第1話 1-2
「……ただいま」
玄関のカギが開いていたから、今日はお母さんが家にいるのがわかった。
お母さんは家にいるとき、あたしが帰ってくる時間あたりに玄関の鍵を開けておいてくれる。
あたしは家のカギを持っているから、そんなことしてくれなくていいんだけどな。
あたしが家のカギを持ち歩いているのは、お母さんは近くのスーパーでパートをしていて家にいないことも多いし、お父さんが仕事から帰ってくるのは、あたしが寝てからのこともあるほどおそいからだ。
5年生になってから算数で100点を取ったことはないけど、90点より低いのも初めてだ。
だからあたしは、とっても落ちこんでいた。
「冬休みも、あんなにがんばって勉強したのに……」
あたしは塾に行ってない。
行きたいと思うけど、お母さんがいうには、
「うちにそんな余裕ありません」
だって。
うん。わかってる。
うち、そんなにお金持ちじゃないって。
理由はわからないけど、「借金」があるから、それを返さないといけないって。
だからあたし4年生のときに、
「お医者のおじいちゃんお金持ちなんだから、お医者のおじいちゃんに借金返してもらえばいいじゃん」
って、お母さんにいったことことがある。
だって、あたしも塾に行きたかったから。
お医者のおじいちゃんは、お母さんのお父さん。
結構大きな病院でお医者さんをしていて、お金持ちらしいから。
だけどそういったあたしを、お母さんが見たことないくらいこわい顔で怒った。
そして、
パンッ!
って音といっしょに顔が横に弾かれて、あたしは床に手をついて倒れた。
それがお母さんの平手打ちだとわかったのは、床に手をついてから何秒かたったあとだった。
お母さんに顔を叩かれたのはあのときが初めてで、あのときだけしか叩かれたことはない。
お母さんはすぐにあやまってくれたけど、あたしはあまりのショックでなにもいえなかった。
体が震えて、お母さんの顔が鬼に見えた。
それからあたしは、お父さんにもお母さんにも、「本当の気持ち」がいえなくなった。
いっていいのかどうか、不安になっちゃう。
ほしいもの、やりたいこと、行きたい場所。
いろいろあるけど、お父さんにもお母さんにもいえない。
だってあたしは、なぜお母さんがあたしを叩くほど怒ったのか、いまだにわかっていないから。
あのときのあたしは、なにがどれくらい悪かったんだろう……?
たくさん考えたけど、わからない。
だからもう、あのときのことは考えないようにした。
ほしいもの、やりたいこと、行きたい場所。
それらは、大人になってから自分で手に入れよう。
そう思うようになった……。
◇
リビングでスマホを見ていたお母さんは、なんだろう? とても疲れた顔をしていた。
このところお母さんは、いつも疲れた顔をしている。
お仕事タイヘンなの?
あたし、家のお手伝いできるよ?
そう思うけど、言葉にしたことはない。
していいか、わからないから。
「算数のテスト返ってきた」
テストの結果は、いつもお母さんに見せている。
お父さんは、あたしの成績は気にしてないみたい。
通知表を見ても、
「すごいな、お父さんよりもずっといい成績だ」
そんなことばっかりいう。
ちょっと信じられない。だってお父さんは、入るのが難しい大学を出ておクスリを作る研究をしている、「頭のいい人」なんだもん。
89点の算数のテストを見たお母さんは、少し困った顔をして、
「今回は悪かったねー」
軽い感じでいった。
怒ってるとか、残念に思ってるとか、そういう感じはしなかった。
ただ、感想をいっただけ。
むしろ、どうもいい、興味ないって感じだった。
あたしと違って、お母さんがテストの点数を気にしてるようすはない。
お母さんにはあたしのテストよりも、気にしないといけないことがあるんだろう。
だけどあたしはお母さんの言葉に、
(悪かった? そう……だね、悪かったね……)
なんだか、自分が小さくしぼんでしまったように感じた。
テストの点が悪かったは自分でもわかってるけど、それをお母さんにいわれたのが、なぜかとてもつらかった。
だけど点数がこんなに悪かったのは、自分でだって納得できてない。
最後の問題は、学年で一番勉強ができるヨウヘイくんも間違っていたし、正解者はいなかったって先生はいってた。
それにあたしがもう一つ間違えた問題も、正解者はヨウヘイくんだけだったって。
お母さん。
先生、あたしを褒めてくれたよ?
「小豆は、いつもよくがんばってるな」
って。
90点以下だったけど、先生は褒めてくれた。
だから、お母さんも褒めてくれるかもしれない。
あたし、そう思ってたのかな?
だからこんなに、ざんねんでつらい気持ちになってるの?
はぁ……よくわかんないや。
お母さん、あたしね。
冬休み、本当にがんばって勉強したの。
お正月も、してたでしょ?
見てなかった?
100点は取れなかったけど、89点だったけど、それでもクラスで2番目だったんだよ?
いつも通りだよ。
なにも変わってない。
悪くなんて、ないんだよ……。