親友と夫との裏切りに憎悪する輝美さんの心を多恵さんは救えるのか?
中川教授夫妻の銀婚式パーテーから一月も経たない頃、その教授夫人、久美子さんから多恵さんに電話があった。
「ね、河原崎多恵画伯、あなた、人物画はお描きにならないの?」と言う内容。
「人物画・・・昔、大昔、漫画家を志して毎日毎日人物画の練習に明け暮れていた日もあったけど、今は人間より、自然、それも緑成す木々や山々に心奪われる毎日です。でも、勿論、背景としてそこに人物が必要となれば話しは別ですけど」
フフと久美子さんは笑った。
「背景では少し困るけど、わたしの古い知り合いの医師で、そのお嬢さんを描いて欲しいのよ。でも本人は2年前に亡くなっているの。元々腎臓が悪かった上、色々心労があって肝臓まで悪くなって・・とても可哀想だったわ。子供が二人いて、男の子と女の子,山根夫妻が引き取ってと言うか元々一緒に住んでいたから、そのまま育てているのよ。このまま育てて行きたいのだけど、その父親とは離婚はしてなかったから親権は向こうにあるの。中々難しい問題よねよねえ。でも悪いのはその父親の方だから、彼も強くは子供を渡せとは言えないの」
「そうですか、複雑な事情のあるご家庭なんですね。だけど一番心配なのはお子さんの心だわ。まだお小さいんですか、その子達」
「亡くなった時が5歳と3歳だったから今は7歳と5歳ね。お嬢さんも心残りだったと思うわ」
「それでどうしてそのお嬢さんの画を描いて欲しいと思われたのかしら?」
「まあ、二人とも画が好きなのと、あなたの画を我が家で見て、この人の画だったら娘も浮かばれると思ったらしわ。浮かばれるって変な言い方だけど」
「いいえ、そんなに変じゃありません。一種のストレスによる病気でお亡くなりになったんですから、ご両親からすれば、せめて死後の世界にあっては心安らかにいて欲しい、と思われてそうおしゃったんです、だから、浮かばれるって言い得てます」
「そうね、屹度そうね。じゃあ、二人の思いを汲み取ってくれたんだから、描いてくれるの承知したって事で良いかしら」
もう長い事人物は描いてない。真理が生まれて2,3歳に成る頃まで、時々デッサン程度に描いている程度だから、少し不安。
次の土曜日、11月ももう下旬に近づく頃、中川夫人に伴われて、同じ世田谷区にある山根宅を訪れた。門を少し入った所に枝振りの良い一本の紅葉がチラホラ紅葉し始めていて、その家の素敵なアクセントとなっていた。
土曜日なので当然子供たちも居て賑やかだ。先ずはご霊前にと久美子さん、多恵さん、夫々手土産を渡す。久美子さんは世田谷では有名な洋菓子店のケーキ、多恵さんは月見区では有名な煎餅店の手焼き煎餅を持参。ま、医師であれば貰い物は日常茶飯事、気は心と言う所か。仏壇に線香を上げさせてもらう。確かに彼女の気配はこの家に入った時から感じている、でも彼女はここには居ない、この内の何処かに潜んでいるのだろう。そう言えば、この家、少し肌寒い。
山根夫妻は共に医師だが、奥さんの方はリタイヤして孫の面倒を一手に引き受けているらしい。絶対に婿に孫を引き渡さないと言う意思表示でもある。
多恵さんそっと周りを見回した。居た居た、本人が居た。画のモデルを務めるとあって、大分緊張している様子。彼女に向かって、気付かれないようにちょっとだけ微笑みかける。彼女、吃驚して多恵さんを繁々と見つめ返し、ほんの少しだけ笑顔を見せる。だが笑う彼女の顔色は凄く悪い、土気色と言う言葉がピッタリと当てはまる。
ご主人の方が娘のアルバムを3、4冊ほど持ってくる。夫人の方は久美子さんが持参したケーキを仏壇から下ろし、先ずは子供たちに配り、紅茶と共に我々の前にそのケーキを運んで来た。
「あらあら、それは娘の高校の時のアルバムですよ。これは大学の時のアルバム。あっこれもだわ。社会に出てからはあんまり写真も撮らず、子供が出来てからは子供の写真ばかり。それにこの頃ではデジカメやスマホでばかり。まあ、精々このアルバムに写ってるのが、今に近いですね。それも大分前で若いですが、まあ本人にしたら少しくらい若い方が嬉しいでしょうから」
チラリと多恵さん、娘さんの方を見やる。矢張り若い方が良いらしい、盛んに頷いている。
「ではそうしましょう。ちょっと失礼して、アルバムの中からこれはと思う物を探させて下さい。出来るだけ明るくて溌剌とした写真を、それもごく自然に写ったものが良いですね」
アルバムを捲り始めると、横に本人も来て座り込んだ。本人も一緒に探す積りらしい。
彼女が推薦する奴2枚と多恵さんが良いと思うもの3枚を選び出した。
「あのう、お嬢さんのお名前をお聞きしても宜しいでしょうか?矢張りお名前を知ってた方が親しみも湧きますし、描いてる画への愛情も違いますので」
「あ、済みません。描いてもらう方に神経が行って名前を言うのを忘れてました。輝美と言います」
山根夫人が答えた。
「まあ素晴しい名前。輝くと云う字に美しいと云う字ですよね」
両親が答える前に本人が嬉しそうに頷いた。
「あんまり輝かしい人生ではありませんでしたが、本人にしてみたら一生懸命生き抜いたと思います」
輝美さん、少し悲しそう。
「そうですね、只管頑張って生きる事こそ人生の勲章ですもの。輝美さんは矢張り輝いていたんだと思います。わたしも出来る限り、輝美さんの輝いている姿、生き生きと活動している姿を感じ取って描かせていただきます」
輝美さん、少し笑顔を取り戻す。
「良かったわ、あなたに頼んで。ねえあなたもそう思うでしょう?」
「うんそうだな、期待してますよ。あなたの描く画、中川さんの玄関に有ったのも心を打たれたし、久美子さんから見せてもらったデッサンの画集も魅力あふれる物ばかりだった。是非旭岳の豪快な紅葉の画も一枚欲しいと思っているんだが・・」
「はい、ありがとうございます。今製作中なので出来上がったら、写真にとってお送りします。気に入ったらご連絡下さいませ。勿論お嬢様の画が先でございますが」多恵さんニッコリ笑う。
山根宅を後にした。
山根夫婦と久美子さんの関係は、同じ病院に勤務していたと言う間柄だ。久美子さんが随分年下の男性と結婚した後もアレコレ心配してくれていたが、この秋晴れて銀婚式と云う場で夫である俊彦氏が妻久美子さんを公にした事でホッと一安心。それを祝いに中川家を訪れ、多恵さんの画を発見したと言う次第だ。
久美子さんがその輝美さんの背景にある複雑な経緯も説明してくれた。
「輝美さんはごく普通の会社の事務職をしてたのよ。勿論ご夫妻は勤めている病院の方に勤めて欲しかったらしいけど、彼女としたらもっと世界を広げたい、病院に関係のない世界を知りたいという願いがあって、あえて関係のない会社を選んだらしいの。だけど年頃になって両親は矢張り医者と結婚させたいと思い、中々の切れ者で上からの信頼も厚く、外見的にも所謂クールな男である橋本という男性に白羽の矢を立てたの。輝美さんは一目で気に入りあっという間に結婚。子供も出来て幸せの絶頂期。久美子さんには大学時代からの友人も沢山いて、みんな遊びに来る。旦那さんは医者である上にこれまた格好良いと来ている。みんなから羨ましがられるまでは良かったんだけど・・・その中でも一番仲の良かった友達と彼が抜き差しならぬ仲になってしまったの。相手にも子供が出来たらしく、終に彼は家に戻らなくなってしまったの。そこで彼女、両親の所に戻り、子供を保育園などに預けて働き出した。ご夫婦は子供が大きくなるまで働かないでいたらと勧めたらしいけど、輝美さんにも意地が有って元の会社に再就職し、只管働いたらしい。でも元々腎不全を起こしたりしていたのが、子供を生んで益々腎臓が弱り、心労とそれを忘れたいという理由から、ハードに仕事をしまくったのが祟って今度は肝臓を痛め、それでもわき腹を押さえながら仕事をし、堪りかねた両親が強制的に入院させたけど・・でも助からなかったの」
「そうですか、一番有って欲しくないご主人の裏切りですよね。でもわたし、明るく輝く輝美さんを描くわ。そして、この世の恨みを忘れて、子供やご両親の健康と安寧を見守っていて欲しい」
「ウフフ、聞こえていると良いわね、あなたの言う声」
「ええ、屹度聞こえてますよ、ねえ輝美さん」
後ろを振り返ると多恵さん達の後を付いて来ていた輝美さんと目が合った。彼女、こくんと頷く。
「ほーら、彼女頷きましたよ」
「やだ、多恵さん、冗談は止して、何だか背中が寒くなっちゃった」
「少し風が冷たくなりましたからね。ハハハ」
中川夫人と別れてマガタマ市の我が家へ向かう。
マンションの入り口の前で彼女と向き合う。見ている人は居ないようだ。
「はい、輝美さん、ご苦労さまでした。あなたとうとう此処まで付いてきたのね。でも此処から先は駄目よ、わたしの夫も娘もわたしがこんな能力が有るなんて全然知らないの。それにあなたがうろうろしてると部屋の温度が下がちゃう。暖房費が嵩むでしょう。あなたの世田谷の家だってそうよ、あなたが子供が愛しくて仕様が無いのは分るけど、あなたの恨みのエネルギーが消えてなくなるまで出来るだけ仏壇の中に潜んでいて欲しいわ。屹度子供たち、あなたの所為で人より寒い思いをしているのよ」
「あ、あのう、わたし、久々に人と話せて嬉しいです。で、でもう、恨みのエネルギーが消えるまでと言われますが、この恨みは中々消える事はないと思います」
「それはそうねえ、でも子供たちやご両親が冷えるのは間違いないのだから、仏壇から出るのを最小限にしたらどうかしら」
「ははい、そうします。でもう、わたし、もっとお話がしたいです。もっとあなたと話をしたら、そしたら少しは恨むという気持ちが楽になるような気がするんです」
そうだった。多恵さんは思い出した。蕎麦屋の石森氏も良介君も生きてる人間に話を聞いてもらう事で随分楽になれたと言っていた。
「分ったわ、でも今日は駄目。来週の水曜日が良いわ。水曜日のお昼でどう?あなたの画の準備もあるけど、今取り掛かってる画をかたずけなくちゃいけないの。それ火曜日までに何とか目鼻がつきそうだから
お昼の2時頃だったら、多分誰もいないと思うわ。まあ居てもあなたの姿は見えないけどね」
「ではそれまで家の仏壇の中にこもってます」
少し嬉しそうな笑顔を見せて輝美さんは消えて行った。
そこで思い出した、輝美と言う名前。何処かで聞いた名前、一度良介君から聞いた名前だ。そう、良介君の幼馴染の娘で、彼が死んで自分の母親と同じくらい泣いてくれたと、彼は言ってたっけ。
うーん今頃あの二人、北海道で何をしているやら。
「あら、島田さん、こんな所で立ち止まってどうしたの。鍵でも失くしたの」
これはこれは藤井夫人、まさか幽霊との立ち話を聞かれたのではないでしょうね。
「ううん、ちょっと複雑な用件を頼まれたもので、少し考えをまとめていたの」
「そう、何だか話し声がしたので、お客さんかなと開けてみたんだけど、そうじゃなかったのね」
ヤレヤレ、危ないとこだった。
「御免なさい。独り言で騒がせちゃたわね。さあ、お家に入らなくちゃ、ではこれで失礼しますね」
多恵さん、ほうほうの体で藤井さんの手から逃げ出した。
「危ない所だったわ」ドアを閉めて胸撫で下ろす多恵さん。
「どうしたんだい」と心配して大樹さんまでも出てきた。
「ううん、何でもないの、ちょっと複雑な問題があって、ぶつぶつ一人語と言ってたら藤井さんが心配して出てきただけ」
「そう、それなら良いけど、変な奴に追いかけられたんじゃないかと思ったんだ。この頃そんなの良くあるから。あ、でも多恵さんなら大丈夫だよなあ、武道の達人を知らないで、襲ってくる奴が可哀想な位だ。ハハハ」
水曜日2時ピッタリに輝美さんは姿を現した。
「時間どうり。几帳面なのね、あなた」
「ええ、昔から几帳面なんです。でもあんまり几帳面すぎたのが誠さんには良くなかったらしいです。ああ、誠って夫の名前です。元夫と言うべきなんでしょうね。死んでしまったから、幾ら離婚したくなかったと言っても、それは通りませんでしょうから」
「そうねえ、でも几帳面って本当は長所なんだけど・・わたしは全然、見れば分るでしょう、思いついたことからと言うか、興味の有るものからやっていくから、後からあっあれは何処へやったのかしらとか、いけないスッカリ忘れていたとか困る事ばかり。だからとても几帳面なあなたが羨ましいわ」
「わたし、両親が働いていたでしょう。だから小さい時から何でも一人でやらなきゃいけなかったんで、几帳面に成らざるを得なかったんです」
「わたしの家も途中から共働き、と言っても、自分の家で薬屋を開いていたんだけど。でも自分の家で店をやってると保育所、中々入れてもらえないから、生まれて間もない弟は大人しい事もあって何時も放ッたらかし、お蔭で3歳ぐらいまで殆ど言葉を話さなかったわ」
「人って色々苦労が有るんですね」
「苦労したのはわたしでなくて母だけど。実を言うと弟はそれ以外にも酷い喘息だったし、脱腸もあって手術や入院を繰り返し、おまけに紙おむつがまだ普及していない頃だから、ウンチの付いたオムツが山のようにあってそりゃ大変。でも母にして見れば病持ちの弟は、途中から始めた漢方治療の良い研究材料になっていたんだ。そうそう弟が小学校の頃、母が三日間、漢方の勉強しに出かけてる時、自転車で崖から落ちて鎖骨を折る怪我をしたことがあったんだけど、その時も、初めは吃驚してたようだけど、直ぐに、丁度骨折について勉強して来た所だけど、骨折で漢方相談する人はいないからそれを生かす手立てはないなと諦めていたのが、これで勉強した事が試せると、息子よ天晴れ、と心の中ではきっと万歳していたんだとわたしは思う」
「何でもプラス思考ですね。凄いお母様」
「そうよ、辛い事をズーとマイナスに考えていちゃ前に進めないわ。生きる事は本当は辛い事、苦しい事が一杯だから、それを何とかプラスに考えなくてはいけない。でも言う事は易しいけど、行うは難しよねえ。自分の不注意に寄って人を傷付けてしまったなんて、小さい傷ならまだしも、取り返しのつかない怪我とかは幾らプラス思考と言っても、それはちょっと無理なような気がするわ」
「死ぬまでズーと、心の晴れる日は無いでしょうね、きっと」
「あなたの夫である誠さんも、あなたが亡くなりその埋め合わせをする事が出来なくて、屹度人には言えぬ苦しみに苛まれて居らしゃると思うわ。あなたは恨み骨髄までと言う所でしょうが、彼は彼なりに後悔していらしゃる筈。そう考えない?」
「え、あの人が・・・そんな事思いもしなかったわ。毎日、優子と子供を挟んで楽しく暮らしているのよ。あの人がわたしの子達を引き取りたいという申し出は、一種の格好付け。本心はわたしの両親に押し付けたい、二人が育てて呉れればそれが一番、それだけなの。そんな誠さんが後悔して苦しんでいるだなんて、とてもとても信じられない。彼が思っているのは、わたしが死んでくれて本とに良かった、助かったというそれだけ」
「そう、それだけなんだ。確かにあなたが亡くなって優子さんと、彼女の名前なのね、無事結婚出来たし
