ツタンカーメンの本当の王墓はどこにある? ⑫
アクエンアテンがアマルナに開いた新王家の谷の閉鎖を決めたツタンカーメンであったが、もちろんそれで終わりではない。
それはつまりルクソールに自身の墓を新たな墓を造営する必要が出てきたということである。
さらに解体した父王と、同時進行という形でアマルナに墓所を造営していたネフェルネフェルウアテンの墓も合わせて工事をおこなう必要になったのだ。
さて、その作業であるが、まずおこなうことは場所の選定である。
だが、これについては王家の谷ですぐに決まる。
では、王家の谷のどこに墓をつくるか。
実をいえば、これがなかなかの難題だった。
ツタンカーメンが王墓の造営を考えていた時につくられた王墓にはある規則性があった。
第19王朝のように一族が一定地域にまとまって王墓が造営されることはない。
もう少し魅力的表現を使えば、その王墓を中心とした神域エリアと呼んでもいいものがあった。
つまり、他の王墓が造営された付近にはあらたな王墓はつくれない。
当然その周辺は候補地から除外する。
王族や家臣、または倉庫の類、用途は様々だが、他の墓がすでにある場所も除外。
そう。
ツタンカーメンは、祖父アメンヘテプ3世だけが眠る未開の地西谷ではなく、多くの王が墓を造営した東谷を自らの墓所の造営地としたものの、前述した暗黙のルールにより王墓をつくることができる場所は多くなかった。
残っていたのは東谷の中央部。
そう。
現在のツタンカーメン王墓がある周辺である。
ひとくちに王家の谷というが、実際のところ「東谷」、「西谷」のふたつのエリアに分けられる。
ただし、「西谷」はアメンヘテプ3世とアイのみ王墓を造営しただけであった。
つまり、不人気。
そう考えると、こちらに王墓をつくらなかったツタンカーメンは先見の明があったということになる。
王墓造営に適する場所が多数あったにもかかわらず、「西谷」が第19王朝以降の諸王に不人気だった理由は文字資料がないので推測するしかないが、警備の問題もその理由に含まれると思われる。
第18王朝の規則性についてはルクソール西岸に広がる葬祭殿についても適用できる。
ハトシェプスト女王から即位順に北から南へ葬祭殿は移動している。
まだ見つからぬツタンカーメンの葬祭殿については祖父アメンヘテプ3世からツタンカーメンの後継者であるアイ・ホルエムヘブの葬祭殿の中間地点にあるはずであり、彼の前の王であるネフェルネフェルウアテンの葬祭殿はそれより南にあると考えるべきもの。
そして、砂漠地帯のほぼすべてを掘り起こしても痕跡が見つからない以上、そのふたつの葬祭殿の位置はメムノンの巨像で知られるアメンヘテプ3世葬祭殿の南に広がる耕作地帯の下にあると考えるべきだろう。




