ツタンカーメンの本当の王墓はどこにある? ⑧
この部分について少し説明しておこう。
ツタンカーメンは王位に就いたと同時にアマルナを離れ、即位式も古都メンフィスでおこなわれ、王が離れたと同時に家臣たちも一斉にアマルナを離れ、アクエンアテンの都は無人地帯となった。
アクエンアテンの遺体が移送されたのもツタンカーメンのアマルナ放棄とほぼ同時。
これが所謂通説である。
当然ながら、専門家を含む多くの支持を集めるこの意見を採用するならば、この場で探偵役の人物が主張する説は無に帰すことになる。
だが、ここにそれを裏付ける証拠がある。
アクエンアテンがアマルナに開いた、自らと後継者たちが眠るあらたな王家の谷、そこでの仕事に従事する者たちが住んでいたふたつの労働者の村で発見された多くの遺物である。
その遺物には彼らの王や王妃の名前が刻まれていたのだが、そこに残されていたものの半数以上はツタンカーメンの名であった。
ただし、これについては専門家はこう説明する。
それはツタンカーメン時代にアマルナの王墓群の解体がおこなわれた証拠である。
だが、一見正しいように思えるその主張に反する証拠がある。
アクエンアテンとツタンカーメンの間に王位に就き、早い時期にアマルナを離脱したとされるネフェルネフェルウアテンに関わる遺物がアクエンアテンに関わるものの倍ほど発見されているのだ。
これについては専門家は誰もが言及しない。
先ほどの説を引用すれば、ネフェルネフェルウアテンは新王家の谷の解体作業に従事したことになるが、やはり王墓造営に従事していたというほうが話はスッキリする。
さらに、ツタンカーテンではなくツタンカーメンと記されているものがあることから工事がツタンカーメンと名乗った時代にもおこなわれていたのは確実である。
そして、最終的にアマルナの建物を解体し資材用石材としては運び出したラムセス2世の名が記された遺物は労働者の村だけではなくアマルナ中心地からもほとんど見つかっていない。
この部分についても解体作業のために従事した者たちの痕跡と主張した場合に都合の悪い数字らしく専門家は触れることはない。
ついでなので、興味深い事実も知らせておこう。
アクエンアテンの妃であり、王と同等の力を持っていたとされるネフェルティティの名が記されたものは労働者の村では発見されていない。
その一方、ネフェルネフェルウアテンの妻で、アクエンアテンの娘の中では特別な存在とされたアクエンアテンの長女メリトアテンの遺物はそれなりの数が発見されている。
この部分について深掘りしたいところであるのだが、これはアマルナ時代の多くの事柄にある出口のない迷宮のひとつ。
触らぬ神に祟りなし。
触れただけで退散するが吉。
ということで、話をツタンカーメンの遺物の多さに話を戻そう。
一般的には王墓解体作業に従事した者の痕跡とされるそれは、別の見方もできることを理解してもらったところで改めて言おう。
最終的にはアクエンアテンアテンの王墓解体に従事したものの、本来彼らは別の仕事に従事していたのではないのか?
では、その別の仕事とは何か?
いうまでもない。
アマルナにおけるツタンカーメン王墓造営である。
このエピソードで語った数値については J. D. S. Pendlebury著「City of Akhenaten Ⅰ~Ⅲ」を参考にしているので、興味があれば図書館等で閲覧することをお勧めする。