相手の子供の正式な父親にもなれた、ヤレヤレとは思ったでしょうね。でも本当に心の奥底から万歳と叫んだかしら。優子さん共々深い闇を感じたでしょうよ、人間なんですもの」
「精々感じれば良いわ.わたしがどんなに人生の皮肉さと、友情のもろさに傷ついて泣いたか、人生の闇なんてもんじゃなかったわ」
「友達だったんだものね、優子さんとは」
「ええ、高校から大学までズーと一緒、親友と思えばこそ結婚してからも、我が家の食事や子供の誕生会、クリスマス等々に招いていたのに、酷い、酷いわ」
うーむ輝美さんの怒りがヒートアップ。こりゃ、いけない。
立ち上がってベランダ越しに六色沼を見つめた。大分紅葉、黄葉も此処2,3日で進んだようだ。沼は今日は風がなく、静かに青空と晩秋色をした雲を映している。
「此処って素晴しい景色。良い所にお住まいなんですね」
「ええ、絵描きな者で少し贅沢かなあとは思わないでもなかったけど、無理して買っちゃたの」
「御主人はどんな仕事をなさっているの?お金持ちか、それとも奥様思いの旦那様なのね、屹度」
「哲学科の助教授、競争相手が少ない職業なもんで。お金には全然縁の無い人、それに恋にも全く無頓着な人で、それよりか本を読んでた方が増し、という人なの」
「嘘でしょう、屹度あなたを好きで好きで、あなたの心を引き止める為に、このマンションを買ったのよ。あなたを見て恋しない男性って居ないはずだわ」
「フフ、ありがとう。でも彼は最初はわたしでなくてわたしの画に恋したのよ、これ本当」
「素敵な画ですものね。アッこれ青い池でしょう、わたしも行って見たかったなあ」
彼女、そこにあったスケッチの絵を見つけた。
「此処ねえ、実の所、風が強くて中々描くの難しいと思っていたら・・」
「思っていたら、急に風が止んで画が描ける様になった」
「そうなんだけれど、わたしの協力者たちのお陰なの」
「ええっ、そんな神様みたいなお友達が居るんですか」
「フフフフ、残念ながら神様じゃないの、むしろ反対かなあ」
「じゃじゃあ、悪魔じゃないですよねえ?でもそんな力の有るものだったら矢張り悪魔かな」
「違う違う、あなたとご同業、知り合いの幽霊さん達なの。少し徳を積んだから、そう云う事も出来るように成ったらしいわ」
「羨ましい!わたしも徳を積んでそんな力持ちたい。どんな徳を積んだのかしら?」
「本とはもっと複雑なんだけど、かいつまんで話すと、あなたと反対に奥さんが若い男性と恋仲になり、アル中になって死んだ蕎麦屋の旦那が、恨みを水に流して、矢張り色んな事情のある幽霊さん達と協力して、その男性と元奥さんが経営する店が繁盛するように力を貸して上げたからだと思う。わたしに画が描けるようにしてくれたのは、その蕎麦屋さんじゃなくて、その力を合わせた方だけど」
「ふうんアル中になって死んだ蕎麦屋の旦那さんが、恨みを水に流してかあ・・駄目駄目、わたしには出来ない。このまま仏壇の中からしか子供を見る事が出来なくても、矢張り、恨みは恨みとしてわたしの心の中に存在するわ」
「それは仕方の無い事よ、その蕎麦屋の旦那だって心の奥には恨みは残っていると思う。でもそれでも残された子供達のために、その男に力を貸そうと言う気持ちになったのは矢張り立派だと思う」
「そりゃ子供達の為なら頑張れるわ、今までだって付きっ切りで側に張り付いていたもの。でもあなたは
子供達の体が冷えると言う。どうすれば良い訳」
輝美さん少しむくれている。
「張り付いているのが子供の為になっているのかしら?子供達の気持ちなって考えてあげて。幾ら自分達の母親を裏切った父親でも少しは未練が有ると思うのよ、時々は会えるようにして上げたら。多分今まで会いたいという誠さんの申し出を、あなたのお母さんと一緒になって妨害してきたと思うの。せめてこれからはあなたはお母さんと一緒になって妨害しない事。このまま月日が経ってしまえば、何年も会わないことで彼の心の中から、あなた達の子供への愛情が薄れて行き、終には消えてしまう。それでは子供達が可哀想過ぎるわ。お願い、彼が子供達に会いたがってるのは、それはまだあなたへの愛情が少しは残っている証拠だと言う事を分って上げて」
まだまだ彼女、納得はしていないようだ。だがそろそろ真理ちゃんが学校から帰って来る頃、今日はこの辺でお引取り願おう。
「今日のところは此処までにしておきましょう。そろそろ画も描かなくちゃいけないし、不満は一度には溶けて行かないわ。あなたもご仏壇の中に戻って、良-く考えて欲しい。又2週間後に合いましょう」
彼女は再び寂しそうな笑みを浮かべると、大人しく消えて行った。
今年も早い物でもう12月。でもビーナスラインや北海道に行けたお陰で、沢山の収穫もあり、中川夫妻の仲介で画もボツボツ注文も入るようになってラッキーな年だった。来年も又今年のような幸運に恵まれるように祈ろう。
あれからも彼女はやって来ては、子供達や両親の話をする。一寸した井戸端会議みたいなもんだ。でもそれで彼女の心の闇が少しでも晴れればと、多恵さんは厭わない。
「良いお子さん達みたいね。しっかりしてるわ、二人とも。まだ甘えたい年頃に母親を失い、父親にも会えないなんて、どんなに辛いか計り知れないというのに、明るく元気に振舞っていて涙が出るくらいよ。
多分、祖父母であるご両親の愛があるからでしょうね。それとも二人はとても賢くて、顔や態度に寂しいとか悲しいとか見せちゃいけないと思っているためかしら」
「父親に会えないのがそんなに寂しいかしら?」
「だって、それまで一緒にクリスマスや誕生日会を祝っていたんでしょう」
「今だってわたしの両親が祝ってるわ、子供の友達も呼んで」
「でも、この間まで祝ってくれていた父親が居ない、自分達はもう父親に忘れられた存在なんだと心の中で考えているかも知れない」
「そ、そうかなあ。でも実際子供の事を大事に思っていたら、浮気なんかしなかったはず。そう思うと、どうしても子供をあいつには会わせられないわ」
「恋に落ち入る時って、確かに子供の事が頭を掠めるかも知れないけど、本能に負けちゃうのよ。そして熱が少しさめた所で、はっと気付くわけ。でも相手にも子供が出来てどうしようもなくズルズルと今に至ってるのね。あなたの死亡と言うハプニングがあって、一応誠さんの方の悩みは無くなった訳だけど」
「わたしがもし死ななかったらどうしたんだろ。絶対にわたしは離婚には応じない積りだったんだから」
「うーん、難しい問題ね。そのまま行くしかないでしょうね、あなたの心が揺らぐまでかしら。でも今はその状況の事実から離婚が成立するケースもあるというから、そんなには頑張れないかも知れない」
「何て事なの、夫が悪いのに。あ、反対の事もあるのね。兎も角相手が悪いのに離婚が成立するなんて」
「でもそれなりの慰謝料は払わなくてはならないでしょうよ」
それでも輝美さんは納得できない風だったが、お喋りする事で大分恨みの重量が減じたのか、初めて出会った頃の土気色の顔色が薄れてきた。
「あなたに前話した知り合いの幽霊さん達、二人は今訳有って北海道にいるんだけど、何とか連絡取ってあなたに引き合わせてあげたいわ、一人はわたしの生前からの知り合い、もう一人は少し若くてその友人の友達なの。あ、写真があったわ」
多恵さん、ガサゴソ長野に行った時の写真を引っ張り出して、一番下の方に押し込んだ例の霧の中で出会ったと誤魔化した三人が写る心霊写真を引っ張り出した。
「まだ写ってるかな?大丈夫、あら前より鮮明になってるみたい、なんて気の所為よね、ハハハ。ほら、この真ん中がわたしの生前からの知り合いで、こっちが元蕎麦屋の旦那、こっちが会社員で失恋して酔っ払って車に轢かれた良介君」
輝美さん覗き込む。
「この失恋して酔っ払って車に轢かれた男の人、とても大人しそうですね。何だか寂しそう」
「でも、どちらかと言うとこの蕎麦屋の旦那の方があなたの事情に近いわね、子供も二人、奥さんの浮気とか、肝臓壊したとこまで一緒」
「でも、この人、奥さんを許したんでしょう。わたしは絶対に許さないもん」
「分った分った。わたしが引き合わせたいのは蕎麦屋さんでなくて、他の二人なの。わたしの生前からの知り合い、杉山君て云うんだけど、躁鬱病で今は躁期と言ってもわたしは躁期の彼しか知らないけど、死後も明るく元気一杯、なんて変よね、もう死んでるのに。兎も角明るいの、幽霊にしとくのが勿体無いような人なの。だから、良介君も彼から離れられないのね。あなたも彼に会えば少しは明るくなるかもしれないわ」
「ええ、わたしも友達が欲しいわ。一人で仏壇の中に篭っているのって退屈で恨みが増すばかりだわ。早くその人達に会わせて下さい」
「こうしてね、写真に向かって呼びかけるの、杉山くーん。多分これで大丈夫よ。ほら杉山君が手を振ったわ」
「ええっ、本と、彼が手を振ってる」
「あ、杉山君、今出てきちゃ駄目よ。後で、出てきて欲しいときに呼ぶから。もう少しの間良介君と雪に埋もれていて頂だい。今は本とにこの写真であなたと連絡が取れるかどうか試してみただけなんだから」
「わ、わたし、今すぐに会いたいです。駄目でしょうか」
「うーん、今は駄目。彼、出てくると中々側から離れないの。もう直ぐお正月だし、彼がいると鬱陶しいし、ややこしくなるから、そうねえあなたの画が完成する少し前、1月の末辺りまで待ってて頂だい」
「後一月も待つんですか」
輝美さんむくれる。
「それにあなた自身も1月末まで我が家への出入り禁止」
益々輝美さんむくれる。でも最後には諦めて自分の居場所に帰って行った
2020年の年が明けた。今年はそう東京五輪の年。日本中が沸き立っていた、多分。スポーツ好きな人も、そうでない人も。ホテル、旅館、食べ物や飲み物の関係者、観光に携わる人達、等々、皆腕まくりして待っていた年が明けたのだ。その人達には冬枯れの木々さえ輝いて見えているに違い無い。
多恵さんは何時ものように正月料理を作り、近くの月調神社にお参りし、挨拶回りや遠くには電話で連絡をして、忙しい5,6日をやり過ごすと、やっと絵筆を取り、キャンバスと向かう事が許された。
先ずは旭岳を描こう。噴煙たなびく旭岳は新年に相応しく凛々しく雄大だから、描いてる多恵さんにも今年も頑張るぞ、遣ってやるぞと言う気持ちがむくむくと体の中から湧き上がって来る。
次に青い池、この青さ、人を惹きつけないでは置かない色。わたしも負けずにあの色を出したい、この情景、この空気感、空も後ろの森もこの青さの為に有る。日々格闘した、多分寝ている時も夢の中で多恵さんはいろんな色を重ねたり削ったりした。
勿論その間に輝美さんの絵にも挑戦していた。遠くに林や森が見える野原で笑っている輝美さんが一番自然で、楽しそうで幸福に包まれているように見える。これに彼女が選んだ、彼女自身が一番気に入ってる容貌を取り入れて描いてみたい。
彼女の大体のデッサン画が出来上がる。本当は体全体の絵にしたいと思ったが、それじゃどちらかと言うと、上半身の画を希望しているであろうご両親は納得されないだろうと、膝より少し上の所までとする。
写真では花を摘んで手に持ち、きちんと前を見て写っているが、多恵さんは彼女が笑いながらその
花に手を伸ばしているポーズが好きだし、そのほうが生き生きしていると感じる。
一月の最終火曜日、几帳面な彼女は几帳面に現われた。
「わたし待ちくたびれました」出て来るなり彼女が言う。
「まだ少し早かったみたいだけど。うーん、そうだ、あなた、モデル勤めなさいよ。ほら此処が花が咲いてる野原だと思いなさい。それからその花を摘もうと手を伸ばしてるとこ。自然に自然によ」
「ええっ、わたし、画のモデルなんてやったことないわ、勤まるかしら」
「大丈夫、生きてる人間はじっとしているのって疲れるし、痺れも起こる。でも幽霊さんは全然そういったことには無関係、平気でしょう。モデルさん向きに出来てんのよ。只、生気が無いのが欠点なんだなあ。でもあなた、前より少し顔色良くなったんじゃない?そう思わないあなた自身」
「あ、はい。そう言われれば何となく気分も前より良くなりました。少しですけど気が楽になって、気持ち的に余裕が出てきました。やっぱり生きてる人に話すって幽霊にとっては大切な事なんですね」
「うーん、生きてる人間にして見れば、あんまりありがたくないことだけど。体は冷えるし、どちらかと言うと気分もめげる。でも時には役に立つ事もある。ささ、モデル、モデル。早く描いて仕上げて、あなたのご両親に届けてあげたいわ」
「あのー、先生のお友達の幽霊さん達には何時会えるのでしょうか?」
「え、あ、そうね、あいつら煩いから。と言っても煩いのは、知り合いの方だけなんだ。兎も角今は早く描きましょう、それからよ、あいつに連絡するのは」
嬉しそうな彼女。これで益々画のモデルに近づいたかも。
うーん、でも少し格好がぎこちないし、表情も硬い。
「あー、も少しリラックスした感じ。あなた、この頃運動不足でしょう?体、こわばってるわ」
「それはそうですよ、子供に悪い影響を与えるから仏壇に篭っているように言われたから、じっとしてたんです。その前だって精々、学校で苛められていないか心配で子供にくっ付いて一緒に登校したり、下校したりする位でしたけど。幽霊も運動しなくちゃいけないのですか?」
「まあ、普通に幽霊してる分には殆ど必要ないと思うけど、矢張りモデルをやるからには、それなりに機敏さや優雅さが要求されるのよ。と言っても幽霊さんをモデルにする画家なんてね・・・円山応挙先生みたいに有名な方も居らしゃるけど。まあ、そうはいないわよねえ」
「はあ、円山応挙先生ですか・・大家ですよね」彼女、多恵さんをじろじろ眺める。
「わたしはとてもとても及ばないと思って眺めてる訳?」
「は、まあ。いいえ、いいえ。画風が違いますから、一概に比較は出来ません」
「良いのよ、向こうは歴史に名を残す大家、わたしは日本の片隅で必死で暮らす貧乏画家」
「貧乏画家では有りませんよ、こんな素敵な所に住んでいて」
「これはパトロンのお陰、つまりわたしの夫のお陰なの。そうでなくちゃこんな所には住めないわ。それにそのローンが山程残ってて大変なの。そんな話より、あなた、少し準備体操が必要ね。わたしと一緒にラジオ体操でもしましょう」
多恵さんと輝美さん、二人は仲良く体操を始める。
「まあ、直ぐには無理だから、毎日続けて、わたしの画のモデルさんに相応しい動きが出来るようになって頂だい。今日は体操は此処まで、早く画の方に取り掛かりましょう。わたしの画の中のあなたは明るくて、若々しくて幸せ一杯なのよ。だから、あなたもわたしの前では出来る限り笑顔で居て欲しいわ。時には声を挙げて笑っても良いのよ」
「わたし、もう生きてる時から何年も声を出して笑ってないわ」
輝美さんは又寂しそうな顔に戻る。
「ほーら、又そんな顔して。笑って、笑って。そんな顔してたらわたしの友達紹介しないぞ」
そう云うとやっと笑顔に戻る輝美さん。彼女は心の素直な人なんだ。
その日の日程が終わりに近づいた。
多恵さん、何かを感じた。まだ呼んでもないのにあいつらの気配。しかも禁制にしている筈の多恵さんの部屋にだ。
