46. 廃人と常人の境界
「そなたたちはいつからお互いが地球の記憶を持っていると知った?」
イリアスが質した。
リアナとラセル、それにイリアスの三人はトレオン王宮の庭園にいた。
いつもはリアナの母が淑女たちとお茶を楽しむテーブルで、峻峭とした目つきのイリアスと対峙していた。
リアナはてっきり、どこかの部屋で話すものと思っていたが、イリアスが庭園での会話を望んだのだ。
確かに、理に適っていた。
この会話は衛兵や護衛すらにも聞かせたくないものだった。
人払いをしても、壁に耳を当てている人がいないとは言い切れない。
左右の部屋に人がいなくとも、上階か下階にいるかもしれない。
壁があっては、壁の内側にいる人間は壁の外側にだれかがいる可能世を否定はできない。
宇宙の中にいる人間が、宇宙の外側を観測できないように。
庭園ならば、人が近くにいれば視界に入るし、声の振動は四方八方に散らばって、すぐに空気に溶ける。
室内と違って、十メートルも離れていれば、会話は絶対に聞こえない。
「実は、わたしたちがお互いが前世の記憶があると知ったのは、つい最近なんです」
リアナはイリアスに言った。
「いつだ?」
イリアスがまた質問する。
「ああ、おれもそれを考えていた」
ラセルも口を挟んだ。
「いつ、どうやって、気づいたんだ。感づかれないように、かなり慎重に行動していたはずなんだが」
ラセルが腕組みをした。
「ラセルのお屋敷に行ったのです」
リアナは正直に白状した。
「城を抜け出してか」
ラセルが意外そうに片眉を上げた。
ええ、とリアナは頷いた。
「そこで、ラセルの覚書きのような紙をたくさん見つけて、それで――」
リアナの答えを聞いて、ラセルはさらに意外そうな顔をした。
「それでよくわかったな。――というか、よくおれが書いている内容が理解できたな」
だれにも理解できないように書いていたはずなんだが、とラセルが付け加える。
「正直、理解はできなかったわ。でも、前世の記憶がないと知り得ない言葉が使われていたから」
「知り得ない言葉?」
ラセルが首を傾げる。
「ソメイヨシノよ」
「ソメイヨシノ?」
ラセルがリアナの言葉を繰り返した。
「ソメイヨシノって、ソメイ・ヨシノで、ヨシノって桜で有名な奈良の吉野のことでしょう」
国仲理愛は奈良生まれだった。そうでなかったら気づかなかっただろう。
「この世界には吉野は存在しない。だから、この世界ではソメイヨシノは単に『サクラ』か、『ウスモモザクラ』って呼ばれてる。だから、ウスモモザクラのことをソメイヨシノって書いたラセルは、前世で日本人だったはずだって思ったの」
リアナの説明を聞きながら、なるほど、とラセルが頷いていた。
「しかもソメイヨシノのソメイも地名だ。江戸時代に桜を交配してソメイヨシノを作った植木職人が住んでいたのが染井村だ。染井村の吉野桜だから、ソメイヨシノ」
へえ、とリアナはラセルの知識に感心した。
「まあ、ソメイヨシノはこれっぽっちも吉野桜ではないんだがな」
「どういうこと?」
「つまり――いや、気にするな。長くなる」
「聞きたいわ」
「それより、リアナの言うとおりだ。たしかに、地球上の地名や人名が元になっている名詞は、この世界では別の呼ばれ方をしているな」
ラセルはリアナの要求を無視して話題を戻した。
伯爵グレイはハリエル産だ。
ちなみに、ラセルによるとアルキメデスの原理は浮力均衡の法則と呼ばれているらしい。
「ラセルはどうして、わたしに前世の記憶があるって気づいたの?」
「おまえと似たような理由だ」
「それって?」
「覆水盆に返らず」
ラセルが淡泊に言った。
「覆水盆に返らず? それがどうかしたの?」
「覆水盆に返らず、とおれが言ったとき、リアはその意味を理解した。それで気づいたんだ」
まだ、リアナには理解できなかった。
この世界でもことわざは使われる。この世界の人間も、大は小を兼ねる、猿も木から落ちる――といった言葉を時々言うことがある。
つい先ほども、能ある鷹は爪隠すという言葉がシェリルの口から出たばかりである。
「故事か」
そう呟いたのはイリアスだった。
「コジ?」
「故事成語だ。覆水盆に返らずは、古代中国の故事が元になっている。確か、周の呂尚の言葉であったはずだ」
その呂尚が存在しなかったこの世界では、覆水盆に返らずという言葉は生まれない。
この世界で同じことを言いたかったら、単に「取り返しがつかない」と言うくらいだ。
