50. 永遠なる魂
「そして、おそらく、上位の生命体もプログラミングされているだろう。ほかの生命体によってな」
イリアスが言った。
「時間と空間がループしている可能性もある。時間などというものは人間の想像の産物だ。人間が事象を認識するための、ただの尺度にすぎない。そんなものはないのに、過去と未来を区別するために、人間が時間という概念を創出した」
「毒と同じですね」
ラセルがにやりと笑って言う。
「そのとおりだ。時間は、毒や人権や自由や平等――といった概念と同じ類のものに過ぎない。人間は自分の都合で概念を創出する。だが、人間は宇宙ではない。だから、実際は、宇宙には現在しかないといえるし、逆に、10次元、11次元なんていうものも存在しうるのだ」
「ストリング理論ですね」
ラセルが思い出したように呟く。
イリアスが頷いた。
「ストリング理論によれば、1兆を41回1兆倍して、さらに1億倍したほどの数の宇宙が存在し得る。その中のひとつに我々がいるだけだ。その中のひとつが我々の世界であるだけだ。3次元、または4次元しか認識できない我々には、想像することもできないような世界が存在するということだ」
「――」
「我々がいま、こうして上位の生命体を仮定していることが、そもそもその上位の生命体を存在させているかもしれない。そして、それが巡り巡って、地球人を創造させているかもしれない。上位の上位は下位の下位ということだ。時間がない、もしくは時間がループしていると仮定すれば、ABCDはCDABでもよいからな」
イリアスはつらつらと言葉を連ね、息継ぎをして、すぐに話を再開する。
「もしくは、時間を空間として扱ってもよい。時間を空間として扱えば、虚数の時間が存在できる。我々が認識できる時間が実数の時間ならば、宇宙のはじまりの時間は虚数になりうるし、時間に端がなくなり、虚時間宇宙として成立する」
「……あの――正直……理解が追いつきません」
ラセルが瞬きを繰り返した。
「頭がおかしくなりそうだ」
ラセルが唸るように言う。彼でも限界らしかった。
「それもバグかもな。それか、理解が追いつかないよう、地球人によってプログラムされているか。そしたら、バグじゃない。それか、単に、地球人のプログラマの力不足か」
イリアスの返答を聞いて、ラセルがまた唸る。
リアナはとうの昔にふたりの話が理解できなくなっていた。
代わりに、リアナはラセルを観察していた。
生き生きとした目で科学を語るその姿を見ていた。
宇宙論について理解できない代わりに、ひとつ理解したことがあった。
ラセルの前世がだれであるか気づいたのだった。
十七年間隠し通してきたお互いの秘密は、たったここ数日で明らかになった。
まるで、いままで地道に並べてきたドミノが一瞬にして倒されていくような、怒濤の数日だった。
イリアスは時間は伸び縮みすると言った。
たしかに、そうなのだろう。
長い時間が流れたような気がするが、ラセルに別れを告げられたのは七日前、舞踏会は三日前だ。
この四日間は、いままでリアナ王女として生きてきた十七年間の人生をすべて足しても足りないほどに濃い時間だった。
この四日のような長い一日を毎日おくることができれば、一年が千年にも感じられ、同じ百年でも永久ともなる時間を生きることができるだろう――。
「――もしよろしければ、前世のときの名前を教えていただけませんか」
ラセルがイリアスに問うた。
「白銀北斗だ」
イリアスが懐かしそうに呟いた。
ラセルが瞠目した。
「まさか――あの白銀博士ですか!」
「あの白銀北斗がどの白銀北斗かはわからぬが、白銀北斗という物理学者が複数人いる確率は天文学的数字を分母に持つ確率になるだろうな」
イリアスが冗談めかして言った。
ラセルは信じられないという様子で、リアナのほうを向いた。
「リア、白銀博士だぞ」
ラセルが興奮した声をあげる。
リアナはどう反応するべきか困った。
国仲理愛の知っている人リストには白銀北斗という名前の人間はいなかった。
それか単に忘れているか。
いや、白銀北斗なんていう、まさに宇宙物理学者にぴったりな名前は一度聞いたら忘れないだろう。ということは知らないのだ。
「日本を代表する物理学者だぞ。遅かれ早かれノーベル賞を取るといわれていた――もし、若くしてお亡くなりにならなければ――」
絶対に受賞できていたのに、とラセルは言う。
「たしか、ノーベル賞は生きている人間にしか与えられないのよね」
リアナは言った。
「そうだ――よく知ってたな」
ラセルが意外そうな顔をする。
「あなたから聞いたもの。――前世のラセルから」