「居るんでしょう、あなた達」そう言うとニヤニヤ笑う杉山君と少し遠慮がちに笑みを浮かべた良介君が目の前に現われた。
「もうどうして呼び出す前からうろうろしてるのよ.人の家に呼ばれる前に入り込むなんて失礼な人達」
「ヘヘヘ、済みません。この間からこの日が来るのを待って待って、待ち焦がれていた物ですから。イヤーお久しぶりです、河原崎さん。此処があなたのアトリエなんですね。ここに呼んでもらえるなんて感無量だなあ、良介」
「はい、又お目にかかれて嬉しいです」
「まだ北海道から4ケ月しか経っていないのよ。そうそう北海道の彼女はどうなったの?」
「あ、彼女ねえ、彼女は元気にやってますよ。良介の出る幕無し。新しい男なんかも現われて、これから恋に発展しそう。だから、この所良介元気なくしていた所、思いもかけぬ河原崎さんからのお声かけ、北海道にも雪にもそろそろ秋田の風が吹く。渡りに船とこの日を待ち侘びたわけです。でも中々番が周ってこない、うろうろするしかないですよね」
「そうか、香山さん、元気になったのね。しかも新しい恋の予感。人生前向きに生きていれば新しい道は自ずと開けていく物なのね。良かった、良かった」
「で、この新入りの幽霊さんはどなたですか、しかも女性ときてる」
「あーら、わたしは別に男の幽霊が好きな訳ではないのよ。偶々あなたが男で、あなたが男の幽霊を引き連れてわたしの目の前に現われたんじゃないの」
「そうでした、そうでした。俺どちらかと言うと女性は苦手で、どう接すればいいのか分らないんです。死んだからこそ、こうしてズーズーしくも、平気で河原崎さんと話してますが、本心は河原崎さんに嫌われたらどうしようかとビクビクなんです」
「まあそんな事はどうでもいいわ。この人,ええっと旧姓山根輝美さん、まだ離婚する前に死亡したから橋本輝美さんて言うの、これから宜しくね。亡くなってもう2,3年経つのだけど、子供達の事が気になって、子供にどちらかと言うと取り付いていたのね。だから死後の世界には全く不案内。そこであなた達に幽霊としての心構えや、あの世へ旅立つにはどうしたら良いのかとか、はたまた子供達の守護霊になる為にはどうしたら良いのかとか教えて欲しいの」
「あなた、輝美という名前なんですか?」
矢張り輝美という名前に良介君が反応してきた。
「え、そうです。平凡な名前ですよ、輝美って」
「まあ、いや、とても綺麗な名前ですよ、輝美って。この世を照らし輝かせる美しさですから」
「そんなに言ってもらったの、初めてだわ。嬉しい!」
「ふーん、二人とも息ぴったりだなあ。良介のこんな積極的な言動、始めて見たよ」
良い所だがもう直ぐ真理ちゃんのお帰りの時間が迫っている。
「あなた達、悪いけど、これから先は別の所で話をしてくれないかな?もう直ぐ娘が学校から帰って来るの。話の続きは来週きくわ」
彼等は未練を残しながら消えて行った。屹度どこかで落ち合って杉山君の音頭取りで盛り上がっていることだろう。
次の週もその次ぎの週も彼等は団体でやって来た。益々輝美さんの顔色が良くなって行く。勿論、ぎこちなさを消す為に、4人でラジオ体操も続けている。
お陰で画は順調に描き進んだ。
次の週、現われた3人に告げる。
「ありがとう、お陰でイメージ通りの輝美さんが出来上がりそうよ。あと少しで完成。あなたのご両親の元へ届けなくちゃね。輝美さん自身もこの絵の中の輝美さんのようにスッカリ明るくなたと思うのよ、どう?」
「ええ、まだ少し恨みの気持ちはありますが、この二人と居たら忘れて過ごせそうです。でも画が終わるとわたしも先生とさよならしなくてはいけないし、そしたらこの二人ともお別れしなくてはいけないんでしょう」
「大丈夫ですよ。僕達此処以外でも、何処でだって、何時だって会えるんですよ、て、輝美さんが会いたいと思えば。ねえ杉山さん」
「ええ、いつでも会えます。俺達幽霊は自由なんです。恨みを忘れて恋しても良いんですよ。こいつもこの間まで生きてる人間に恋してたんですから」
「あ、あれは、あの人がとても寂しそうに見えたから、元気になるまで見守ってあげようとしてただけですよ」
「優しいんですね、良介さんて」
「生きてる時に酷い目に合ったからなあ、良介は」
「もう忘れましたよ、杉山さんや河原崎さんのお陰で。恨みが無くなったら気分もスッキリ、心も明るく、何をやっても楽しいです」
「羨ましい。そうやって徳を積み重ねたら立派な守護霊に慣れるのね。わたしもあんな人の事スッカリ忘れて、徳を積んであの子達のために早く守護霊になりたいわ」
「じゃあ、今度3月になっても少し温かくなったら、熊野詣ででも一緒に出かけましょうか?あそこは宗教も問わず、人の悩み、恨み、罪悪を洗い流し、願いを聞いて下さる所と聞いた事があるわ。そしたら、あなたの根深い恨みも消えるかも知れない」
「わあ、今度は河原崎さんから誘ってくれるんですか、こりゃ、嬉しい限りですね」
「わたしも嬉しいわ。幽霊になって以来旅行なんて考えた事も無かったし、誰も誘ってくれなかった。幽霊って本とに自由なんですね」
「その為にも早く画を仕上げなくちゃいけないわ」
しかしその頃、新型ウイルスコロナとか云う物が中国で猛威を奮い、日本にもじわじわ押し寄せようとしていた。その後このコロナによって世界全体が打ちのめされてしまうとは、まだ殆どの人が気付いていなかった。
2月の末に、完成した画を携え世田谷の山根宅を訪れた。
何時もの通り、包みを開け「どうぞお確かめください」と二人の前に置いた。
二人は互いに顔を見合わせてから、箱を開け、薄紙を捲る。
「まあ」「おお」同時に声が漏れる。
「あの子が、輝美が生き返って来たみたい」
「元気な時の輝美だ。明るくて人を疑わない時の幸せな時の輝美だ」
多恵さん、またそっと周りを確かめる。居た居た、今度は笑っている輝美さんだ。多恵さんも彼女に微笑み返しをする。
「何だか、輝美さんがわたしに力を与えて下さってるようでした。屹度、多分、ご主人への恨みは消えかかって居らしゃると感じました。差し出がましいとは思いますが、出来たらお子様のために1年に1度くらいはお父様である橋本氏に会わせて上げて下さいませ。子供はどんな父親であれ、矢張り父親、心のそこでは時には会いたいと思っていられると思います。どうかお願いします、輝美さんの言葉だと思って」
オッカナビックリの気持ちで多恵さんは言い切った。彼等が怒ってこの儘絶縁になってしまっても、仕方の無い事と覚悟を決めていた。
「そうですね、わたし達も頑なに成り過ぎていましたよ。この画の中の輝美も確かにそう言っています。子供達がコッソリ父親の写真を見ているのも知っています。いい切っ掛けです、会わせてやりましょう、あの子達をあの男に」
多恵さんと側に寄ってきていた輝美さんは顔を見合わせ安堵の笑みを交し合った。
旅は3月の10日あたりを出発日と決め。二泊三日程度の予定。飛行機で白浜に行き、勝浦を経由して、熊野の3つの神社に参拝して、多恵さんが一番描きたいと願う瀞八丁へ向かう。
しかし、ここでそれを聞き込んだ画家仲間の野口エリさんから電話があった。
「あなた、又スケッチ旅行に出かけるんですって。南紀とか聞いたわ。実はわたしも南紀の海岸を描きたくて堪らないのよ。あなたは海より山の方に興味が有るんでしょうけど、どう、初日だけでも海岸線を一緒にスケッチしない?」
「あら、良いわねえ、わたしも野口さんの海のスケッチ、是非、見て勉強させて欲しいわ」
「じゃあ初日のスケッチ旅はご一緒にと言う事に。あ、でも、わたしはあなたみたいにパトロンいないから貧乏旅なの。だから夜行バスで白浜に向かうのが一番安上がり。わたしは新宿から乗り込むけど、イザナギ駅前が始発だから、あなたはそこから乗ると良いわ。それから1日目に泊まるのは串本の大島にある民宿。あなた民宿なんて泊まったことないでしょう」
「そんなことないわ、学生時代は何時も民宿だったわよ。じゃあ一日目は野口さんに任せるわ、宜しく」
旅の仕度は順調に進んだ。しかし日本にもコロナはやって来てもう誰にも止める手立てが無かった。
「どうしよう」と迷う多恵さん。
「平気よ、返って旅行客が少なくて画を描く者にとっては都合が良いわ」野口さんは彼女が描く荒波のように豪快な気性をしている。
そんな訳で多恵さんも観念して旅行を決行する事にした。
イザナギ駅から仰せの通り、初めての夜行バスの乗客となったが、彼女の言う通り、乗り合わせる人は極めて少なく、しかも寡黙だった。
バスの中の睡眠、これが一番の気がかりだ。座席は一応ベッドモードになって入るが、矢張りそんなに寝心地は良いものではないと思われる。
「そんなもん、慣れてしまえば、結構楽で熟睡出来るわよ」そう言うと、本当に野口さんはもう、夢の中。
多恵さんももぞもぞ座席の中で格闘する事1時間ばかり。やっと睡魔の奴が降りてきて多恵さんはみんなと同じく夢の中へ溶け込む事が出来たのだった。
しかし、朝は、バスの朝は殆ど一緒、平等にやって来る。
「さあ、白浜よ。白浜は先ずご飯を食べて、三段壁だけチェックして、白浜駅にバスで戻り、それから電車で串本に行きましょう。余り白浜で時間を使いたくないの」
朝から相変わらず野口さんは元気だ。
多恵さんはその野口さんの計画を半分夢の中にいるような気分で聞いていた。
三段壁バス停で降り、定食屋に入り、朝食を頼む。
ちゃんとした普通の朝食、これぞ日本の朝食、家にいるみたいな朝御飯だ。
此処で、多恵さん、目が覚めた。
旅行カバンから画の道具入れバックまで手に持ったまま三段壁まで行く。
「うーん、確かに見るには迫力ある眺めだわねえ。でもこれはわたし向きではないわ。ま、折角来たんだから、一応色無しスケッチだけしましょうか?」
彼女はもっと海辺りの、岩礁に波が打ちつけているようなのがお好みであり、得意分野なのだ。
二人並んでスケッチをする。写真も2,3枚念のために撮る。
「さあ、此処はこれで十分だわ。次行くわよ」
さっさと荷物をまとめるとバス停の方へと歩き出す。
慌てて多恵さんも荷物をかき集めて後を追う。
「バスで白浜駅まで行って、電車で串本まで行きましょう。串本はバスに乗って大島へ渡り、椿道と言う所で下りて、そこに今日泊まる民宿があるから、この足手まといな荷物を預けてから、本格的なスケッチに出かけましょう」
「ええ、そうしましょう」少しゴタゴタになった画の道具入れを整理しつつ多恵さん、同意する。
「?」何処かで笑い声がする。彼等だ。同伴者が居る為、遠慮して姿は現さないが、彼等はチャンと多恵さんの近くでウロウロしているらしい。
「どうしたの」野口さんが尋ねる。
「いえ、べ、別に。あ、バス来ましたよ」多恵さん、誤魔化す。
串本に着いた。
「本来なら橋杭岩から行くべきなんでしょうが、此処は朝日が昇る直前から直後が最高らしいわ.因って今日は割愛。わたしは明日、その近くの民宿に泊まってその瞬間を描く積りなの。あなたは残念でした、勝浦に向かう電車の窓からでも眺めて、想像するのね」
「は、はあ」又周りから笑い声。うーむ、煩い。やり込められているわたしがそんなに可笑しいのか、と心の中で叫ぶ多恵さんだった。
串本駅から大島に向かうバスに乗り込む。大島は前まで船で渡っていたらしくそれを歌った物があるらしい。「結構昔は有名な歌だったらしいわ」と母が言ってたっけ。
椿道には直ぐ着いた。
「何をきょろきょろしてるのよ」野口さん
「はい、椿道って言うくらいですから、季節も丁度だし、屹度椿の花が度どっと咲き乱れているのだろうと思って」
「あ、それは直ぐそこにあるの、椿の木がトンネル状になってるのよ。でもここいらは温かいので、2月には屹度どどっと咲き乱れていたんでしょうが・・・今じゃしょぼしょぼぐらい、見られたら良い方かもね」野口さん笑う。
「ええっと、宿は反対のこっちの方ね」と彼女は宿のある場所に向かって歩き出す。
「此処、此処、此処が今日のねぐら」
「古いけど、明るくて良さそうな家だわ」
「良かった。あなたがそんなにブルジュア化してなくて」
「わたし、全然ブルジュアなんかじゃなくてよ。マンションの支払いに追われる可哀想なおばさんよ」
「でも、この間の旅行もその前の旅行も、豪華なホテルに泊まってレンタカーを足代わりに走りまわったって聞いたわよ」
「誰がそんなこと言ったのよ。ホテルは普通のホテルだし、レンタカーは止む無しと言う所だけ」
「まあ、それでも贅沢よ。6月と9月、立て続けだもの、やっかみでそう言う人も現われるのよ」
「あれはね、長い間子育てに追われて、ろくに好きな場所に行って描いていなかったから、間隔が開いていないだけよ。今度だって依頼人の為、熊野参りをするついでに、古道や瀞八丁をスケッチしようと思ったんだから」
「分った、分った、そう言う事にして置こう。さあ早く荷物を預けて、本格的にスケッチしに出かけるぞう。御免くださーい。今日予約していた野口ですがー」
荷物を預け、いざ出発。でも待てよ、もう直ぐお昼、何処かで食事を。
「そうねえ、これから金山登山口まで行って、そこで食堂を探して昼食を取ろうか。食堂みたいな所があるか宿の人に聴いてみよう」
聞いてよかった、此処の宿の女将さんがお握りを握ってくれるという。料金は格安で宿代と一緒に後から払えば良いとの事、おまけに自転車をレンタルできるという。とてもラッキー。
宿の人にお礼を言って、お握り弁当もって今度は本当に、いざ出発。
「晴れてて良かったわね、それに南紀って温かくて助かるわ、スケッチ日和って言うのね、こんな日の事。雨振ってたら、一日を棒に振らなくちゃいけないんだもの。近場なら止めに出来るけど、旅の最中じゃそれも出来ない」
「そうですよね、天気予報を何回も確かめて旅の計画を練らないといけないわ。でもそれも外れる事あるから、日にちや時間がずれたりして」
「そうそう、それで酷い目に合った事あるんだあ。夜まで降らないと言う予報だったから、安心して海辺でスケッチしてたら、ざんざん降りになって、スケッチ帳はずぶ濡れ、周りには喫茶店一つ無くて、わたしもずぶ濡れ。ああ、あ、思い出しては泣けてくる。あなたもそんな思いした事ない?あなたも自然相手の画家だから」
「さっきも言ったように、まだ本格的にスケッチ旅行に出かけたのは2回だけだから・・その前、学生時代も、独身時代も幸いな事に無いと思う」
「神様、えこ贔屓してるんじゃない。あんたの容貌にさあ」
「そんな訳ないでしょう。只の晴れおばさん」
そんなとりとめもない話をしているうちに金山登山口に着いた。
「此処からね、一キロばかり歩くと金山展望台に着くらしいわ。あなた歩くの大丈夫?」
「歩くのだけは自信あるの、みんなが驚くほどね」
「へえー、人は見かけによらないのねえ。じゃあ、参りましょうか」
自転車を傍らに停め、鍵をかけてからお弁当を画材バックに放り込んで、いざ出発。
細い山道を登って行く。両脇には木々がビッシリ、夏は屹度葉が生い茂ってうっそうとしているだろうが、今はまだ春も浅いのでそれ程でもなも。只、蕾か、もうそれ自体が花なのか分ら無いけれど、枝先に柔らかな黄色やうす赤い花芽らしき物を付けている木々も多い。
