六ノ巻46話 最強の怪仏、究極の神仏(ほとけ)
地上から見上げる、かすみの目には見えた。
空を覆うような白い光、大日金輪の放ったその流れの只中に、ただ一点。流れに逆らう杭のような、太陽の輝きの中の黒点のような、ただ一点が見えていた。
その一点は、澄んだ黄金色の輝き――崇春。
そしてその声は、地上にすらも響いてきた。
「――ぉおお……ぅぉおおおおおーーっっ!!」
崇春の拳はその輝きを失ってはいなかった。大日の光の只中にあって、未だその流れに留まり、押し流されかけてこらえ――いや。わずかずつだが押されていた。怪仏の力を打ち消す大日金輪の光、その中にじりじりとだが呑まれゆき。
それでもどうにか、留まっていた。
「~~っ、崇! 春! さん!!」
かすみが胸の底から腹の底から、声を張り上げた――横で百見が耳を押さえた――とき。
二つの光は未だ押し合っていた。――いや。
じりじりと、わずかずつ。崇春の拳が、その光が、大日のそれを押していた。光の流れをさかのぼるように、その奔流の中を進んでいた。
「――な……!」
上空で大日が目を見開く。
「――おおおぁあ……ふんぬりゃああ……!」
その間にも、崇春は拳をさらに押す。
その両拳からはとめどなく、さらにさらに光が溢れる。かき消されても、かき消されても。消される端から消される端から、さらなる光が溢れ出す。それまでより強く、もっと強く、倍するほどの光が流れ出し、吹き上がる。
大日金輪が放ち続ける『怪仏の力をかき消す力』、もはやその強さでは押さえ切れない、崇春が放つ光の強さを。その速さでは間に合わない、次から次へと崇春が繰り出す、力を消すには。
「――ぉぉおおお……喝ぁーーっっっ!!」
崇春は風を吹き出す足を踏み込み、さらなる拳を押し込んだ。
形作られた巨大な光の双拳が、大日の放つ光の流れをかき分け、二つに断ち割り。その先に浮かぶ、大日金輪の体を打ち飛ばした。
地上で渦生が円次が賀来が、口々に声を上げる。
「マジか……!?」
「すッげ……やり、やがった……!」
「ちょ、え、えええ!? やったのか、あいつやったのか、なぁ!?」
言葉を失い、棒立ちのままのかすみに――他の皆にも――構う様子もなく、百見は一人つぶやく。
「念のために補足しておくが『増長天が――仏教、特に密教における神仏の位階において最下級の天部が――最強』という事象については、密教的にはむしろ自然なものとも解釈できる。密教における根本経典の一つ『大日経』――正式には『|大毘盧遮那成仏神変加持経《だいびるしゃなじょうぶつしんぺんかじきょう》』――第一章たる『入真言門住心品』には、教義の根本が『三句の法門』として説かれている。すなわち――」
息を吸い込み、声を上げる。
「『仏言菩提心為因、大悲為根、方便為究竟――仏法そのものの化身たる大日如来は、仏法と真の智慧たる悟りの境地についてこう説いた。悟りを求める心【菩提心】を原因として、大いなる憐れみ慈しみ【大悲】を根拠とし、それらを実践するための有効な手段【方便】を究極とする――』」
眼鏡を押し上げて続けた。
「さて、この『大日経』は金剛界・胎蔵界と二種ある曼荼羅のうち『胎蔵界曼荼羅』に相当する。そして先ほど挙げた『三句の法門』を、胎蔵界曼荼羅に描かれる数多の神仏にあてはめるとこうなる。――すなわち、大日如来を始めとする中心部の如来、菩薩、明王らが【因たる菩提心】。それを取り巻く菩薩らが【根たる大悲。】そして最も外側を護る天部の護法神ら、これが【究竟――究極――たる方便】。……密教の特徴は正にここにある」
一人うなずき、言葉を続けた。
「他の大乗仏教においては、方便を単なる手段、便宜的なものと捉えるが。密教においては『その手段こそが全てであり、その実践こそが究極である』という立場を取る。その思想においてはつまり【因たる菩提心の如来ら】【根たる大悲の菩薩ら】ではなく、【究竟たる方便の天部ら】こそが究極の神仏……そのようにも解釈し得る。そして、『仏法がこの人間世界において実践される』以上は。究極たる護法神の一尊『人間世界・南贍部洲の守護者たる増長天』、それこそが『方便の中の方便、究極の中の究極たる神仏』。――そう解釈することができる。少なくとも僕らの宗派、南贍部宗においてはそう解く。だから――」
宙を見上げた。大日金輪と、崇春がいる方を。
「だから、増長天こそは究極の怪仏。たとえ大日如来を越えた真の大日金輪が相手だろうと……問題無い。勝つさ、崇春は」
かすみは崇春の方ではなく、それを見上げる百見を見て思う。
なぜだろう。崇春の勝利を語る百見の表情に、誇らしげな様子はなかった。一切の笑みもなかった。
眉根はきつく寄せられていた、何かに耐えるかのように。頬は歪められていた、何かに憤るかのように。その表情は硬く、体は震えていた。刃を突きつけられているかのように。まるで、今から首を落とされる直前だとでもいうかのように。