なんらかの賞を取るまで、マスコミは取り上げない。マスコミの人間は文系人間ばかりだから、画期的な論文が出ても、マスコミの人間はそれを理解できないから報道しないのだ。興味もないだろうから読みもしないだろう。
彼らが苦心してどうにか原稿を仕上げるのは、日本人がノーベル賞を取ったときだけだ。だから、大衆は画期的な発見を知らずに生きていく。――そんなことを前世のラセルから聞いたことがあった。
『大衆の知識は報道されたことに偏ることになる。ある意味で洗脳だ』
そう彼はぶつくさ言っていた。
ほとんどの人間は相対性理論も量子力学も知らずに生きていく。それらが真実であっても、知ろうとはしない。数式が並んだ本をわざわざ手に取って読む人間は極めて少ない。
そして、わざわざそれをした人間にしか、それらの宇宙の真理は存在しないのである。
「シミュレーションのどれかひとつやふたつでは白銀北斗は生きていて、ノーベル賞を取っているかもしれないな。いや、確実にそうだろう」
そう言ってから、イリアスは立ち上がった。
「残念だが、そろそろ行かねばならぬ。やはり同じ慣性系では時間は伸ばせないようだ」
イリアスの目線の先には、十人ばかりのラングの軍人が並んでいた。
彼は今日の午後にラングへの帰路へつく予定だった。
一帝国の皇帝なのだ。
そう何日も私事で国を空けられない。
今日中にトレオンとラングの故郷付近の街まで到着する旅程らしかった。
「この話の続きができる日を楽しみにしている。今日は、あまり順序立てずにまくし立ててしまったが、次に会うときまでに理論を洗練させておこう。できれば数式にまとめたい」
「さすが理論物理の最高峰ですね」
「――今日の今日まで、白銀北斗という男は自分の幻想かもしれないと思っていたがな」
イリアスが小さく嘲笑した。
「まったく――こう三十五年も生きていながら、この世界の謎について少しばかりも解き明かそうとしてこなかった。科学者の名折れだ。白銀北斗の名折れだな」
「その間、帝国を築いていたではありませんか」
リアナも立ち上がって、イリアスにほほ笑んだ。
「イリアス皇帝は苦しむ暴君から民を救っていらっしゃった。非常に価値があることだと思います」
イリアスは無言で小さく頷いた。
「そなたふたりをラングヴァルトのわたしの宮殿の賓客として招待しよう。女王になるまえに、ぜひ一度、いらしてくれ」
「ぜひ、そうさせていただきます」
リアナは右手を前に差し出した。
イリアスはリアナの手をとり、その甲に小さく口づけた。
「ラセル・レスク」
それからイリアスはラセルに向き直った。
「いろいろ、面倒をかけた。しかし、そなたとは今後、親睦を深められたらと思う」
「わたしもそう思っています。イリアス皇帝、いや白銀博士――」
ふたりの男はがっしりと握手をし、それから抱擁を交わした。
「では、ごきげんよう」
イリアスはリアナとラセルに背を向けると、主人を待つ臣下の方へと去っていった。
イリアスは一度もリアナたちのほうを振り向かなかった。
臣下が鞍をつけて準備してくれていた愛馬に跳び乗り、トレオン王宮の門を通り過ぎる――。
リアナとラセルは、ずっと無言で、そのイリアスの姿を見つめていた。
しかし、彼のその姿が消えるまで、イリアスはこちらを振り向くどころか、気にする仕草さえ見せなかった。
「わたし、あなたがだれなのかわかったわ」
イリアスの姿が見えなくなってから、リアナは言った。
「そうか」
ラセルが素っ気なく返事をする。
「でも、どうして、前世のあなたも男だったのに、乙女ゲームなんかしていたの?」
「言っただろ。りあがやっていたからプレーしてみたって」
「理由になっていないわ。わたしが好きだったネイルアートや酵素ダイエットは試さなかったでしょう」
「ああ――あのダイエット商品はぼったくりだったな」
ラセルが懐かしそうに言う。
高価な酵素ダイエットの商品を買って試していた国仲理愛に、前世のラセルは『100パーセント効果はない』と一喝したのだった。
ボーナスをはたいてそれを買っていた国仲理愛は彼に激怒した。
数あるふたりの喧嘩の中でも、二、三を争う口論だった。
「なんとかダイエット、と名の付いているものの九分九厘はガセだ。生物学的にはな。心理学的効果はあるかもしれない」
プラセボでも効果があるしな、と言ったラセルにリアナは笑いが込み上げてきた。
「本当に、大石諒の口調にそっくり」
リアナはくすくすと笑いながら言った。
「いままで、似ないように努力してきたのだがな」
ラセルはうっすらと頬を染めたように見えた。