「でも、この金山展望台から見える景色には余り期待しないほうが良いわよ、ま、橋杭岩を遠く裏から見れるのと、串本を見下ろすくらいしか見所は無いんだけど、さっきの椿道とこのジャングルの森が如何にも大島らしくて、1度は来る価値があると思うんだ」
彼女の言う通りだったが、潮風に吹かれ眼下に白波寄せる串本の町や、橋杭岩を見ながらのお握り弁当は最高だった。
念のための写真数枚と簡単なスケッチを素早く描き終えると、足早にそこを下り、本来の彼女の目的地、樫野灯台から海金剛を目指す。
灯台までの道中は少し長い。でも天気も良く、気温もサイクリングには丁度の感じで鼻歌交じりで二人は行く。
「此処、大島は昔、トルコの軍艦か何かが難破した時、島の人達が一生懸命、救助に勤めたらしくて、トルコに関係する物が結構あるのよ」
「そう云えば、聞いた事があるような。そのお陰でトルコの人達に日本人はとても親切で良い人達だと思われているとかね」
灯台に行着く前で少々ストップ。二人とも喉が渇いたのだ。小店の前の自動販売機を見つけて止まった。
「少し距離有ったわね、金山は矢張り行かない方が良かったかな」
「良かったかなって、洒落のつもり」
「ハハハ、そうかも」
「早く、海の見えるとこまで行きましょう」
「そうしましょう、そうしましょう」水分補給で元気を取り戻し、又二人は自転車を走らせる。
灯台へ向かう道筋には、矢張りやや盛りを過ぎた水仙が沢山植えられている。
「ここは本当に春が早いのねえ、水仙も盛りを過ぎてる」
「あれはね、灯台か何かの英国の技師が故国を懐かしんで植えたらしいわ」
「そう、こんな所で、しかも異国で、寂しかったでしょうね、彼は」
「灯台そのものは日本最古の石作りとか書いてあったわ」
「トルコ船の遭難犠牲者の慰霊塔も建ってんのね」
そこから見る景色は岩又岩で、難破しても仕方の無いような荒々しい景色が広がっていた。
「少し、此処でスケッチしましょうか」野口さんが提案。
「ええ、船には難所でも画家にとってはビューポイントだわ」
又二人は並んでスケッチする。今度は少し色も重ねた。
勿論写真も撮ると海岸沿いに又自転車を走らせる。何処もかしこも海は岩だらけで立ち止まって描きたい衝動に駆られる。
「もう少しよ、ほらあの赤い日米友好記念会館の建物から直ぐだから」野口さんが叫ぶ。
成る程そこから暫く下ると、もうそこは絵画その物の世界だった。
「どう、凄い迫力でしょう。此処を描きたくて描きたくて、此処2,3年うずうずしてたんだ」
海金剛と呼ばれる此処は正しく彼女の画の為に存在すると言える場所だった。
切り立った大岩、中岩が林立し、取り巻く小岩まで荒々しい。波が当る。波が青く、白く輝く。
「分った。早く描こうよ」
「お、緑党の河原崎多恵も海を描く気に成ったらしいな。良し良し、描こうじゃないか。競争だよ、どっちが寄り深く岩や波の音を描ききれるか、ね!」多恵さん力強く頷く。
一番自分が描きたい所を探す。一番自分の心を掴む所を探す。
今度は自慢の色鉛筆でしっかり色も塗る。この岩の質感を、濡れ感をどう出すか、それが画家としての腕の見せ所。海の色は黒潮と言われるだけあって、この南国の季節感に反して冷たく、黒く澄んでいる。
しかし、いやだからこそ、岩にぶつかり砕ける時の波の色は白くもあり青くもある。しかも激しい。
多恵さんと野口さんは、その迫力にその色に負けてなるものかと只管描いては塗る。
段々夕暮れが近づいてくる。海は益々黒ずんできた。
「どう、もう描き終えたかな?」野口さんは大体描き終えたようだ。
「ああ、わたしも間に合ったようだわ、何とか」
「どれどれ、見せて下され」多恵さんの描いている所へ彼女がやって来る。
「おおっ、河原崎多恵よ、アンタ、これから、海も描きなさいよ。絶対にそうすべきだよ、どうして今まで海を描かなかったんだ?海が怒って泣いているぞ」
「はあ、海の無い所で育ったもので、海になじみが無くて」
「でも、マガタマ市には山も無いぞよ」
「だから、山自体はそれ程描かないわ、只描きたいものの近くに大抵山があるから、一緒に描きこむことに成る。だから、海も描きたい対象のバックやそれと一体化してれば、勿論大歓迎なの、ね。でも、勾玉県自体には海は存在しないのだから」
「分った。じゃあ今度の旅行を境に、河原崎多恵画伯海を描く、って事になるのかしら。うん?そしたらわたしの画のライバルが増えるって事になるのね。これはウカウカしてられないわね」
「でも、あなたのこの岩場や波の度迫力には、とてもとても敵わないわ。矢張り、海の画は野口画伯の物よ。色鉛筆でこれだけの質感を出せるんだもの、素晴しいわ」
「じゃあ、此処はそう言う事にして手を打ちましょうか。でもその言葉を鵜呑みにして油断させようなんて魂胆じゃないでしょうね、クワバラクワバラ」
「そんなあ。でもわたしも野口さんに少しでも近づけるように精々デッサン力磨きます」
「ほうら、尻尾出した。ハハハ、ま、良いやそれはそれで。さ、暗くならない内に宿に戻ろう」
少し日が蔭り出した道を二人は自転車のスピードを上げて宿へと向かう。
「さっきは余り注意しないで通り過ぎたけど、結構未だ椿咲いてるんだ。わたし、落ちた椿の花も好き」
多恵さん、呟く。
「なあに、何か思い出でも有るの?彼が椿の花で首飾りでも作って呉れたの、羨ましい。わたしなんざ、そんな思い出なんか丸っきり無い、悪ガキに棒っ切れ投げつけられたくらいの思い出かな」
「ええっそんなあ。只、わたしの周りには椿って庭に植えてあるのしかないから、落ちてる椿って貴重なのよ、こんなに沢山落ちてるなんて夢の世界にしか存在しないわ」
そうこうしている内に宿に着く。
自転車、お弁当の礼を言ってから、案内された部屋へ荷物と一緒に入室。
民宿だ。窓からは森か林のような物は確認できるが、素敵な海や川、景色が見える訳がない。
「お風呂、沸いてますよ」という声。
小さいながら二人が入るには事足りる。
次に夕食。さすが海は直ぐそこ、海の幸満載、野菜は取れたて。言う事無しだ。
「今日は共に過せて楽しかったし、頼りがいが有って助かったわ。ありがとう。明日は別行動ね、わたしは熊野詣をしなくちゃいけないわ。勿論参道、熊野古道を描くのも、と言うか、それが一番のわたしの目的なんだけど、どうしてもある人の為、その心の為に参らなくちゃいけないのよ。それが済んだら、フフフ、瀞八丁に行って、思う存分描きまくるわ」
「瀞八丁かあ、わたしもそこには心引かれるけど、時間的に無理だなあ。まだまだ勝浦や橋杭岩を描かなくちゃいけないし、そこから鬼が島に足を伸ばしてスケッチしてから、名古屋から又バスで帰るのよ」
「わたしは橋杭岩の朝を見たいわ。ま、全部が全部叶えられる訳じゃないから、今回はこれで良しとしましょうよ」
二人で今日のスケッチや写真で取った物を整理したり、批評しあった。一人旅では味あ得ない一時。
増してお互い良い画を志す者どうし、得る物が多く、話は尽きなかったがバス旅と島中を駆け巡った疲れで二人は休む事にした。
翌朝、二人は夫々の目的のために、まだ薄暗い時間帯に起き出した。
「わたしはもう少し、この大島でスケッチしてから此処を出て行くわ。串本には大島から潮岬にかけて、まだまだ描きたい所が沢山あって、そこもスケッチしなくちゃいけないから、串本が誇る橋杭岩へ行くのは夕方になるわ。それから明日の為、事前のチエックをする事になるわ」
野口さんが朝食を取りながら、今日の予定を述べる。
「そう、結構忙しいのね。わたしはこれから直ぐ勝浦へ向かうわ。そこから先ずは那智の滝へ。途中の
大門坂とこの滝が今日の描く1,2のポイントかなあ。お昼から速玉大社、本宮大社の順に回って、夜は明日の瀞八丁の為、本宮の近くに位置する十津川温泉に宿を取っているの。そこから瀞八丁は目と鼻の先だから」
「ホテルに泊まる予定なんでしょう、わたしに遠慮しないで良いのよ。人は人、気にしてたら前に進めないわ。自分の器でやれば良いの、そうじゃなきゃ友達付き合い出来ないじゃない」
「あ、本とに日本旅館なの。場所的に旅館が一番ベストなのよ」
「そうね、瀞八丁と熊野本宮の近くなら、民宿か旅館がお似合いか。ハハハ」
昨日と同じく二人は民宿の心尽くしのお弁当を受け取り、野口さんは宿に荷物を預けたまま、多恵さんは一夜のお礼を述べ、夫々の目的地に向かった。
串本駅から勝浦へ向かう電車に乗り込む。朝がまだ早い所為か、コロナの所為か乗客は極めて少ない。
窓の外には例の橋杭岩が姿を見せ、そして消えて行く。
「御免なさい、何時か又縁があったら巡り会えるわ。今回は残念ながら裏からしか描けなかったけど、今度はチャンと正面から描かせてもらうわ。出来たら日の出スレスレに輝くあなたの姿を」
多恵さんは母が学生時代に大阪から貧乏旅行の為(当時は殆どの学生が貧乏だった?)新宮へ向かう普通夜行列車(多分)に乗って向かっていると、段々朝が明けて来て、眩しさに目が覚めるとこの橋杭岩から日が昇ってくるとこだったそうだ。だから母にとって一番美しい朝はこの橋杭岩の朝なのだそうだ。
野口さんも屹度明日、此処からの朝が一番素晴しいと唸るに違いない。
勝浦に近づく。
あいつらは一体どうしたろう。自分達3人で勝手に旅行をしているのかしら。
それならそれで良いと思う。その方が気を使わずに安心して画が描けると言うもの。これが本当の一人旅幽霊と言えども、お供を引き連れての旅行なんて時には便利ではあるけど、プライバシーは無いに等しい
やれやれだ。と多恵さん、フーと大きく溜息をつく。
だがその時を見計らっていたようにヌーと杉山君が先ず姿を現す。
「そうは問屋が卸さなかったのねえ」もう一回今度はハアーと溜息をつく。
「え?何が卸さなかったんですか」杉山君惚けて聞く。
「あなた達がこのまま3人で熊野にお参りしてくれれば助かるなあ、と思って」
「僕達、側に居るの、ご迷惑なんでしょうか?」良介君と輝美さんが同時に現われる。
「まあ、熊野に参ろうと言ったのはわたしなんだから、此処は仲良く一緒に行きましょう」
「ああ良かった。矢張り生きた人間に連れて行ってもらわなくっちゃ、神様、通してもらえないようです」輝美さんが嬉しそうに呟く。
「こいつ等、少し下調べとか言って、先に行ったみたいです。でも結局、追い出されて帰って来たとか、厳しいですね、幽霊の道というのは、ハハハ」
「杉山君が言うと丸っきり厳しくないみたい」
そう言ってる間に勝浦駅に到着。みんなでぞろぞろ降りる。勿論他から見れば大荷物を持ったおばさんが一人寂しく(?)降り立ったようにしか見えないが。
勝浦駅のロッカーに画の道具入れバッグ以外を押し込んで、さあ、那智神社へ出発。
「ええっと那智山行きのバス停は?」多恵さんきょろきょろ。
「ほら、こっちこっち」杉山君が教える。こう言う時は本当に彼は便利。
又4人でぞろぞろ乗り込む。
「先ずは大門坂前までね。わたしはここでスケッチをしなくちゃならないの。うーんあなた達、何かしら面白い遊び、考えて遊んでてちょうだい」
「へ、何かしら面白い遊び、幽霊に出来る遊びあるんですか?良介、お前知ってるか?輝美さんも」
「いえ、全く。幽霊になってこの方、遊ぶなんて、増して幽霊3人で遊ぶなんて考えた事も無かったですよ。輝美さんは?」
「わたしも同じ。毎日毎日夫の裏切りが悔しくて悔しくて、恨んでいました。それと子供の事が心配で大抵、子供が苛められないか見張っていました。でも子供が苛められてもなーんにも出来ないんです。悲しくて悔しくて、それがわたしの一日でした」
「分った、分った。うーん、仕方が無い、杉山君、あなた、何処からかトランプでも調達してきてよ。
三人では・・人数少し足りないか。じゃあ、杉山君、ついでに幽霊界に顔が広いんでしょ、幽霊さんも後2,3人ばかり集めてきて、なるべくわたしから遠く離れた所でトランプ遊びでもしてて頂だい」
「はー、トランプですか?もう一人増やしてマージャンなんて如何ですかね、生きてる時はサンザンやりましたから、自信ありますよ」
「だめ!大体あなた一人が楽しくたって他の二人が解らなくては遊べないじゃないの」
「ヘヘヘ、そうですね。ま、今回は諦めてトランプを調達して来ましょう。あ、花札なんてどうです?あれなら出来るんじゃないかな、人数も3人で遊べるし」
「いいわ、あなた方3人にあとはまかせる事にしましょう。良く相談して決めて頂だい、杉山君一人で決めないでよ」
「はーい、はい。河原崎さんのおっしゃる通りに致します。では後ほど大門坂のあたりで」
彼等がバスから消える。バスは大門坂に着く。多恵さんもバスから降りる。
バス道を逸れれば即、写真でよく見る熊野古道。
真っ直ぐ伸びた杉の木立と石畳、それに続く長い石段、余り日の差さない小道の脇にはシダ類が生い茂り石にはコケが繁茂している。
「アー、わたしの描きたい世界が此処にあった」
多恵さんは感動し、人の行き交いに邪魔にならず、しかも一番気に入った所を探す。やがて階段を少し上がった所の一角が多恵さんの心を捉え、そこに位置を定め描き始める。
本当にコロナの為殆ど人が通らない。幽霊さん達は此処から離れた所に居るはずだから、この人気の無さは彼等がもたらした物ではないはずだ。
お陰と言っては申し訳ないが、矢張り覗き込む人や、話しかける人が居ないと言う事はとても仕事が捗る描く世界にどっぷり浸る事が出来ると言うものだ。
スケッチ3,4枚を完成させ、写真を撮っていると彼等が現われた。
うん?何か人数が増えてるような。
多恵さん、訝しげに杉山君を見やる。
「何だか知らない人が混じっているみたい」
「ハハハ、増えちゃいましたね。河原崎さんがなるべく離れた所と言ったので、多分幽霊達が多恵さんを頼って集まってくるのを警戒してそう言ったのだと理解しました。それで随分離れた所でトランプや花札をして遊んでいたんですが、此処にいる二人が、夫婦なんですが、病気を苦に心中したんだそうですで、俺達の近くに浮遊してました。その二人、心中した事を何とか、神様にお詫びしたいと熊野詣を二人で計画し、此処まで辿り着いたのは良いんですが、先ほど申したとおり、神様は、幽霊だけでは通してくれない。困ったなあとウロチョロしてたら、トランプ遊びしてる俺達見付け、根掘り葉掘り問い質されて、実はこういう訳と白状してしまいました。どうか彼等も同行させてください」
見れば50歳前後の夫婦、中肉中背の夫に痩せ型で気の弱そうな妻。
「わたしの病が原因で妻までも死なせてしまいました。本当に申し訳ない事をしてしまったと、死んだ後で後悔しています」夫の方が口を開いた。
「夫の体が段々言う事を聞かなく病だと聞かされ、初めはそれでも二人とも頑張る積りでした。でも子供達も大きくなっていましたし、後々その子達に迷惑をかけるのが心配でもありました。そこにそれまでわたしの心の支えだった母が亡くなって、少し、わたし自身鬱に成ってしまいまして、夫は死にたいと言いますし、そんなら一緒に死のうと決めたのです。車で山に行き・・」
