルドのほうだった。
彼は「リリスが従順すぎるからこそ不満だった」「僕を馬鹿にしていた」と豪語して回っているが、真実を知る者たちは少しずつ首をかしげ始める。
「そもそもリリス嬢が市場や領民たちの暮らしを支えていたおかげで、伯爵家の評判も悪くはなかったのでは……?」
「婚約を解消したと聞いて、彼女のほうがむしろスッキリしているらしいが……?」
まことしやかな噂が広まるにつれ、レオナルドは焦燥感を募らせていく。元は「俺こそ正しい」という高圧的な態度だったのに、いざリリスと離れてみれば、事務処理や領地経営であちこち躓き、周囲から苦言を呈される日々が続いていた。
そんな折、グラナード伯爵家にはいくつかの令息や貴族家から“お見合い”の打診が舞い込み始めていた。
華やかな舞踏会や夜会の場で、リリスはきちんと礼儀をわきまえつつ、先方の性格や考え方を見極めようとさりげなく会話を試みる。
その中には、リリスが推進する「平民との協働」に理解を示す人物もいた。王都周辺の領地を治める侯爵家の跡取りなどは、「近年は領民あっての貴族である」と考えているらしく、リリスと話が合う。
もちろん、リリスは慎重だ。再び一方的な支配や見下しをされる婚約などまっぴらだからだ。
「どれほど地位が高くても、相手を人として尊重できない方はご遠慮したいものです」
彼女がそう父に告げると、父は苦笑いしつつも同意を示す。
「お前は昔から人を見る目がある。次こそは、真に信頼できる相手と結ばれることを願うよ」
一方で、リリスは単に次の婚約相手を探すだけでなく、貴族の新しい在り方を模索していた。平民の職人たちの才能を認め、自身の領地にも活かしていくという構想である。
「私のいるグラナード家は土地も広いし、資産もそれなりにある。貧しい地域を巡回し、彼らの工芸や農産物を広く紹介する場を設けてはどうかしら」
王宮からの視察団を呼び、その成果を見てもらえれば、いずれは周辺領地にも影響が及ぶだろう。これは単なる慈善ではなく、双方に利益をもたらす経済活動だ。
「レオナルド様は平民を見下していましたが、それで物事がうまく回るわけではありませんしね。むしろ、彼から解放された今のほうが思う存分動けます」
リリスは言葉を口にするたび、自分が本当に自由になったのだと噛みしめていた。
そんなリリスの計画や、彼女が各方面から支持を得ているという話を漏れ聞くにつれ、レオナルドの苛立ちは増すばかりだった。
「くそっ……リリスがいつの間にあんな影響力を持ったんだ? やはり僕が導いてやったから……いや、そんなはずはない」
彼は否定しようとするが、周囲は薄ら笑いを浮かべるだけだ。リリスの能力はもともと本人の努力と才覚によるもので、彼の功績ではない。それが明るみに出てしまった今、レオナルドが彼女を“手放した”のは到底賢明な判断とは言いがたい。
しかし、後悔の念を認めることは彼のプライドが許さない。「あの女が悪い」という怒りを抱えて、はや一週間が過ぎようとしていた。
一方、リリスはここ数日の状況を見定めて、いよいよ大々的に新しいプロジェクトを立ち上げる決断をする。
「規模はささやかですが、平民職人の作品展を王都の大きなホールで開き、貴族や商人も招きたいと思います。父さま、どうかお力添えを」
「もちろんだとも。お前が伯爵家の名を使うのなら、より多くの人が集まるだろう。こういう時こそ、私たちグラナード家も本気を出してみようじゃないか」
父は頼もしげに笑みを浮かべ、リリスとともに計画書へ目を落とす。そこには資金調達の算段から宣伝方法、招待客の選定まで細かく記されていた。
「感心したな、ここまで周到に準備しているとは。まるでどこかの令息が一人で組み立てられるものじゃないぞ。リリス、お前……」
「ええ、この一年ほど、少しずつ案を練り続けておりましたの。レオナルド様が何かと“口を出して”くださるので大変でしたけれど、その分、外面よく立ち振る舞う練習になったとも言えますわ」
リリスが誇らしげに言うと、父は微笑みを深める。彼女がもはや前の婚約に未練など抱いていないことを知り、ほっと胸を撫で下ろした。
初夏の香りが漂う、穏やかな朝。王都の中心部にある壮麗なホールでは、リリス・グラナードが主導した“平民職人の工芸品展示会”がいよいよ幕を開けようとしていた。
会場には厳かなパイプオルガンの調べが流れ、壁には各地から集められた美しい工芸品がところ狭しと並べられている。手彫りの木細工、鮮やかな染織品、繊細な金属細工など、多様な文化と技巧がまばゆいほど。
入り口付近には、リリスの父であるグラナード伯爵が出迎えの挨拶をしていた。伯爵自らが「我が娘の試みによくぞお越しくださいました」と客人を迎え入れる姿は、多くの貴族たちの目を引く。
そして何より、今回の展示会に訪れているのは貴族だけではない。商人や学者、さらには平民の有力者たちも招かれている。公の場に彼らが堂々と参加するのは、従来の慣習からすれば珍しいことだった。
「リリス嬢、こちらの作品もご覧いただけますか?」
「まあ、素晴らしいですわね。これほどの彫刻技術はめったに拝めません。ぜひ王宮にも紹介したいところです」
リリスは各ブースを巡り、笑顔で職人や商人と言葉を交わしている。視線は常に柔らかく、決して相手を見下さない。その姿勢こそが、場の空気を温かくしていた。
貴族の一部はまだ「平民を同等に扱うなんて」と戸惑いを見せるが、逆に王宮関係者や進んだ考えを持つ商人たちは「新しい風だ」と評価を口にする。
「リリス嬢のように広い見識を持つ方がもっと増えれば、王都もさらに豊かになるだろう」
そんな言葉を囁く声も漏れ聞こえ、リリスは胸に安堵を覚える。自分が目指していた方向性が間違っていなかったのだと実感できる瞬間だった。