「どうして?」
これについては謎だった。
なぜ、ラセルはリアナに頭がいいことを隠してきたのか。
なぜ、生命やその他の科学的知識に精通していることを隠してきたのか。
なぜ、学者になろうとしなかったのか。
「前世では、ラセル、研究者志望だったのに――」
「おまえ、前世のおれのこと、嫌いだっただろう」
ラセルが言葉を吐き捨てるように言った。
「嫌ってないわ」
「腐れ縁、腐れ縁って、会うたびに言われたぞ」
「だって、幼なじみじゃない」
「だからといって、腐れている、と言うのは失礼極まりない」
「腐っても鯛っていうわよ」
「それは使い方が間違っている」
リアナとラセル――国仲理愛と大石諒は幼なじみだった。
ふたりは奈良の平城宮の近くに住んでいて、ご近所同士だった。
高校までは同じ地元の公立の学校に、小中高と通った。
その後、国仲理愛は東京の女子大に合格して上京した。
大石諒は関西の大学に合格していたが、そこは蹴って、一浪して東京の名門大学に入学した。
大学こそ違うにせよ、男子が多い大石諒の大学は、国仲理愛の女子大と盛んに交流があり、共通のサークルも多かった。
理愛が所属していたテニスサークルに諒も入ることになり、ふたりはまた東京でもつるみはじめたのだった。
たしかに理愛は東京の友達にラセルを紹介するときに「腐れ縁」という言葉を使った。
別に諒が嫌いだったわけではない。
だが、恋愛感情もなかった諒を幼なじみとして紹介して、変な勘ぐりをされるのもいやだった。
そうなのだ。
理愛は諒に恋したことはなかった。
そして、理愛の推しキャラもラセルではなかった。
「乙女ゲームをプレーしたんだ。理愛が入れ込んでいるという男を知りたいと思って――」
ラセルが言った。
「おれは、りあが好きだった。前世でも――」
ラセルの告白にリアナは目を見開いた。
「だから、りあが入れ込んでいる男を調査しようと思って、乙女ゲームをプレーしてみたんだ」
「――」
「この世界にラセル・レスクとして生まれ変わってすぐ、リアナ王女が国仲理愛だとは気づいた。リアナ王女に国仲理愛の記憶があるとは知らなかったが。前世では、おまえのことを手に入れることはできなかった。だが、この世界では絶対におまえのことを手に入れたいと思ったんだ」
ラセルはリアナの手に自分の手を重ねた。
「おまえを振り向かせるために、あの手この手を尽くしたさ。前世で理愛が、科学的な話はつまらないと言っていたから言わないようにしたし、おれの理屈っぽいところが嫌いと言われたこともあったから、理屈は言わないようにもした。チョコレートもそのひとつだ。理愛がチョコレートが好きだったから、おまえも好きだろうと、毒まで売ってカカオを手に入れたりもした」
「ああ――ラセル……」
まだリアナは、目の前の男を「諒」とは呼べなかった。
今後一生、呼べる気がしない。
「あなたと――諒は全然違うわ。違う人間すぎる……」
「たしかに性格は変わったかもしれない。人は変わるものだろう。同じ世界でも変わるんだ。前世と現世、日本とトレオン――こんな違う環境に置かれれば、まったく異なる人間になるものだ。大石諒とラセル・レスクでは、遺伝子も違うしな。こんなイケメンに生まれ変われば、性格も大いに大胆になるさ」
ラセルは端正な顔でにやりと笑った。
たしかにまったく前世の彼とは違う。一見、影も形もない。
だが、大石諒だと思ってラセルを見ると、どこかにその面影が潜んでいるようにも見える。
「前世のおれは臆病だった。おまえに告白する勇気がなかった。おまえがおれを恋愛対象だと思っていないことも知っていたしな」
「でも――告白してくれれば……意識したかもしれないのに……」
「どうだろうな。告白したら幼なじみでもいられなくなったかもしれない。それは避けたかった」
ラセルがやるせなく笑う。
「でも、諦められなくて――乙女ゲームをやってみたんだ。それで、理愛がイリアス皇帝が好きだと知った。愕然としたよ。自分は――大石諒は、イリアスとは正反対の人間だ」
ああ、とリアナはため息を吐いた。
「――それで、わたしを振ったのね。イリアス皇帝が来る舞踏会の前に」
「そうだ。――おまえがイリアス皇帝を好きになって、それで振られるのは耐えられないと思った。だから、自分のほうから先に振ったんだ」
「そんなのひどいわ。わたし、ずっと、ラセルのことが好きだったのに。それを疑うなんて――。イリアス皇帝に出会っても、わたし――リアナは彼のことを好きにならなかったわ」
「本当にそう言い切れるか」
ラセルが眉根を寄せて訊く。
「ええ」