「二人とも生きる張り合いをなくして、安易に死と言う道を選んでしまった事を神様にお詫びしたくって此処まで来たのです。どうかご同行させて下さい。これもわたし達を哀れんで神様が杉山さん達に引き合わせて下すったんです」
「うーん、・・・分ったわ。実はわたしの親戚にもそう云う死に方をした人達が居るの。まだわたしの小さい時だったから、良く覚えていないけど、母がどうして相談してくれなかったんだと怒っていたわ」
道具を片付け肩に担ぐと、そこから木立の間をズーと伸びている石段を登り、那智大社を目指す。
「ほら着いたわ、緑に赤い社が生えるわね。あ、此処から那智の滝も見えるわ。早くお参りして那智の滝を目指さなくては」
幽霊5人を引きつれ、多恵さん静かに祈る。どうかこの愛すべき幽霊さん達の心を救いたまえ、許したまえと。
この大社の直ぐお隣は青岸渡寺、ここも勿論お参り。
そこから下って、又石段を行くと那智の滝、飛瀧神社に辿り着く。
「さー、滝に着いたわ。でも此処はお二人さんはもう何回も来てるわよねえ?」
多恵さん夫婦を振り返って尋ねた。二人は首を振る。
「わたし達もせめて滝を見て癒されたいと願い、挑戦したのですが、神様の張り巡らされた結界はとても広く、しかも堅固でして、残念ながらこの近くには立ち寄る事も出来ませんでした」
夫は残念そうに言い、妻は悲しそうに頷いた。
「そうだったの、神様は厳格なのねえ、わたしも神様を怒らせないように十分気をつけて行動しなくちゃいけないわ」
滝の御瀧拝所舞台の近くに霊水が出ていて飲める様になっている。延命水と書かれている。
「延名水かー。俺達には今では全く関係ない水だなあ。ハハハ」
杉山君が笑い、他のみんなも釣られて笑う。多恵さんも「成る程」と一応頷きかけた。
「でも、生きてる人間には延命水かも知れないけど、これは霊水よ、飲んだら生前の悪い行いが洗い清められて、守護霊に近づける水に違いないわ」
「うーん、河原崎さんがそう言うんだったらそうかも知れない。ジャーみんなも飲んでみようか?」
杉山君の号令一過、多恵さんの飲んだ後から順序良く皆飲み始めた。
「ワー、凄い。前、此処に来た時は夏だったからそんなに水量多くなかったから、迫力が違う。一応敬意を払って瀧に、此処に来られ、こんな素晴しいお姿を拝見出来た感謝を述べましょう」
みんな揃って感謝のお参りをした。
「さあわたしは場所を変えてスケッチするわ。あなた達は幽霊なんだから、もっと瀧に近づけるのでしょう。それにこの上の山を散策して見るのも良いわねえ。ま、兎も角適当にぶらぶらしてて頂だい」
幽霊さん達を追っ払うと、前もって決めておいた所を陣取り早速スケッチに取りかかる。
なるべく早く切り上げて次に行かねばならぬ。1枚目のスケッチを描き終わると、宿屋から持って来た弁当を頂く。
2枚目、3枚目と描き終えた。写真もそれから撮る。何時ものパターンだ。
「あ、描き終わりました?」杉山君がタイミング良く現われる。
「あなた、隠れてわたしを監視してたんじゃないでしょうね」
「ヘヘヘ、ズーとじゃないですが、時々ですよ。だって置き去りにされたら悲しいですもん、幾ら幽霊だって。あ、俺達も下のほうに行って適当に食堂に入ってタラフク食べてきましたからご心配なく」
「わたしがお弁当食べていたのも見てたのね。大体ね、幽霊さん達にご飯が必要な訳が無いでしょう、この間も、俺達食い物に執着してるから、何時までも守護霊に近づけないのかなって反省してたんじゃないの」
「ああ、あの時はあの時の勢いでそう言って見たんですが、矢張り煩悩からは中々抜け出せません、ハハハ」
「もう、本当に調子良いんだから。さあ次に向かって出発ー進行、よ!」
「えー、あのー、・・・」心中組みの口数が極めて少ない妻の方が何か言いた気である。
「あら、どうしたの?」後ろに何か隠している。
「何を隠してるの、遠慮しないで堂々と見せて」
もじもじしながら彼女、何やら紙のような、スケッチブックのようなものを多恵さんの前に差し出した。
「ヤッパリスケッチブックだったわね。あなた、画を描くの?だったらもっと早く言ってくれれば一緒に描けたのに」
「こいつ、生きてる時と言うか、若い時から描くのが好きで、それ程頻繁ではないですが、時たま描いてるんです。わたしよりもずーっと上手いですが、かと言ってそれ程の物ではないですが」
夫の方が言い足す。
「画は上手い下手ではないわ、その人の心が表されているか、心が篭っているかよ。他の人から良く言われるんだけど、自画像をどうして描かないのかって。わたしはどんな画を描いていようと、紛れも無くその画そのものが自画像だと思うし、描き上げた画を見てつくづくアー、これはわたし自身だなって感じるの」
「わ、わたしの画を見てもらえますか」女性が蚊の泣くような小さな声で言う。
「勿論喜んで拝見するわ」多恵さん、スケッチブックを受け取る。
それは確かに稚拙では有るが、一生懸命に目の前の霊なる瀧をこの紙に描き取ろうと言う気持ちが良く現われている。
「あなたの瀧を敬慕する気持ちが良く現われているわ。ここの線を此処より細くする方がもっと深遠な感じが出ると思う。あ、画はね、描きたくない物は描かなくてもいいのよ、でも、若しかしたらそれがその景色全体を引き締めていたり、リズム感を与えているかも知れないから、よーく考えてね」
「はい分りました。描きたくない物、今は良く分りませんから描ける物は何でも描く事にします。ありがとうございました」
「今度こそ本当に出発進行よ、良いわね」
バスに乗って勝浦に戻り、ロッカーから荷物を引っ張り出し、電車で新宮へ向かう。
新宮に又荷物を預け徒歩で速玉大社へ向かう事にする。女性の幽霊さん達は多恵さんの脚は大丈夫なのかとしきりに心配するが、彼女にとってはこのくらい、全然平気、朝飯前だ。
チャチャット歩いて15分から20分で着いた。
「さあ、これが速玉大社よ。何でも夫婦の神様が祭られているらしいわ。輝美さんにはちょっと辛いけど、そちらのお二人にはぴったりの神社だと思うわ。よおくお祈りして全うしなかった命の事を誤るのね」
「はいそうします。何だか許してもらえそうな気がします」
「ええ、わたしも。とても清清しい気を感じます」
二人はそういって手を取り合い先ずは手水舎へ。その後に我々も続く。
華やかな朱色の門や社殿が後ろの森の緑に映える。空は青いし、側を流れ行く熊野川の水の色もこの上も無く青い。この夫婦の行く末に幸多かれと、神に祈ろう。
この夫婦を祝する二方の夫婦神を祭った神社に別れを告げて、先を急ごう。今度は熊野本宮大社だ。此処を外しては熊野詣をしたとは言えないだろう。
もう一度新宮に戻り、荷物を引っ張り出し、バスで本宮大社前へと乗り込む。
そこで降りてどこか荷物を預かる所を探す。
うん、此処は和歌山世界遺産センターにお願いするしかない。
と言う訳でセンターに入りロッカーに荷物を預け一応豆知識を仕入れようと簡単に見て周る。
ま、日本古来の自然崇拝や仏教的考えが融合して、この日本的余り宗教や宗派を問わないありがたい場所が出来上がったのだなあと多恵さんは一人合点をする。それに此処は山深く、木々はうっそうと茂り、清らかな水は地下より湧き、川となり、瀧となって流れ行く。しかも黒潮の豊かなる海も間近に迫っている。自然崇拝しない方がどうかしている。
そうそう、さっきの速玉大社ではナギの大樹が御神木になっていたし、今度お参りする本宮大社ではイチイの木に家津御子大神が降臨したとかで、イチイの気は樹木の神様として知られているとか。そうだ!確か父の父が庭の木の中にイチイの木があって、そんな話を聞いた記憶が微かに残っているぞ、と多恵さんは亡くなった祖父の優しい顔を思い出した。祖父は花や植物がとても好きだったのだ。そう、わたしの母と同じ、と多恵さんは呟く
さあさあ、ぐずぐずして入られない、早くしないと日が暮れる。
又階段だ。幽霊さん達にはこんな物何とも無い。多恵さんには少し今日は階段攻めで脚に来ている感じ。
でも、自慢の脚、これくらいで音を上げてはいない。
流石スサノオノ命を祀る大社だ。何とも渋い落ち着いた色合いの社殿、造りもどっしり重厚だ。
神社や寺を描くのを専門にしている川平君が見たら、屹度涎を出すだろう。
「野口だけでなく俺も連れて行け」と恨まれるかもしれない。
幽霊さん達と一緒に只管拝礼する。何だか何処かでお前達への神社仏閣の結界を解いて進ぜようと言う声が聞こえたような気がする。
みんなの方を振り向くと矢張り皆聞こえたらしい。ニコニコしている。
「ありがとうございます。これから二人で四国に行って、四十八箇所巡りをしに行きます。生きてる時に行きたいと思っていたんですが、変な病に取り付かれて叶いませんでしたので、ゆっくりとノンビリと、そして皆さんみたいに楽しく、観光もかねてお寺参りをして来ます。何しろ金は要らない、時間はタップリのわたし達ですから、ハハハ」
二人は顔を見合わせ微笑みあった。
「奥様の方はスケッチ旅行も楽しんでね」
「はい、そうします。この人はカラオケが好きでしたから、わたしがスケッチしている間、どこかのカラオケ店に入っててもらいましょうかね、フフフ」
多恵さんも周りの幽霊さん達も初めて聞く彼女の笑い声だった。
神社で子供達にお守りを買うことにする。真理ちゃん、武志君、勿論輝美さんの子供達のも忘れていない。合わせて4個だ。
「帰ったら必ず渡すわ。あなた方の安全と健康をお母さんと一緒に見守ってくれる物よ、といってね」
「ありがとうございます。屹度喜びますわ、お菓子なんかは仕事柄、何時も貰っているけど、お守りは殆ど貰いませんから」
「お土産はお土産で後から買って行く積りだけど、うーん、貰いつけてる所に上げて喜ばれる物って何かあるかしら?」
多恵さん、少し考えたが全く持ってなーんにも思い浮かばなかった。
神社を出れば心中夫婦とはさよならだ。多恵さん達は十津川温泉を目指す(本当は残り3名もお別れしても良いのだが、あくまでもこの三人、多恵さんと行動を共にしたいらしい。ま、杉山君が居るから仕方無いのかと多恵さんは判断した)
「あ、よく考えたらわたし、お弁当以外なーんにも食べていないわ。那智の滝の所で霊験あらたかなる延名水を口にしただけだわ。丁度そこに本当の喫茶店、抹茶と和菓子が頂ける処があるわ、あそこでちょっとお茶を飲みましょう。勿論みんなも頂くんでしょう?」
一同、大きく頷く。
「さあ、お茶も頂いたし、うん、まだ何だか満たされないけど、早くしないと遺産センターが閉まちゃうわ。急ごう急ごう」
センターで荷物を引きずり出すと、再びバスに乗り込み、本宮大社の直ぐ近くに位置する十津川温泉を目指す。横を流れる川こそ瀞八丁に続く熊野川、別名新宮川そして十津川にもなる風光明媚、絶景なる物を生み出す場所なのだ。
着いた十津川温泉もこれまた美しき水に囲まれた多恵さんの魂を震わせる処だった。
数ある旅館の中で多恵さんが選んだのは、矢張り家族的な香りのするこじんまりした中クラスの旅館だ。
「わたしが泊まるのは此処よ。あなた方はどうぞお好きなところを選んでそこへ行って頂だい。中にはイセエビを出すホテルもあるらしいわよ。では、明日の朝ね、今は一旦さようなら」
ヤレヤレやっと幽霊さん達から解放された。
仲居さんの案内で自分の部屋へ入る。夕食まで少し時間があるので、長時間幽霊さん達5人と過し、少々冷えすぎた感のある体をお風呂で温めようと多恵さん、先ずは入浴に挑戦。
昨日は野口さんに引っ張りまわされ、今日は思いもかけぬ飛び入り参加も有って散々幽霊さん達にご奉仕しまくった。
でも待てよ、反対に野口さんはヤレヤレ昨日は世間知らずの彼女の為、何もかも面倒見て、はあ疲れた、疲れたと言ってるかも知れないし、幽霊さん達は幽霊さん達で朝からお弁当と抹茶、申し訳程度の和菓子だけ程度で大社巡り(これは仕方ないが)と長い間のスケッチに付き合わされて、イヤー参った参った、と言ってるかも知れない。多恵さん、思わずニヤリ。
ま、人間って余程の者でない限り、自分本位、自分中心の塊みたいなものだからな、と一人納得する。
水辺の十津川温泉の美しい朝は明けた。こうやって見ると訪れた時刻よりも今の時間帯がズーと清清しく、今日描くのは此処にしようかと思わせるのに十分な素晴しさだ。
「この景色、お気に召しましたか、素敵な景色でしょう?」
只管外を眺めている多恵さんに部屋を片付けに来た仲居さんが声をかけた。
「ええ、此処自身がこんなに画を描く処の宝庫だなんて思っていませんでした。今日は瀞八丁を描きに行く予定なんだけど、此処もその前に描こうかしら?わたしは滅多に建物は描かない主義だけど」
「絵描きさんなんですね。では、歩いて瀞八丁まで行かれるんでしょう、トンネルが出来てから便利になりました。散歩がてらに行く方も多いですが、お客様は絵の道具もお有りだから・・そうですね、宿の者に相談して、自転車をお貸しするように手はずをつけましょうか」
「まあ、それは助かります、よろしくお願いいたします」
これで今日の足は確保できた。それに答えて瀞八丁一生懸命に描かせてもらいます、と多恵さんは深く感謝した。
その感謝を伝える為出発前、水辺に佇むこの旅館をスケッチし色も薄く着けて描き終えて仲居さんに渡す。
「まあまあ、こんなに素晴しい画、頂けるなんて。女将さんに報告してきます、少しお待ちください」
女将さんが現われる。
「先ほどは思いがけずあんな素敵な画を頂けるなんて。大切に額に入れて飾らせて頂きます。お礼を差し上げなくてはいけないんですが」女将さん、何やら白い熨斗袋を取り出そうとしている
「いえ、そんな積りは全く有りません。気にしないで下さい」多恵さん、慌てて熨斗袋を押しやった。
「その代わり、荷物を瀞八丁に行ってる間、暫く置かせてください。勿論その間、自転車もお借りします」
「そ、それはお安い御用ですが、今日はその後どんなご予定ですか?」
「も少しここに居たいのは山々ですが、家の者が待っていますので帰ります。ただここから白浜空港は遠いし、名古屋も結構ありますのでどうしようか迷っています」
「そうですか、だったら、万分の一の御礼にしか成りませんが、車で白浜空港までお送りします。本宮大社から参道を抜けて行けばそんなに時間はかかりませんよ」
「え、良いのですか。ワー、助かるわ、嬉しい。帰りの離陸時間に間に合うように帰ってきます」
話はまとまった。では早速瀞八丁に向かおう。
教えられた道を自転車に乗って目的地に走らせる。爽快な道、鼻歌も出る。
トンネルを抜けてちょっと行けば、青い清流と黒い岩肌と緑織り成す憧れの瀞八丁だ。
船着場があるが、絵を描く身としては周りからの景色をスケッチしたい。
下へ降りる基点としてホテル瀞八丁とか言う所があるらしいが、そこは今はホテルではなく、喫茶店として営業しているとか聞く。後でそこからの景色もチェックしよう。
先ずは釣り橋がある辺りでスケッチしようか、と多恵さん、その辺りで一番描きたくなる場所を探す。
お、何だかギターの音色!