「――たしかに……言われてみれば。日本人だったときから、お盆に水を注ぐのは不自然だと思ったことがあったのよね。覆水器に返らず、ならばまだしも――」
「古代中国には盆に水を注ぐ文化でもあったのかもしれないな」
イリアスが言う。顔がわずかに笑っている。冗談のつもりで言ったのだろう。
まんざら冗談ではないのではとリアナは思った。
文化が言葉を形成する。その逆ではない。
「英語ではこぼれるのはミルクですし」
英語圏では古代からミルクが飲まれてきた。
「There is no crying over spilt milk――だな」
イリアスが綺麗な発音で言った。イギリス紳士のようなブリティッシュ・イングリッシュだった。
「面白い」
ラセルが独り言のように言った。
「本来、哺乳類は赤ん坊のときしか、ミルクは飲めない。人間だけだ、ミルクを飲むのは。ラクターゼ活性持続遺伝子は7000年ほど前にヨーロッパで生まれたらしい。英語では水がミルクなのも頷ける」
「ラクターゼ活性……なに?」
ラセルの言った内容が理解できなかった。
「研究者だったのか」
イリアスは別の質問をラセルにした。
「いえ――」
ラセルはイリアスを見ていた。ラセルは彼の質問のほうに答えることにしたようだった。
イリアスの質問には終助詞の「か」が含まれていたからか。
「研究者ではありません」
ラセルが答えた。
意外な答えだった。
「えっ」
リアナは思わず小さく声をあげた。
ラセルが前世で学者かなにかだったから、たくさんの知識を持っていると推していたのだ。
「博士課程までは進みましたが、学生の頃の記憶しかありません。おそらく社会人にならずに――死んだのだと思います」
ラセルは固い口調で言った。
社会人、そんな言葉を久しぶりに聞いた。
いま思うと変な言葉だと思う。子どもでも学生でも、社会に生きる「社会人」ではないか。
やはり文化が言葉を形成する。
事実、英語には「社会人」と同一の概念を持つ言葉はない。似た意味で使われるのは「adult」だ。
「博士の学生は十分すぎるほど研究者だよ。大学教授なんかよりもずっと研究をしている」
イリアスが言った。
「よくご存じですね。イリアス皇帝も研究者だったのですか」
「専門は物理だ。そなたは?」
「遺伝子工学でした」
「役立ちそうな分野だな」
「いえ――この世界にはシーケンサもPCRもありませんから、ほとんど無力です。機械の使い方は知っていても、作り方は知らないので。同じ工学であっても。物理のほうが役に立つのでは?」
「わたしは理論物理だったからね。理論を証明してくれる実験物理学者がいないと、いくら理論を考えても――」
イリアスは最後まで言葉を続けなかった。
かわりにこう言った。
「今日はすばらしい日だ」
イリアスは晴れ晴れとした顔で続けた。
「日本も地球も宇宙も――すべてわたしの幻想、いや妄想だと思っていた。今日はじめて、自分の残像が虚像ではないと証明された」
イリアスは言って、大きく息を吐いた。
「この世界から考えれば、2020年代の日本はサイエンス・フィクションの世界だ。そんな世界が現実にあると信じて疑わない自分は、頭がいかれているのではないか。そう、何度も自問した。頭が狂って、発狂して、廃人となった人間の話を聞くたびに――自分もその中のひとりではないかと案じた。だが、ついに、自分が正常だったと確信ができた」
さぞ安堵したというよう様子で微笑した。魅力的な笑みだった。
大好きなラセルが隣にいても、リアナはイリアスが魅力的だと思わざるをえなかった。
恋、とは違う。
人として他人を魅せる魅力がある。
きっとスパルタクスもカエサルもクレオパトラも、カール大帝も源義経もフビライハンも、こんな魅力があったのだろう。
――この人が愛したという女性はどんな人だったのだろう。
リアナは絵でも見たことがない女性に思いを馳せた。
「わたしも――前世の記憶は隠したほうがいいとは思っていました。自分は21世紀の日本から来た、なんて言っても、だれにも理解されないし、頭がおかしいと思われるから」
でも――とリアナは続けた。
「わたしは、乙女ゲームをプレーしたことがあったので、イリアス皇帝のように悩むことはありませんでした。自分は乙女ゲームの世界に生まれ変わってしまって、前世を覚えているだけだと、そう確信していました」
「おれもだ」
ラセルが言った。




