四ノ巻16話 明王の過ぎし日(前編)
時間もありません、手短に話させていただきましょう――そう前置きして至寂は語り始めた。
――あれは十三年、いや十四年も前になりましょうか。
拙僧と沙羅は当時、南贍部宗本山にて僧侶として勤めておりました。
南贍部宗と申しますのはまあ、基本的には普通のお寺さんでございまして。ただ一つだけ違いますのは、『怪仏を扱う』ということでございます。
皆さんはよくご存知のとおり、怪仏とは人の業――執着、欲望――が積もり積もって、権の――仮の――形として仏の姿を取り、仏を模した力を得てしまった存在。
人に害なす怪仏を、守護仏――自らが扱う怪仏――の力を以て払い、あるいは封じる。また、封じた怪仏を保管し、封じ続けておく。それが、南贍部宗の裏の勤め――
「しかもそれがタダ働きだぜクソが」
渦生が顔をしかめて口を挟む。
「命がけで戦って何の報酬もなし。人目を忍んでやる仕事だ、他人に感謝されるってことすらねぇ……マジでクソみてぇな仕事よ」
「沙羅」
至寂は微笑んで渦生を見る。
「何も南贍部宗の僧、全てが調伏師となるわけではありません。……貴方がどうしてもなるというので、私もそれを志したのですよ」
渦生は舌打ちをし、そっぽを向いて黙った。
――さて、どこまで話しましたか。そうそう、拙僧と沙羅が調伏師となっていたということでした。
その頃の拙僧たちはピチピチのヤングメン、沙羅はともかくとしても拙僧は今以上に水も滴る超ハンサム調伏師で……いえ、話が逸れました。
ともかく、二人とももはや見習いではなく、それぞれ幾度も怪仏を調伏してきた一人前でした。
拙僧の扱う怪仏――守護仏――は『不動明王』。
大日大聖不動明王とも呼ばれるそれは、仏の教えでも救い難い者を憤怒を以て力ずくにも救うといわれる、『明王部』の一尊。
さらには仏法そのもの、宇宙そのものの化身とされる『大日如来』が人々を救うため姿を変えた、直接の化身……そのようにも解釈される、最強、の仏……それを模した怪仏。その背負う業は『破邪』――悪を破ること――。
沙羅の守護仏は烏枢沙摩明王。
同じく明王部の一尊、その原型は古代インド神話の火神『アグニ』ともいわれる、炎の化身たる仏。
厠の護り本尊ともいわれるその実体は、火焔を以て一切の不浄を焼き尽くす浄化の神仏。それを模した怪仏、背負う業は『顕正』――正義を顕すこと――。
ところで仏教、殊に密教において『仏』とは四つの種類があるとされております。そのことについて話しておいた方が分かり易いかとも存じますので、ひとつ説明させていただきましょうか。
無論、沙羅たちにはまさに釈迦に説法、今さらといった話でしょうが。
さてその四つの種類、上から、と申しますのもおかしいのですが、『如来部』『菩薩部』『明王部』『天部』とございます。
第一に『如来部』。厳密な意味で『仏』――つまるところ、悟りを開いた者――といえるのはこの存在のみです。
釈迦その人が提唱した原始仏教においては、単に『悟りを開いた修行者』の名称ですが。
釈迦入滅――亡くなったこと――後の上座部仏教において神格化が進み、その後の大乗仏教、密教においては神の如き救済者と見なされてゆきます。
第二に『菩薩部』。大乗仏教において提唱された、悟りを開く前の段階にいる者。
これらは『修行の途上にある者』と解釈されることもあれば『自らが悟りを開くことは後に回し、他の人々を救うことに尽力する者』とされる場合もあります。
自ら修行して悟りを開くことがままならない多くの人々、彼らはいかにして救われればよいのか? という問いに対する、大乗仏教による回答。
自らの身を呈してでも他者を救う、まさに大乗仏教の象徴といえる存在といえましょう。
第三に『明王部』。先ほど申し上げたように、仏の教えでも救い難い者を憤怒を以て力ずくに救う。密教において提唱された尊格です。
第四には『天部』。古代インド神話由来の神々が密教に取り入れられ、仏法の守護者とされた存在。
悟りに直接関わるというより、仏法守護と現世利益を与える存在とされています。四天王や大暗黒天、帝釈天などもこれに当たります。
さて、拙僧と沙羅の守護仏は『明王』、いわば荒事専門の仏。
怪仏は仏そのものではない以上、必ずしも元の尊格と同じ立場にある訳ではないのですが。それでも、自分たちの守護仏は強いといってよいはずでした。
ですが、ある人物の扱う怪仏には一度も勝てたことがないのでした。
その人物とは、我ら二人の師僧たる挨律。その守護仏は、帝釈天。
なるほど帝釈天も、天部といえど雷神にして四天王を束ねる軍神……高い武力を具えた存在です。とはいえ、格上たる明王にまではその地力において敵いはしない。
そのはずですが。試闘行において一対一では、一度も師の帝釈天に勝てたことはございません。
それは力よりも、経験に裏打ちされた戦術、立ち回り、駆け引き。そうした部分での差でございましたのでしょう。
……そういえば、あるとき師はこうおっしゃいました。――『業を捨てよ』と。
それはなるほど、僧としてはごく当たり前のおっしゃりようでございます。業を、すなわち執着を捨てることこそが仏教の眼目ですので。
しかし怪仏はその『業』より成るもの。殊に私たちの破邪顕正の想い、業。それこそは怪仏との戦いに必要なもののはずでした。
あるいは沙羅の方は、調伏のための遠出にかこつけて般若湯――酒――に溺れ、女色を貪ることも多いようでしたが。拙僧は左様なことをいたした覚えはございません。
……師は、いったい私に何を見たのでしょうか。
また話が逸れましたが。……そのようにおっしゃっていた師僧でさえ、業に惑う時があった。その日がやってきてしまったのです。
……師は決して、悪心があったわけではないのです。むしろ人として、当然の情であったとさえ思います。……仏教ではそれをも、執着と断ずるのでしょうけれど。