中年を大分過ぎた男性が石の上に腰掛けてギターをかき鳴らしているではないか。しかも画を描くのにも
その場所は最高に良さそうに感じられる。
多恵さん、暫くそこに立ち尽くした。
「あ、こんにちわ。歩いて瀞八丁を見学ですか?船の方が簡単だし、いい所を沢山見られますよ」
男性が気付いて声をかけてきた。
「はい、それはそうでしょうが、わたしはジックリ腰をすえて画を描きたいものですから」
彼は多恵さんの上から下までを眺めやった。
「あ、若しかしてあんた画家?」多恵さん頷く
「そう、分った。此処に座って描きたいんでしょう。此処からの眺め最高だよねえ、丁度座るのにおあつらえ向きの椅子ならざる石もある。ハハハ」彼は笑いながら立ち上がった。
「さあどうぞ。ギターなら景色は関係ないからね、と言っても、あ、此処で良いや」
彼は少し奥まった場所に移る。
「すみません、ギターの邪魔をしただけでなく場所まで譲ってもらって」
遠慮しないでその石に座りスケッチ道具を広げる。
おじさん、気を取り直してギターの独演会を再演した。
「ギター、お上手なんですね。わたしの周りにはギターもピアノも弾ける人が居ないわ」
「ハハハ、学生の頃にはバンド結成して、彼方此方でバイトしてました」
「そうでしょうね、その腕前では。持てたりして」
「まあ持てたり、振られたり、色々ですよ」おじさん何だか寂しそう。
「ふーん、女はギターの音色に弱い者ですよ。振られたなんて余程女性に酷い態度を見せたんでしょう?」
「イヤイヤ、あの人に酷い態度なんて全然取っていないですよ。それなのに彼女、突如としてわたしとの連絡を絶ってしまったんです」
「あの人と言うからには余程その人が好きだったんですねえ」
「好きでしたよ、若しかしたら今だって、死んだ女房が怒るかも知れないけど。あの後何人もの女性と付き合ったが、彼女のような人には巡り合わなかった」
おじさんはギターを弾くのに戻り、多恵さんは画を描く方に戻った.
あの青い池の水も綺麗だったが、此処の水は清らかに澄んでいて青い。河原の石も切り立つ崖もそして生い茂る草木まで荘厳であり気高く見える。屹度此処が熊野大社や高野山の近くにあり、水や地形が繋がっている為に違いない。
「イヤー上手いなあ、アンタの画、見ていると心が洗われるよ」
何時の間にかおじさんギターを弾くのを止めて、多恵さんの画を覗き込んでいる。
「アンタを見たときね、その昔の彼女が現われたと吃驚したんだ。そんな筈は無いのにねえ、面影が良く似てるんだ。だからさあ、つい思い出して・・」
多恵さんも思う、川西さんを愛した為、それまで付き合ってた人と連絡を絶ってしまった苦い過去がある。彼は屹度何故、どうしてと訝しく思っただろう。本当に悪い女だったんだなあと反省しきりだ。
そう云えば彼も又ギターの名手だったんだっけ。
「彼女はあなたに直接、本当に好きな人が出来てしまって、あなたとはもう付き合えないとは言えなかったのよ。代わりにわたしが誤るわ、本当に御免なさい。許してください」
「ハハ、何か本物の彼女に謝ってもらってる気分に成りましたよ。いやここであなたに合えて本当に良かった、神様の思し召しかな。ではわたしはこれで失礼します。あ、もう一言。すれ違う人が皆良い人ばかりとは限りませんよ、気をつけて」
「ご忠告、ありがとうございます。ま、少しはその為の準備はしてあるのですが」
「なるほど、だから落ち着いているんですねえ、アンタ。ハハハ」
彼はギターと共に去って行った。
多恵さんも気を取り直し、少し場所をずらしてそこからの風景をスケッチする。うーんこれも良い、木々の緑も岩の色も流れる清流にピッタリマッチしている。
そんなこんなして3,4枚をスケッチし終わった。そこで宿からの情報で、お勧めのホテル瀞八丁という今は喫茶店となっている所に行こう。そこから、どうやら下のほうへ降りて行けるらしい、とのありがたい情報を信じて。上からの眺めもいいが、下からの眺めは又格別の迫力に満ちているに違いないもの。
道具をバックに詰め込み終わると又自転車にまたがり、そこを目指す。
何やら後ろに付いて来る気配を感じる。
「お、あいつ等か」今日は一向に姿を現さないなとは思っていたが、朝寝坊でもしたか少々遅めのお出ましと来た。幽霊には別に仕事も無ければ、早寝早起きを推奨する人も居ない。待て待て、大体あいつ等に睡眠の必要は全く無いんだったっけ。
目指すホテルならぬ喫茶店に着く。
コーヒーを一杯先ず頂こう。多恵さんお店に入る。彼等も入ってくる。
「コロナの所為でお客がサッパリだから、暫く此処閉め様かと思ってるんですよ」
店の人が言う。成る程幽霊じゃ商売にはならないからなあ、と多恵さん合点するしかない。
「でも今日まで開いてて良かった、温かいお勧めのコーヒーを一杯お願いします」
多恵さん、幽霊一同を見やった。?又なんだか人数が増えてる!
「ど、どうしたの彼女?又新入り」小さい声で尋ねる。
50歳前後の小太りの女性がじっと多恵さんを見据えている。
「そ、それがですね、俺にも良く分らないんです。今さっき出会ったばかりなんです。それにこの人、自殺や恨みがあっての幽霊さんじゃないんですね。つまり俺達よりも格が上の霊さんです」
「それがどうして、あんた達の仲間に居る訳?あ、又人探しなの」
「さあ」杉山君首をひねる。
「一体、あなたは何方?」多恵さん堪り兼ねて彼女に問う。
「わたし、金岡の家内です」
「え、誰、誰ですって。金岡さんて誰なの?」多恵さん聞き覚えのない名前に吃驚。
彼女訝しげに、もう一度多恵さんを見やる。
そこではたと気がついた。あのギター引きの奥さんだ。そう言えば彼、奥さん亡くなったと言ってたっけ。
「若しかしてさっき出会ったギター引きの方の奥さん?」
彼女頷く。
「でもどうしてあなたがわたしの前に現われなきゃいけないの。わたしはご主人の名前さえ知らなかったのに」
その時コーヒーが来た。
「ワアー、いい香り!」店主、ニッコリ。
「ごゆっくり」彼が傍を離れた。
「あなた、金岡のズーと思い焦がれた人ではないの?」
「いいえ、あの人とは今日初めて会いました、あそこの場所で」
「ふーん、でもあなた、あの時謝っていたじゃないの、本当に御免なさいと」
「ええ、あなたのご主人から黙って去って行った女性に代わって謝っていたの。でもわたしとその女の人とは無関係よ」
「どうして無関係なのに謝るの?それにその後主人はスッキリした顔で立ち上がったわ」
「その女性とわたしの雰囲気がとても似ていたらしいので、ここは彼女に成り代わって謝った方が良いんじゃないのかなあと考えて、謝ったのよ」
「それで主人が納得したというの?信じられないわ。わたしが死ぬまでに、何回も彼女の事を諦めさせようと、努力して来たというのに、なーんの効き目も無かったのよ」奥さん、今にも泣きそう。
「それは・・男と言う者は・・黙って去って行った人が忘れられないものだから」杉山君が助け舟。
「女だって同じよ」と輝美さんも同調する。
「面と向かって、わたし、本当に好きになった人が出来ました。今まで付き合ってくれてありがとう。ではさようならとは中々言えないものよ。だから大人に成ったご主人に、わたしが彼女の代弁をした上で御免なさいと誤ったのよ」
多恵さん、必死で説明する。
それでも納得しきれない顔の彼女。
「ご主人ともう一度向き合ってみなさいよ、彼は屹度あなたの事を思い出し、悪かったなあと後悔しているわ。わたし、保証する」
「解ったわ、それに関係の無いあなたにこれ以上迷惑はかけられないし・・主人の所に戻って、もう一度
向き合ってみるわ。本当に彼女の事、諦めたのか、顔で判断出来るかなあ」
「彼女を諦めていたのはズーッと前なのよ。只彼女が何故突如連絡を絶ったのか、それを思い続けていただけなの。そこを理解してあげなくちゃいけないわ」
「そう、でも、愛して欲しい人が他の女性、増して昔愛した人の事を考え続けるって、辛い物なのよ」
金岡夫人の悲ししそうな顔。
「それは解ります」幽霊さん達は口をそろえた。
「これから主人の所へ行きますが、皆さんのこと忘れません。寂しくなったり、主人の事信じられなくなったら、思い出します。若しかしたら会いに行くかも知れません。その時は宜しく」
彼女の姿が消えた。
ああ、あ、折角の香り高いコーヒーも半分は冷めてから飲む羽目になってしまったと多恵さん、残りのコーヒーを飲み干し立ち上がる。これから河原に降り立ち、お弁当を頂いて本番だ。
河原まで降りて行くと水の色が手に取るように迫って来る。
白い石に寄せ来る透明な水が段々深くなるごとに、青さを増してやがて緑を帯び、緑へと変っていく。
川のせせらぎを聞きながらお弁当を広げる。ご馳走だ。屹度画のお礼が込められているのだろう。
感謝しながら美味しく頂く。幽霊さん達も覗き込み羨ましそう。
「俺達も何処かで旨そうな物、仕入れてこよう。どうせ此処には彼女、長く居そうだから」
杉山君の提案に皆賛同し、暫し静寂が戻る。
静かだ。切り立つ岩肌が続く谷間。まだ春も浅いので虫の鳴く声音も飛ぶ音もしない。
と思っていたら何処かで鳥の声がする。
あれは何と言う鳥?鶯、目白かしらと多恵さんは考えるが、鳥に疎い多恵さんには皆目検討が着かない。
食事が終わると早速スケッチに取り掛かる。
彼等はまだ帰らない。鳥の鳴き声とせせらぎの音をバックミユージックにしながらスケッチすれば、作業は捗る。
その静寂さは束の間だった。両手に抱えられないほどの荷物を持って幽霊さん達のお帰りだ。
それらを一応一処に置くと、輝美さんが先ずシートを引く。
幽霊さん達にシートは必要なのかしらん?と多恵さん見つめる。
そこに運んで来た料理を並べる。肉料理が多いが、刺身や天麩羅もある。
次に取り皿と箸、フォーク、匙等を配り、グラスも用意された。
グラスにシャンペンかシャンパンらしき物が注がれ、三人の幽霊さん達嬉しそうに、楽しそうに乾杯をして飲み干した。
それが済むと今度は料理を夫々取り皿についで、これまた嬉しそうに、楽しそうに、美味しそうに食べ始めた。
じっとそれを観察している多恵さんに気付いて、杉山君が声をかける。
「あ、こっちも味見します?」
「遠慮するわ」多恵さんとっさに断る。
「只何となく、前よりお行儀良くなったなあと思っていたの」
「ああ、輝美さんが加わったので俺達、ガサツのままではいられない感じなんです」
答える杉山君の横で良介君も頷く。
おや、何か良介君の雰囲気も前とは随分変ったような。底抜けに明るくなった。あの昔の暗い暗い顔、気の弱そうな物腰、それは今は微塵も無い。
良かった、彼女に彼等を紹介して、彼女も明るくなったし、ガサツな杉山君は少しだけ紳士に近づいて、バンバン万歳だ。一挙三徳だ。
「まあ、あなた達は賑やかにそこで酒盛りしてて頂だい。此処なら飲酒運転で捕まることもないし、騒音はわたし一人にしか聞こえないんだから」
そう言うと多恵さんは又瀞八丁の絶景と格闘し始めた。
早春の風を感じながら多恵さんは横で騒ぐ3人には眼もやらず、鉛筆を動かす。
まだ木々は生い茂ると言うほどではない。草草も所々に顔を出し、枯れた冬草と同居している状態だ。只岩肌は雄雄しくあり猛々しい。流れ去る水の清らかさも描き取らねばならない。
「うわ、画から川の流れる音が聞こえる」何時の間にか側に来た輝美さんが叫ぶ。
「あ、本とだ。確かに流れる水の音が聞こえるようだね」良介君も覗き込む。
最後に杉山君もやって来た。
「ずるいなあ二人とも、別行動とって。俺だけのけ者扱いなんだから」
「べ、別に杉山さんをのけ者にしてないですよ。ほら、河原崎さんの画、川の流れる音がするんですよ」「どれどれ」御機嫌を直して杉山君も覗き込む。
「ひょー河原崎さん、マタマタ腕を上げましたね。冷たそうな水の色も厳酷な岩質も皆描き取っている」
賑やかな見物人を気にせずスケッチ4枚ほど仕上げ、写真も6,7枚撮る。
そろそろ宿に戻らねばならぬ。白浜空港への道は宿の人が言ってたより、矢張り遠いに違いない。
「戻るわよ」と幽霊さん達に声をかける。でも彼等に声をかける必要があるのかは疑問だ。
彼等は帰りたければ何時だって、何処にだって帰れるのだ。彼等は自由なのだもの。
宿に戻り、先ずはお昼の豪華で美味しかったお弁当のお礼を言う。
「いえいえ、あの画に比べたら比べ物にはなりませんよ。さあ用意は出来ています、早く車にお乗りください」と女将さんに促されて車へ。
夕食のお弁当とお土産までドッサリ頂いて別れを告げる。
画を描く喜びを存分に味あわせてくれた熊野川別名新宮川を下り、本宮大社からの山道、熊野古道へと入っていく。もっと時間があったらこの道を辿って、深遠なる昔の人の心の思いを残すであろうさまざまの物も描きたかったなと、多恵さんは少し残念な気持ちを抱きながら、過ぎていく窓の外を見やった。
「名残惜しいですか」運転手の男性が聞く。女将さんの息子さんらしい。
「ええ、とても。でも必ず又来ます」
「そうして下さい。そのときは必ず連絡してくださいね、迎えに行きますよ、空港まで」
「まあ、ありがとうございます。本とに今日は助かりました。今度は家族の者も連れて来ようかな」
「あ、家族って結婚されているんですね、残念だな、俺、婿さん候補に名乗りを上げようかと思っていたのに。ハハハ」
「まあ、冗談でしょう。わたしよりも随分若いし、花嫁候補が沢山居そうだわ」
「イヤー中々ですよ、十津川は田舎だし、女将の仕事は大変だし、嫁に来てくれる女性は滅多にいませんよ。それでも良いと言う人が居たら是非紹介してください。年上でも全然構いません、絵描きやってる人なんてどうでしょう?景色だけは多分何処にも引けはとりませんから」
「そうよねえ、絵を描く者だったら心動かす人が屹度居るわ。わたし、少し心がけてみるわ」
「わあ、本とですか、今度俺の写真送りますね。俺、画大好きなんです。只、見るだけが専門ですが。宜しくお願いします。良かった、今日運転手して来て」
空港に着いた。礼を述べて車を降りてそのまま行こうとしたが、多恵さん少し考えた。