そこへ、不意に会場がざわめき始める。入り口から見覚えのある黒髪の青年が姿を現したからだ。
レオナルド・フォンテーヌ──かつてリリスの婚約者だった伯爵家の嫡男が、険しい面持ちでホールに足を踏み入れた。
商人や平民たちが怪訝そうに道を空け、彼を避けるようにしている。その視線はどこか冷たい。「彼があのリリス嬢を追い詰めて婚約破棄した張本人か」という噂が、すでにある程度広まっていたのだ。
レオナルドはそんな空気を感じ取りながら、まっすぐリリスに近づいていく。
「……リリス、少し話がしたい」
リリスは動じることなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「レオナルド様、いらっしゃいませ。展示会に興味をお持ちいただけて嬉しいですわ。何かご用件でしょうか?」
レオナルドはあからさまに居心地悪そうにしながらも、低い声で言う。
「……お前の計画がこんなに大きくなるなんて知らなかった。どうして今まで黙っていたんだ? 俺はお前を馬鹿にしていたのかもしれない」
それは、遠回しな謝罪にも聞こえる。しかし、リリスは彼の姿勢を冷静に見つめていた。
「私が黙っていたというより、レオナルド様が興味を示してくださらなかっただけですよ。私、ずっとこの企画についてお話ししていたはずです。けれど“平民の活動なんて無意味だ”と一蹴されたのは……」
リリスは言葉尻を濁し、静かに目を伏せる。レオナルドは一瞬苦い顔を浮かべたが、意を決して続ける。
「……俺は、今になってようやく気づいた。お前がいないと領地の管理もままならないし、こういう社交の場でも失態ばかりだ。あの時は感情的になって悪かったと思っている。だから、もう一度……その……」
その言葉に、リリスは首を横に振った。
「レオナルド様。私はあなたが嫌いではありません。でも、あなたと結婚することで、私のやりたいことが何もかも阻まれてしまうのも事実でした。たとえ今こうして謝ってくださっても、根本的な考え方が変わらなければまた同じことの繰り返しになるでしょう?」
「そ、それは……変われる。きっと変われるはずなんだ!」
焦りを帯びた声で訴えるレオナルド。しかし彼の言葉には本心というより、行き場のないプライドがにじんでいる。彼にとっては“リリスを取り戻す”ことが、失った自尊心を補う唯一の手段に思えているのだろう。
だが、リリスはそんな彼をきっぱりと見据える。
「本当に変わろうとするなら、まずはあなた自身の領地を支え、周りに尽くすことから始めてください。それをせずに私を呼び戻そうとするのは、結局……あなたが先に変わりたいと思っているわけではないということですわ」
レオナルドは言い返す言葉を失い、ただ苦しげに唇を噛む。周囲にいた商人や貴族たちは、遠巻きにそのやりとりを見守りながら、リリスへの尊敬を深めているようだった。
やがてレオナルドは息を荒くしながら背を向け、「何がわかるんだ……!」と小さく呟いて会場を後にする。何もかも自ら壊した婚約の代償はあまりにも大きく、そして今もなお、彼には真の意味で自らを省みる余裕がないようだった。
その一幕が終わると、リリスのまわりには見知った顔ぶれや新しい顔ぶれが集まり、「今のやり取りは見事だった」「リリス嬢には本当に感心する」と口々に声をかけてくる。
「いいえ、私は何も見事なことなどしておりません。自分の意思を述べただけですわ。それに……」
リリスはそう言いながら、さりげなく工芸作品が並ぶ棚を見やる。
「私がやりたかったのは、こういう場をつくること。それだけに尽きます。もし私があのまま伯爵家に嫁いでいたら、きっと今日の展示会は開かれなかったでしょう」
展示会は盛況のうちに幕を閉じ、その後も多くの貴族や商人がリリスと面会を求めた。中には積極的に彼女のプロジェクトを後援したいという者や、実際に商売の場として活用したいという者もいる。
そして、複数の貴族家からは正式な縁談の話が伯爵家に舞い込み、リリスはその中の一人──平民や異国の文化に理解を示す侯爵家の跡取り息子と、互いにじっくり会話を重ねるようになった。
「貴女のお考えや行動力は、本当に素晴らしいと思います。僕も自分の領地をもっと豊かにしたい。そのために、貴女と一緒に知恵を出し合えたら……」
そう言われると、リリスは穏やかに目を伏せて微笑む。まだ確定ではないが、新たな可能性がゆっくりと芽生えつつあるのだ。
◇◇◇
リリスは夜会の終わり、ホールの片隅で静かに疲れを癒やしていた。きらびやかな装飾品が取り外され、職人たちが作品を片付けていく。ホールの喧騒も次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
ふと、大理石の柱にもたれかかった彼女は、これまでの日々を振り返る。レオナルドとの不幸な婚約、家を背負ってきた苦労、しかしそれらを経てようやく自分がやりたいことに正面から取り組めるようになった。
控えめに笑いながら、リリスはつぶやく。
「きっとこれからも、もっと大変なことがあるでしょう。それでも私は決して後悔しない。自由になれたのだから……そして私の行動が少しでも人を幸せにできるのなら、それこそが何よりの喜びですわ」
ライトが落とされ始めた会場を見回しながら、リリスはそっと瞼を閉じる。思い描くのは、広がる未来の光景。平民と貴族の垣根を越え、誰もが才能を発揮できる社会。そこに向けて、自分の力を尽くす覚悟を新たに胸に刻むのだった。
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