上空にて。
彼方へ打ち飛ばした大日に向かい、崇春が声を上げる。先ほどの激突に、体中から焦げたような煙をくすぶらせながらも。
「――一つ、残念じゃったんじゃがの。できるなら、お主らを傷つけることなく助けたかった、救いがあると気づかせたかった。じゃが……こればかりは仕方あるまい」
澄んだ金色の籠手をまとった拳を向ける。
「――あくまでも世を歪めるというんなら。お主らを殴り、殴り、蹴っては殴り。一足たりとも動けぬまでにぶちのめし、力ずくにて気づかせてやるわ。さぁて……ゆくぞぉぉ!」
風を吹き上げ、崇春は宙を駆けた。空中で片ひざをついて肩を荒く上下させている大日を、駆ける勢いのまま蹴り上げた。
宙を舞ったその体を追いかけて飛び、今度は打ち下ろすように拳を打ち込む。
「――そぉい!」
地上まで落ちゆくかと見えたそれを追いかけ、突き飛ばすように何度も拳を繰り出した。
「――そりゃそりゃそりゃ、そぅらぁああ!」
大きく吹き飛ぶ大日を追いかけ、さらに飛ぶ。
が。踏ん張ったその足が突然崩れ、吹き出す風も力を失う。
「――ぐ、むう!?」
そのときには、大日はすでに体勢を立て直していた。
「――受けよ。【蝿声なす不浄の光】」
逆に崇春めがけて踏み込み、その手に宿る青黒い光の刀を振るっていた。
「――ぬう……!」
すんでのところで崇春は身をかわす。が、斬られたわけでもないというのに、その脚がまたも崩れる。呼吸は荒く、肩は大きく上下していた。先ほどまでの大日のように。
大日が見下ろすように背筋を伸ばす。
「――なるほどなるほど、大した力だ。いや、恐るべき力といっていい。実際恐怖すら感じたよ……だが悲しいかな、肝心なところをお忘れのようだ。この我はどれほど傷つけられようと『他者の生命力を吸収して何度でも立ち上がる』」
唇を緩め、笑ってみせた。
「――一方、君はどうだ。確かにこの我をも圧倒する力を持っている、だがどうだ。その力、決して無限ではあるまい? この我に力を吸い取られ、弱っているところを見るにね。そしてまた一方、この我は『君の力を吸い取り、何度でも立ち上がる』『その度に君の力を吸い取り、弱らせて』」
険しい顔のまま、無言で崇春は拳を構える。
大日はあくまで朗らかだった。
「――そうそう、こんな特徴もあったね。君の力は『この我の力を、無効とするようなものではない』『怪仏を打ち消す力でも消し切れないほど、強く大きく速いだけ』。ならば」
両手に再び、青黒く熾える光が宿る。
そればかりではなかった。その背にもまた光が熾える。大きく広がったそれは仏像の光背か、あるいはまるで翼のような――いや。腕のような形を取っていた。阿修羅像のような多腕、四本の腕。その手の部分には青黒く燃える刀が握られている。
「――ならばこういうのはどうだろう。『君がその力を一点に集中し切れない、多方向からの攻撃を』『しかも、敵の力を吸い取る能力を乗せて』放つ。見ものだね、果たしてどれほど耐えられるか」
二本の腕と背中の四腕。合わせて六臂が、熾える刀を振り上げた。
その頃、地上で。
かすみは遠く、空中でのやり取りを見ていた――二人の声は遠く小さく聞こえるのみだったが、大まかな状況は見て取れた――。
光の刃を構えた大日を指差しながら。やり場のない声を、目の前にいる百見へとぶつける。
「でも、最強の怪仏っていっても! まずいんじゃ、やばいんじゃないんですかあれ!?」
「……確かに、そうかもしれない」
百見は遠い目で崇春を眺めていたが。かぶりを振り、あきらめたように息をついた。
「だが、だったとして。僕らにできることは何もない、彼以上の戦力など存在しない」
かすみは分からない、この事態を理解できてはいないし、今百見の言ったこともこれまで聞かされた内容も頭の中を通り過ぎただけだ。何も分かってはいない。
それでも、それでもこれだけは聞かなければならない。
百見の肩をつかみ、揺さぶる。
「どうしたらいいんですか、何ができるんですか私たちは! それに――」
宙にある崇春を見上げて言った。
「崇春さんが、怪仏だ、って。……戻れるんですか、元に」
「戻るも戻らないもないよ」
百見はその先を続けた。ゆっくりと、首を横に振ってから。
「『怪仏になった』んじゃあない。『元から怪仏だった』。君も薄々は分かっていると思ったが……戻るも戻らないもない、今も今までも、あれが崇春だ。……少し前には、鬼神の巨大な腕を生やしたりもしていたが。あれは怪仏としての力を中途半端に解放した、仮の姿に過ぎない。彼は南贍部洲――地球――全ての人の『善意』を業とした最強の怪仏。そして」
また、首を横に振った。
「そして、もう戻ってはこない。――僕たちにできることなど無い。あいつは勝つ、確実に。そしてあいつは、死ぬよ。もっと、確実に」
上空の崇春を見上げる百見は。刃を突きつけられたような、いや、すでに深く突き刺されたかのような表情をしていた。