写真を送ってもらうより、此処で2,3枚彼の写真を撮っていけば良いじゃないか。
彼はちょっと照れていたが、無事多恵さんのカメラに収まった。今度は正真正銘生きた人間だ。
それから数日後、心ばかりのお菓子と旅館から頂いた山菜の漬物やお守りのお土産を持って山根宅を多恵さんは訪れた。
「何だかこの頃、家の中が暖かくなったような気がするんですよ。いえ、季節の所為ではないのです。前はこの内に入ると、夏でも冬でも関係無くぞくぞくして、何で我が家はこんなに寒いのだろうと、二人で話していたんです」
「子供達もこの家寒いねえと、言っては鼻水たらしていたんですよ。でも近頃は暖房も良く効いて、とても温かいと喜んでいます」
「そ、それは不思議ですねえ」とぼける多恵さん
その向こうで笑う輝美さん。
「このお守りはお子さんへ上げてください。お母さんに代わって二人の安全を守ってくれるとか聞きましたので、そのようにお子さんにお伝えください」
「まあ、そんなお守りが有るんですか。ありがとうございます、子達には必ずそう伝えます。あの子らも屹度喜ぶ事でしょう」
ホッとして山根家を後にする。
後ろから輝美さんが付いて来た。
「ヤッパリあなたが言ってた事本当だったのね、何故もっと早く気付かなかったのかしら。あの子達どうして何時も鼻水たらしているのかと心配してたの」
「幽霊と言うのは冷気そのものよ。気を付けなくちゃいけないの、このわたしだって何時も幽霊さんと付き合っていたら凍ってしまうわ」
「だからどんなに好きでも、杉山さんはあなたの側に長い事居られないのね。可哀想」
「幽霊は幽霊同士仲良く楽しく教えあい話し合いして、一刻も早く守護霊になるように勤めなさい。そうすればもう、近くに居ても相手を冷やす心配は無くなるわ」
「本とに守護霊になれば、近づいてもあの子達を冷やさないで居られるんですか?」
「勿論よ。でも守護霊の道はとても遠いから、先ずは普通の霊を目指すのね。あなたもあの二人も大分普通の霊に今度の旅で近づいて来たから、後もう少しよ。そしたら多分傍に少しぐらい居ても大丈夫だと思う。でも、これは杉山君には内緒にしてね」
「え、どうして、あんな良い人なのに」
「わたしには大事な夫と娘が居るのよ。それに彼にだって奥さんも娘さんも居るの。本当は彼が早く本来の所へ戻ってくれるのを祈っているんだけど、これが中々なのよ。これがわたしの傍に居ても冷やさないと解ったら、本当に居ついてしまうわ」
「成る程ねえ、ウン、内緒にする。死んだ人の片思いって困った物ね、フフフ」
彼女は明るく笑って消えて行った。あの明るさは、子供の傍に居てももうそんなに冷やさないで済むと、いう情報を聞いただけでは無いように感じるのは気のせいなのかと、多恵さん、首をかしげた。
そうそう大事な事を忘れていたと、多恵さん、あの旅館の息子さんの事を思い出した。キューピットの役に乗り出さねばならないのだ。
ある程度の心積もりはある。ああ云う所が大好きで、若くて、頑丈な体(此処が大事)を持つのは・・
そう、池田理恵ちゃん、それ以外にいない。
それに彼女は多恵さんを、と言うか、多恵さんの画が大好きで大好きで、崇拝してるのだ。
「ねえ池田さん、明日土曜日、お仕事休みでしょう。どう我が家に遊びに来ない?大樹さんは教授と何時もの通りデートだし、真理も友達と何か計画があるらしいわ。世間がコロナ、コロナと騒いでいるのに、大丈夫なのかしら。何でも友達の為だからとか言ってたけど」と電話を入れる。
「じゃあ、先生お一人なんですね。だったら伺っても良いです。他の人が居たら、特にご主人なんていらしたら、わたしどうご挨拶したらいいのか。だって、ご主人、とても男前だし。格好好い男の人見るとわたし、どう対処して良いのか解らないんです」
「うーん、それは困ったわね、これから先色んな人に会わなくちゃいけなくなるかも知れないのに」
「だから絵描きとして早く一人前に成りたいんです。文学的要素があれば、絵本作家でも好いんですが」
「風景画家は辞めちゃうの、まだまだ諦めるのには早すぎない事」
「一番好きなのは、美しい日本の自然を描く事です。でも・・周りはそれとは程遠いでしょう。先生みたいに立派な後ろ盾見つかる事願っています。そしたら好きなとこ行って、好きな場所で好きなだけ描くわ。でもわたし、先生みたいに美人でもないし、魅力も無いから、誰も声かけてくれない。それは叶わぬ夢なんです」
「何言ってるのよ、チャンスは思わぬ処に転がっている物よ、諦めないで。それでね、あなたに見せたいものがあるのよ、だから明日の午後、どうかなと思って」
「アッ、この間のスケッチ旅行ですね。野口先生とだけ行くなんてズルイ、当然わたしに声を掛けてくれるべきだったのに。有給休暇もまだまだ沢山残っていたんだから」
「御免なさい、元々一人で行く予定だったけど、野口さんがそれを知って、声をかけてきたのよ。海を描く練習にもなると思ったし」
「まあ良いや。確かにわたしと野口先生では格が違う物ね。じゃあ明日、お昼過ぎに伺うわ」
「あ、少し化粧してきて。それに・・一張羅があったらそれも着てきた方が良いかな」
「何々、なんかのパーテーなの、明日」
「いや、そんなことは無いけど。ああ、ヤッパリ普通で良い。普通が一番だわ」
池田理恵ちゃん、首をひねりひねりやって来た。尊敬する河原崎画伯の言葉を良く咀嚼しては見た物の、理解不可能だ。
まあ、普段は丸っきり化粧なんて縁が無い生活、言われた通り清水の舞台から飛び降りるような気持ちでファンデーションを塗りたくり、真っ赤な口紅を付けた。
洋服は普通が一番と言われたが、普通は会社で着る事務服、家では画を描く為の作業着だ。その間は自転車で通勤するので、まあ作業着に毛が生えたくらい、絵の具が付いていなければ儲け物だ。
この中のどれにすべきか?それが問題だとハムエッグかオムレットか知らないけど理恵ちゃん大いに悩んだ。作業着は絵の具が沢山くっついていて、そりゃちょっと見、アブストラクトのデザイナーが作った洋服かと思われないでもないが(誰が思う?)汚れが酷くて、今日当たり洗濯せねばと考えていた所。通勤着だって同じような物だが、ま、セーターぐらいは普通かな?下は冬から初春にかけては何時も同じ厚地の紺か茶色っぽいスラックス二着だけ。あ、何時の間にか二着とも赤や緑の絵の具が膝や裾の辺りに付いてしまっている。うーん、こりゃ矢張り一張羅のたった一枚しかない(着る機会が全く無いので)昔買った花柄ワンピースを着る以外、手立ては無い。思い切ってワンピースを着る。着慣れてないので、下の方がスースーしていて何だか情緒不安定。
「いらしゃい」と多恵さんドアを明ける。
目の前に多分目一杯お洒落して来たに違いない池田理恵ちゃんの姿。
心の中でうーんと唸る多恵さん。
「マ、入って頂だい」彼女を招じ入れた。
「おじゃましまーす。何時もながら明るくて、外の眺めも最高」
「まあ座って」
「この間のスケッチ旅行、瀞八丁に行ったんですってね。う、羨ましい」
「瀞八丁、好き?」これを聞かねば話にならない。
「も、勿論ですよ、あそこはわたしの憧れなんです。住みたい位なんです」
オー良く言った理恵ちゃんよ、その言葉を待っていたぞ。多恵さん、心の内でにんまりする。
「そう、それは丁度良かったわ、わたしそう云う人探してたんだ」
「へ、どういう意味ですか、それ?」
「これがその瀞八丁でスケッチした物よ。あ、これが近くの熊野の大社でスケッチした物。泊まったのが十津川温泉で、描きに行こうと思えば直ぐいける所に有るの。旅館には車もあるし・・ま、これは当たり前だけど」
でも、彼女、多恵さんの話を殆ど聞いていない。多恵さんのスケッチに夢中なのだ。
仕方なく紅茶を入れ、買って置いたケーキと一緒に持ってくる。
「何処もかしこもこれぞ日本て言う感じですね。それに河原崎先生の画、素晴しい。わたしも毎日練習に励んで、先生の万分の一にでも成りたいわ」
「そう、練習が大事よね。それも実物と面と向かい合って描けば、屹度池田さんだったら直ぐに上達すると思うわ」
「本とですか、冗談半分でも嬉しいな」理恵ちゃんそこでケーキをパクリ、紅茶をごくごく飲み干した。
うーぬ、ちょっとこのガサツさは旅館の女将さんどころか仲居さんにも向いていないかもなあ。多恵さん考え込む。
まあそれでも一応切り出してみるか、と多恵さん重くなった気分を振り払い、話をする事にした。
「ねえこの写真を見て」空港で撮った写真を差し出す。
「あ、飛行機で行ったんですか?」
「ううん、往路は夜行バスで行ったの、野口さんと一緒だったから。それは帰り。宿の息子さんが車で送って下さったの」
「へえ、随分親切ですね、先生一人だけでしょう、ヤッパリ美人は徳だなあ」
「そうじゃないのよ、わたしがその温泉宿をスケッチしたのを上げたから、そのお礼の意味でよ」
「成る程、先生の画素敵だから、旅館の人、喜んだでしょう」
「ええ、額に入れて飾るんですって」
「それは当たり前でしょう」
「お弁当も。とても豪華だったわ、お昼も夕食の方も」
「羨ましい、わたしの画じゃ誰も感謝してくれないわ」
「そんな話よりこの男性、どう思う?」
「え、男性?」
「ほら此処に写ってる男の人よ、旅館の息子さん」
「ああ、先生を空港まで送っていった人ですよね、この人どうかしました」
「別にどうもしないけど、この人見てどう感じるか、あなたの感想を聞きたいの」
「えーと、普通の人ですね。それでは駄目ですか?」
「駄目って事はないけど。彼ね、今花嫁募集中なの。それであなたに如何かなって思って」
「は、は、花嫁候補。わたしがですか、このわたしがですよ」
「ええ、後ちょっと、も少し行儀やマナーを勉強しなければ成らないけど、若いし、健康だし、何よりも此処の景色が大好きそうじゃない、あなたにぴったりだと考えたの」
「そそりゃ、多分ここいら辺りの景色、大好きだと思います。で、でも、彼の花嫁候補と言う事はその旅館の女将さんの候補でもあるんですよ。わたしにはとても無理だと思います。だって、接客なんて全然出来ないし、先生に言われるまでもなくガサツだし、お花もお茶もお琴も三味線も、日本文化、丸っきり出来ない。日本の自然が大好きだけど、文化の方は勘弁してくれって言う所です」
「そんな事より、まず、この男性が気に入るかどうかよ。それ以外のことはその次に考えるとして」
「はー・・・」じっと写真を見つめる理恵ちゃん。
「わたしには・・なんか勿体無いくらいの感じの人です。本とにわたしが花嫁候補で良いのでしょうか。
もっと他に、例えば、山本さんや村瀬さんみたいな美形の方が好いんじゃないんですか」
「でも、はっきり言って此処はとても田舎よ。こんな所が大好きな人じゃなくては駄目だし、忙しい女将さん修行をやりこなす体力も必要。総合してあなたが一番ぴったりの人材だとわたしは判断したの」
「そ、そうですか・・わたしが一番ピッタリ、なんですね。こんなわたしが・・」
「そんなに卑下する事はないは、あなたは気付いていないかも知れないけど、マナーを見に付け、少し顔の手入れをするだけで、十分可愛く感じ良くなる事間違いないわ」
「顔の手入れですかあ。今日、わたし、少し化粧してきたんですが」
多恵さん、理恵ちゃんの顔を眺める。
「顔の手入れってファンデーションを厚く塗ることではないのよ。顔の毛を剃るだけでもスッキリするわ。そしたらファンデーションは本の少しで事足りるの。それよりか、その眉よ。我々画家や文を書く人は人相学的に眉の濃い人が多いのよ、あなたもとても濃いわ。それを少しカットして。こんな風に、櫛とカットバサミではみ出てる物をカットして行くの。ほらこれだけでも大分スッキリしたでしょう。そしたら眉の一番高い所が目の大体3分の2ぐらいか、その外側になるように、眉ペンシルでちょっと書き足すて、よーくブロウブラッシュでぼかすの。そうすると、ね、全然別人の感じ」
「あ、本と、わたしの顔、何時もべそ書いてるみたいと思っていたけど、眉を直すだけで良かったんですね」
「今日は写真撮るからオデコと上目蓋、頬にハイライトを少々入れるわね。それに口紅。その洋服には・・口紅もアイシャドーも洋服に合わせてね、カラーコーデイネイトが大事。わたしの口紅の中ではこれが好いわ。これをリップブラッシで塗る。上唇は下唇よりやや薄めにね。それから下唇は少し下の口角が上がるように描くと好いわ。フフ、流石画家ね、上手い上手い、筆使い最高」
理恵ちゃん、少し嫌がったが写真の為にはマスカラも必要と、説得して軽めに塗った。ついでに茶色のシャドーをアイライン代わりに睫毛に沿って少し入れる。
「はー、会社の女の子は毎朝こうやって出社して来るんだ。ご苦労さんな事だなあ」
「あなたもこれから少しずつ、せめて眉くらいは整えて出社して行きなさい」
「みんな吃驚するかなあ。それともわたしのことみんな気にしてないから気付かないかも」
「少しずつ変えていけば、そう言えば池田さんこの頃何だか垢抜けして綺麗になった見たいと思ってくれるわよ」
「まあ、今までが酷すぎたからなあ」天を仰ぐ理恵ちゃん
「さあ、ベランダに立って。あんまり写真を意識しないでね。笑顔は欲しいけど、作り笑いと言うのも良くないわ」
「中々、注文多いですね。注文の多い料理屋さんみたい、ハハハ」そこで、パチリ。
「あ、今の大口明けて笑っていたのに、それ没にしてください」
兎も角アレコレ撮り、その中からわたしと彼女が気に入った物を3,4枚選び出し、即聞いていたスマホに送った。
「矢張り化粧もそうですがマナーも気をつけなくちゃいけないんですね。うーん、朝寝坊も出来ないし、これから忙しくなるなあ。瀞八丁の花嫁になるために、頑張ってみるか」
彼女が帰って直ぐに十津川温泉の若旦那の卵さんから電話があった。
彼の名は千尋和広と言う。
「先ほどはありがとうございました。とても可愛い方ですね、この方も画家をなさっているんですか」
「ええそうよ。彼女もわたしと同じで自然の風景画が専門なの。瀞八丁や熊野古道を描きたいと常々言ってたから、声を掛けてみたの」
「それで、俺、気に入ってもらえたかな?」