「イリアス皇帝に、好きだと言われてもか」
「……ええ」
「あの完璧なイリアス皇帝に、そなたなしでは生きていけない、などと言われてもか」
「…………ええ」
答えるたびに、リアナの口調から、どんどん確信が薄れていった。
実際、ラセルに振られたばかりで悲しみに暮れていたから、イリアスとダンスをしても、ほとんどときめかなかった。
ラセルに振られたことは衝撃的すぎた。
子ども向けのテレビ番組で急にアダルト用語が飛び交うような衝撃だった。
舞踏会では、ただ、ラセルの心を取り戻そうと躍起になっていた。
そんな衝撃と使命感の中にいたから、完璧な魅力のあるイリアスをまえにしても、まったく意識しなかった――とはいえなくはない。
乙女ゲームのシミュレーションのひとつには、リアナがラセルに別れを告げ、イリアスと結ばれるシナリオもあることだろう。
もちろん、ラセルに振られなくとも、リアナがラセルを選ぶというシナリオも存在するだろう。
そして、それらは存在しないかもしれない。
それらのシナリオは、存在しつつ、そして存在しないものなのだろう。
「おまえとイリアス皇帝との間になにも起こらず、ただ皇帝がラングに帰国したら、謝罪して寄りを戻してもらおうと思ってはいたがな」
「えっ!」
リアナは金切り声をあげると、ラセルが肩をすくめた。
「それはそうだろ。イリアス皇帝がいなくなったら、おまえと別れる理由はないんだ。裁きが起きたことは予想外だったがな」
「――そんな……ひどいわ。ラセルに振られて三日も泣いたのに」
「聞いた。それは――ある意味で、嬉しかったな」
「ひどい」
ラセルはどこかサディスティックな笑みを浮かべていた。
理愛の顔に虫を突きつけてきた大石諒を連想させた。
「寄りを戻そうと言われても、わたしが承諾しなかった可能性もあるわよ」
腹がたったので、リアナは反撃した。
「一度振っておいて、そう簡単に寄りを戻せるはずがないでしょう」
「そうか? やはりおまえとおれは結ばれる定めだと悟った――とでも言ったら、ほいほい戻ってきてくれると思ったが」
ラセルは不敵な笑みを浮かべて片眉を上げた。
ほいほい、という表現は気に食わなかったが、実際、ラセルは正しい。
リアナは嬉々として、元の鞘に収まっただろう。
ラセルは機嫌良く笑っていた。
いままでのラセルはこんな表情は滅多に見せなかった。
これまで鍵をかけていた心のドアのいくつかをラセルは開け放ったのだろう。
大石諒はよく理愛を困らせては楽しんでいた。
正直、嫌な奴だと思っていた。
アゲハチョウの幼虫を触らせようとしてきたときが一番いやだった。
『毒はない』と大石諒は言った。――そういう問題ではない。
「イケメンに生まれ変わっても、意地悪なところは変わっていないわね。臆病なところも変わっていない。振られる可能性があるなら、振られないために先に振ってしまえ、なんて――」
臆病すぎる。
まるで奈良公園のシカだ。
シカは本来とても臆病で、少しでも人間の姿が見えると逃げ去ってしまう。
一方で、人に慣れた奈良公園のシカはふてぶてしい。せんべいをねだって頭突きをしてくる。
だが、少し大きな音を立てて脅せば、身体を震わせて一目散に去っていくのだ。
奈良公園のシカが本能を捨て去れないように、ラセルも心の奥底では大石諒と同じ人間なのだろう。
絶対にリアナと両想いだとわかっていても、告白してくれるまで十年もかかった。
イリアスが来ると知れば、振られるまえにリアナを振った。
――そして……。
前世でも、現世でも、リアを好きでいてくれた。
ずっと変わらず、リアを愛してくれた。
「あなたがラセルに生まれ変わったのは定めだったのかもしれない」
リアナはラセルの腕に触れた。
ラセル・レスクはヒロインを溺愛するキャラクターだった。
何が起きても、ずっとヒロインを愛していた。
国仲理愛がヒロインとなったシナリオで、ラセル・レスクに適役なのは大石諒以外にはありえない。
「おれも、ラセルでよかった。この世界でもリアナのそばに生まれて、幼なじみにもなれたからな」
そして、とラセルがリアナの頬に触れた。
「リアが理愛でよかった――」
ラセルから口づけが振ってきた。
――わたしも、ラセルが諒でよかった。
前世では恋愛対象になかったというのに、なぜだかリアナは心からそう思った。
「これからも諒みたいに意地悪はしないでね」
リアナは上目遣いでラセルを見た。
「諒は意地悪だったから、恋愛対象外だったのよ」
「あれは――理愛の気を引くためだったんだがな」
ラセルははにかんだ。
「好きな子はいじめたくなるだろう」




