三ノ巻35話 不動明王
誰もが――といっても、倒れている賀来たちを除いて。かすみと帝釈天、吉祥天が――口を開け、目を瞬かせてその者を見ていた。
突然現れた僧――いや、山伏、あるいは修験者というのか――、最強を名乗る、細身の男を。
倒れたまま、かすみは口を動かそうとして。そもそも、何と言うべきなのか分からない。助けを求めるべきか逃げろと言うべきか、何者なのか質すべきなのか。
僧――至寂、と名乗っていた――の方からかすみへと向き直る。
「失敬。貴方は谷﨑かすみ殿……間違いありませんね」
「は、あ……」
かすみがうなずくと、男もうなずき、静かに微笑んだ。
「そうですか。貴方のことは沙羅からよくうかがっております。崇春や百見と仲良くしていただいているとのこと……ありがとうございます」
深々と頭を下げる至寂に、かすみも倒れたまま、首の動きだけで頭を下げる。つぶやくように言った。
「はあ……どうも、ご丁寧に」
いや違う。そういうことじゃない、今言うべきことは。
それにしても、崇春と百見の知り合いなのだろうか。しかし沙羅というのは誰だろうか。いや、前にどこかで聞いたような、確か――
そこまで考えたところで、慌ててかぶりを振った。
毘沙門天と、倒れた賀来たちとを見回しながら言う。
「あのっ……それより、逃げて下さい! 早く逃げて、向こうの人たちを連れて!」
聞いた風もなく、至寂は身をかがめ。ずい、とかすみの方へ顔を突き出す。
困ったように眉の下がる、困ったような顔のまま言う。
「そのようなことより。困ります、勘違いなさっては。最強、の怪仏は。恐縮ですが毘沙門天などではなく、この最強、の調伏師たる拙僧の守護仏――」
手を掲げ、かたわらにたたずむ怪仏を示す。
「何度も申しますが。『大日大聖不動明王』、なのです」
そこに立つ怪仏は、決して弱そうではなかったが。強そう、とも言えなかった。帝釈天や、刀八毘沙門天と比べては。
至寂自身よりわずかに高い程度の背丈。その背後に後光のように炎を従え、青黒いその体はごつごつとたくましい筋骨を具えてはいたが。帝釈天らのように甲冑をまとうでもなく、簡素な布を片肌脱いだ形に巻きつけ、衣としているのみ。
頭にも兜などはなく、短い巻き毛を荒くさらしていた。ただ、後ろ髪は長く、一筋に編まれて胸の前に下がっている。
そして、にらみつけるような眼差し、片牙を剥き出した形相とは対照的に、あまりにも悪い冗談のように。頭の上、髷のようになぜか、花が咲いていた。一輪の、桃色の蓮の花が。
「は、はあ……」
何度目か分からないが、かすみはそう言っていた。
どうにか上半身を起こした帝釈天が、いらだったように声を上げる。
「――ええい、何者かは知らぬが! 邪魔ぞ、退け! いや……そこな娘御らを連れて、退いてくれい!」
あごの先で鈴下とかすみを示す。
至寂は薄く微笑み、立ち上がる。
「いいえ。恐縮です、何度でも申します。最強、の怪仏は――」
その言葉をさえぎるように。毘沙門天から上がる黒いもやの流れが強まった。
「――ォ、オ、ヲ、ヲヲ……!」
吹きつけるその気流に、火花のような音を立てて辺りの砂利が弾かれ、かすみらの肌を打った。
「――オオオオ、ヲヲォ……ッ!」
天に向けて掲げた全ての腕の上、噴き上がった黒いもやが集り織り成す、一本の巨大な刀。それになおも、もやが上がってはまとわりつき、刀身をさらに大きく形作る。
「ほう……」
至寂はそちらへ向き直る。黒い太刀を見上げるその表情は変わらなかった。
白い頭巾に覆われた、自分の頭をなでて言う。
「なるほど、相当なものですが。やはり――最強、は、この拙僧の守護仏です」
合掌し、頭を下げた。
「宝剣先達にてこの愚僧、修行させていただき申す」
手にしていた木の杖を、剣のように掲げる。あるいは経の類なのか、高く通る声を朗々と上げた。
「それ惟みれば金剛宝剣と言うは、これ般若の利剣なり。かかるが故に、他人を斬らず己を斬らず本来無一物なり。然りといえども邪正相い闘うとき、般若の霊威、三昧耶形の利剣と成って――」
しかし、それに構う様子もなく。毘沙門天は黒い太刀を振り下ろす。帝釈天とその先、鈴下に向かって。その太い刀身で、かすみも賀来らも巻き込むように。
が。至寂の表情は変わらなかった。
「――一切衆生諸々の戯論煩悩の敵を断絶して――」
朗々と声を上げ続ける中、不動明王が前へ出た。裸足の足で地面を踏み、無造作に歩いて。毘沙門天の、迫る太刀の目の前へ。
そして、片手に持った剣――両刃の直剣、その柄は独鈷杵に似て、短い刃が突き出たような形。ただし真っ直ぐに伸びる刃を包むように、二本の刃が孤を描いて左右から跳び出た形をしていた。刀身の側も同様に、長く伸びる刀身を横から支えるように、二本の刃が短く孤を描き、鍔となっていた――、それを掲げる。
黒い太刀が唸りを上げて打ち下ろされる。不動明王の掲げた――構えてさえいない――直剣目がけて。
「……!」
かすみが目をつむりかけた、そのとき。
斬られていった、端から、端から――直剣ではなく不動明王ではなく、斬りつけた黒い太刀の方が。
直剣の刃に触れた端から、端から。逆にその黒い刀身を斬られていった。まるで融けかけたバターが切られるように、滑らかに。
「え……」
かすみが声を上げる間にも、毘沙門天はその腕を振り切り。刀身の全てを斬られ、空振ったように体勢を崩し、前のめりに倒れていた。重い音を立てて。
根元から裂かれた黒い太刀はその輪郭を失い、解きほぐされたように黒いもやへと還り。薄れて、見えなくなった。
不動明王が声もなく、露でも払うように剣を振るう。空を斬る音と共に、彼に代わって気勢を上げるかのように。後光のように背負った炎が、音を立てて燃え上がった。
それでも至寂は表情を変えず、言葉を続けた。
「――速やかに無漏の覚城へ入ること疑いなし。――さて」
掲げていた杖を下ろし、辺りを――かすみを、帝釈天を、毘沙門天を、全員を――見回した。穏やかに言う。
「拙僧の結縁せし守護仏、大日大聖不動明王が力、【不動倶利迦羅九徹剣】……それは一切の『業を断ち斬る』力。そして全ての怪仏は、業によって生み出されしもの」
杖を脇へ抱えて合掌し、頭を下げる。
「故に拙僧の――いやいや、我が守護仏の力こそが。最強、なのです……恐縮です」