「まあ焦らないで。多分気に入ってると思うわ。でも、女将さんには今は程遠いと思わざるをえないな」
「そんなのは此処に来てから勉強すれば良いよ、内の母さんだって喜んで教えてくれるよ」
「それはそうだけど、も少し時間を頂だい。少しこのコロナが落ち着いたら、一度画を描きに行かせるわ
そこで二人の相性とか、女将という仕事という物がどんな物なのか、彼女に知って欲しいの。それで彼女もあなたも互いに気が合って、女将の仕事も大丈夫だと思えば、これは正しくめでたしめでたしという所なのよね」
「女将の仕事かあ、こりゃ、本当に大変なんだよな。母さん見ててつくづく感じる物」
「彼女、体だけは丈夫なの。只ちょっとガサツに出来てるのがわたしも彼女自身も心配」
「ガサツなんて平気ですよ、早く彼女此処に画を描きに来てくれないかなあ。コロナなんてここいらじゃ何処で流行ってるだと思いますが、確実に客足だけはガクンと減ってます。そうですね、コロナが収まった時より今の客足が遠のいた時の方が、ゆっくり応対できるし、彼女の画を描くのに俺も付き合えると思うんですが」
有無、まあ彼の話にも一理ある。
「解ったわ彼女に話してみる。でも会社の都合もあるから、直ぐと言う訳には行かないでしょうから」
「勤めていらしゃるんですか、彼女」
「そうよ、画家が画だけで生活出来るってとても難しいの、本の一握り。彼女も早く画だけで生きて行きたいと思っているんだけど」
「先生はその一握りの一人なんですね」
「いえいえ、わたしにはわたしの画にぞっこんのパトロンが、つまり夫がいるからぬくぬくとしていられるのよ。まあ、この頃そのパトロンが少し増えて大分楽になって来たけれど」
「そうですか、大変なんですね、ただ画を描いていれば良いと云う訳には行かないんだ」
「画をみんなに認められたくって、絵描きは美術展に画を出品するんだけれど、その美術展に出す画ってとても大きいの、だから美術展が終わると、その保管が大変なのよ。それで泣く泣くその画を処分するしかない人が少なくないわ。せめて出品するのがもっともっと小さいと良いんだけれど、大抵100号前後に決まっているのよ。美術館が広くて画が迫力負けするのを心配してるのかしら」
「色々大変なんだ、俺達は単に画を見て、これは好きだとか、余り好きじゃないとか言って、その画が後々どうなるか全く考えてもいない・・」
「でも見てくれるだけでも嬉しいわ、それだけでも画家は救われるの、描いた甲斐があったって」
前も言ってけど、彼が本当に絵画好きであることが解って、これは大きな収穫だった。さっそく彼女に知らせてあげよう。
世の中益々コロナで騒がしい。もう遠くに遠征するのは出来そうもない。
そんな中、理恵ちゃんは有給の許可が下りたので十津川温泉に出かけるとか。
「白浜空港まで和弘さんが迎えに来てくれるんですって」彼女の嬉しそうな顔。
恋をすると美人になると言うが真実だった。服装ばかりでなく、顔は勿論、髪の毛のスタイルまで別人のように格好良くなっている。もう多恵さんが口出しする事はなさそうだ。
「気を付けて行ってらっしゃい。まあ、気に入らなかったら持て成しの礼だけはきちんと言って、勤めが有りますからと帰ってくれば良いんだから、気楽な気分で行きなさい。画を描くのも忘れないでね」
大学も学校もオンラインで始まっていたので、家には何時も大樹さんと真理ちゃんがいる。
お陰で、多恵さんはお昼ご飯の準備の仕事が増えた。これが中々大変だ。普通は土曜と日曜だけなのでそれ程苦にはならなかったが、毎日となるとお昼向きの料理を手を変え品を変え、ひねり出さなくては成らないのだ。母は偉かった、あんな好き嫌いの多い父のお昼ごはんを毎日作り続けているのだものと、今更ながら多恵さんは感心するしかない。
大樹さんは「そんな物、適当でいいよ」と言うが、この適当が一番厄介なのだ。「うな丼食べたい」とか「マツタケの天麩羅食べたい」と言われた方がまだ増しだ。そんなの無理に決まっているから、うなぎをアナゴに、マツタケを椎茸に代えて出せば良いだけの事、洒落の分かる大樹さんだから「うん、今日のうなぎは少し柔らかいね」と笑い飛ばすだろう。
そうした忙しさに多恵さん、スッカリ理恵ちゃんの事を失念していた。
もう5月になった。熊野古道を大体書き上げて、次ぎは瀞八丁に取り掛かろうとして多恵さん、はっと思い出した。
彼女一体どうしたんだろう。「無事こちらに着きましたよ」と言う電話以来梨のつぶて。
ウムムム、電話がないとすれば彼女やはり、女将には向いてないと断られたか。
あのマナー知らずのガサツさだものなあ、凄い美人ならマナー違反も目を瞑ってという事になるんだろうけれど、にわか美人(?)じゃ化けの皮が剥がれて、こりゃ駄目だってことになってるんだ。
多恵さん、妄想を巡らす日々が続く。
それからゴールデンウイークが明けた頃、やっと彼女から電話があった。
「すみません、長い事連絡しないで。明日、午後伺っても宜しいでしょうか」
おっ、彼女が宜しいでしょうか、なんて言葉を使ったのを初めて聞いたぞと、多恵さん少々驚く。
彼女がやって来た。髪はスッキリ短く切って、服装はジーンズに薄青いチェックのシャツ姿だった。
他の人がそんな姿をしても誰も驚かないが、彼女が普通の格好をしているのは、矢張りただ事ではないと多恵さんは感じた。
「お土産です」彼女がそう云うと、お酒や山菜の漬物、温泉饅頭の入った袋を差し出した。
「と言っても向こうの女将さんが下さった物ですが。へへへ」
「まあ、だったら向こうの女将さんに気に入られたのね。良かったあ」
「はい、何とか、いや、大いに、気に入られました。そこで向こうで、先ずは仲居見習いとして暫く働く事に決めたんです。今コロナで旅館の経営も大変なんですが、あそこは大手と違って、近場の常連のお客さんが相手ですから、それ程今の所響いては居ないんです。でも、前ほど忙しくないのでわたしみたいなずぶの素人には丁度良いみたいです」
「そう、そうだったの。あれから全然連絡ないから、屹度駄目だったに違いない、わたしに言いにくくて
言い出せないんだと考えていた所のよ」
「へえ、女将さんにも叱られたんです、どうして連絡しないのかって」
「どうしてなの、、和弘さんが余り好きでなくなったとか」
「とーんでもありません、和広さんはそりゃ優しくて良い人。写真よりも良い男だし」
「ハイ、御ちそう様。悪かったわね写真の撮り方が下手で。それでどうしてなの?」
「だってえ、瀞八丁の絵、余りと言うか全然描けていないんだもの」
「え、どうして?旅館はそんなに忙しくなかったんでしょう。一枚くらいは描いて来てよ」
「そ、そうなんですよね、一枚くらいは描けても良いんじゃないかと、わたしも思うんですが。船で和広さんと見て周ったんですが、中々描けなくて。あんまり美しすぎるのかなあ」
「今は描けなくても、和広さんへの熱情も落ち着いて、仕事への手順にも慣れて来たら屹度かけるわよ。だって、瀞八丁が大好きなあなたなんですもの」
「でも、その代わりと言ちゃなんですけど、お客さんの似顔絵を描いて上げてるんです。それがお客さんに大好評でして、わあ、今度は友達連れてくるとか、祖母ちゃんつれてくるから宜しくなんて。女将さんも大喜びで、即会社辞めて内で働きなさいって事になったんです」
「成る程、大体解ったわ。あなたの家のご両親はどう思って居らしゃるのかしら」
「わたしの両親ですかあ、両親はわたしが結婚出来るなんて今まで考えた事もなかったもので、少し慌ててます。でも和広さんに会って良い人だと判ったみたいですし、それに女将さんもとても良い人だと喜んでいます。行く行くは二人して十津川温泉に移り住みたいなんて、この頃は言ってるみたいですよ」
「じゃあ万々歳なのねあなたと和広さん。うん、めでたしめでたし。これからも上手くやって頂だい、瀞八丁が描けなくてもそれが一番」
「女将さんも河原崎先生に何とお礼を言ったら良いのかと感謝しきりです。あ、それからあの旅館の画、素敵ですね。先輩の仲居さんに聞いたら、朝、ちょっとの間、出かけているなと思ったら、もう描いてあったと言うじゃないですか、わたしにはそんな芸当出来ません。屹度その大いなる引け目があって、瀞八丁の画が描けないのかも知れない」
ウムムム、それは一理あるかも知れない。単に初めての恋らしき恋に何もかもが見えなくなってしまったかと思っていたが、同じ画家の立場であると見られている池田画伯にして見れば、わたしはそんなに早く、増して上手くは描けませんとはとは禁句だ。
「まあ、人の顔でもデッサンしていれば、腕も上がるし、心も落ち着くわ。周りはあなたの好きな景色が一杯。しかも逃げないで待っててくれるわ。画はスピードじゃないんだから、わたしはジックリ、ゆっくり派の画家なんですとでんと構えて居ればいいのよ」
「ジックリ、ゆっくり派なら上手くなくてはいけないじゃ有りませんか」
「画は上手下手では有りません、その物の本質を画家自身がどう捕らえているか、それが大事なのですと教えてあげなさい。そしたらもう怖い物無しでしょう」
「ふーん、そう言って誤魔化すのか。和弘さんだけは誤魔化せるかも知れないけど、他の人はねえ」
「馬鹿ねえ、これは真実の教えよ。だから堂々としていれば良いの。その内みんな、そんなもんかと納得するわよ」
「へえ、だったら良いですよね。でも先生の画を理想とするわたしなんだから、先生の画に近づいて行きます、それでも堂々としていられます?」
「理想を乗り越えて行ってこそ、本物の画家なのよ。画家だけじゃない、どんな物にもお手本とするものがあるわ。それに近づこうと志のあるものならば、だんだん似てくるのは当たり前、でもそのお手本を乗り超えて行かなければ、発展も進歩もない。だからあなたは画だけでなく、いずれ女将さんになるんだったら、今の女将さんを先生として見習い、それを超えて行かなくちゃいけないの。でも決してあせちゃあいけない、ゆっくりね。先生を敬い、尊敬してね」
「はい、中々難しいですが頑張ります」
「じゃ、わたしの似顔絵を一枚描いてもらおうかな、ウンと美人にね」
スケッチブックと色鉛筆を渡す。
「ええっ、先生の似顔絵をわたしが描くんですか?そそれは・・少し恥かしいなあ」
「これから先、どんなお客人が噂を聞きつけて来てくださるか判らないのよ。わたしの似顔絵なんぞにビビッて居たら勤まらないわ」
「はい分りました。先生をウンと美人にかあ。先生美人なんだからそれ以上は無理です、本物どおりに描けば正解ですね」
ぶつぶつ言いながらも理恵ちゃん、多恵さんとスケッチブックと格闘する。出来上がった。
「こ、これで如何でしょうか?」恭しく画を多恵さんに渡す。
「うーん、中々良いタッチだわね。相手の気に入ってる所を強調する方が相手も喜ぶと思う。反対に気にしている所を強調すれば相手に良く似てくるかもしれないけど、お客様へのサービスなんだから、少々似てなくてもそこは控えめにね。でも特徴を良く捕らえているわ。これあなたの思い出として大事にするわ、ありがとう」
「否だー先生、そんなこと言うと何だか長い、長いお別れみたいじゃないですか。わたし、これからも先生のとこへズーと来るんですからね!」
理恵ちゃんはそういい残して帰って行った。
コロナは少しずつ下火になって行った様にも見えたが、まだまだ油断が出来る状態では全くなっていなかった。オリンピックは当然延期(何時まで延期するのか、それが大問題だけど)勤めも学校も、ましてや行楽地に行く事も憚られ、ただただじっと我が家に閉じこもる日々が続いた。
ふと多恵さん、一年前を思い出した。あの長野のビーナスラインの日々。自然の美しさに、魂を揺さぶられ、はたまた、幽霊さん達の理不尽な身の上に同情させられたり、その一方で彼等の余りに自由奔放な日常に、ある羨ましさを覚えたりした。
でも待てよ、あの石森氏の元奥さんのやってる蕎麦屋さん、今どうなってるだろう。少し所か大いに心配
ちょっと幽霊共に様子を伺わせようか。だがそれを聞いて多恵さんが何が出来る訳ではない。
又霊の写真を取り出す。
「ねえ、あの石森さんの蕎麦屋さん、今どうなってるかしら?何か情報あったら、下の六色沼公園まで行くから、待ってて」
「ママ、ちょっとお使いに行くから真理ちゃん、お留守番お願いね。直ぐ帰るわ」
と娘に声をかけて六色沼へ。
六色沼の真ん中辺りに行くと、彼等、杉山君に良介君、おまけに輝美さんまでが多恵さんを待っていた。
「コロナの所為で六色沼も殆ど人が居ませんねえ、犬の散歩をさせている人くらいです」
杉山君が嬉しそうに話しかけた。
「で、どうなの石森さんの蕎麦屋さんは」
「うーん、こんな状態ですからね、あそこも今大変ですよ。今は辛抱するしかない!」
「でも、この頃評判が良くなっていて、少ないながらもぼちぼち客が来てるみたいですよ」
「わたしもご馳走になったんですけど、蕎麦も美味しいし、そばつゆも中々ですよ」
良介君と輝美さんがフォローする。
「そう、それじゃ一先ず安心ね。潰れちゃってたらどうしようなんて考えていたの。わたしが考えても仕方ないけど」
「イヤーありがたいですよ。あの時お世話になったのに、その後まで心配して下さるなんて。あなたはわたし等幽霊の女神様みたいな方ですね」
突如そこに石森氏が現われた。
「わ、吃驚した。久しぶりですね、石森さん。わたしは幽霊さん達の女神様ではないわ。単に幽霊さん達が見えるだけ。若しわたしのアドバイスが的を得ているなら、それは・・わたしの行いの反省から来ているんだと思って頂だい。わたしを憎んでいる人への侘びを込めて言ってるの」
「マ、多くの男性を泣かせましたからね」杉山君がフォロウする。
「だけどわたし等からすれば、どれもありがたいアドバイスである事には変わりない、これからも宜しくお願いします」
幽霊さん達はどこからか、この町がイタリア料理が全国的に有名であることを聞きつけ、みんなしてイタリアンレストランを梯子するらしい。でも、コロナでやってるお店あるかな?
本当に、幽霊さん達って好き勝手で、憎めない奴らなんだから!!
次回に続く 乞う御期待!