40. 泥と糞とチョコレート
「ラセル・レスク、あなたはなぜ毒物の密売を行ったのですか」
代言人が証言台に立つラセルに問うた。ラセルの代言人だ。
「毒物というものは存在しないと、先ほど、述べたはずです」
ラセルはその代言人が敵であるかのように淡々と答えた。
これは演技のうちなのだろう。
「失礼。毒物ではないならば、何と呼べばよいのです? 人に害を及ぼす物質ですか」
「それもひとつの言い方になり得ます」
「――では、質問にお答えください。なぜあなたはそのような物質を密売したのですか」
「お金が欲しかったからです」
ラセルが即答した。
「お金? あなたは貴族です。生活に不自由はしていなはず。五歳児が密売をしてまで、欲しいものがあったというのですか。そんなに喉から手が出るほど欲しいものが?」
「はい。喉から手は出ませんが」
傍聴人から笑いが起こる。
「それは何だったのですか」
「カカオです」
「カカオ?」
「はい」
割符を運んできたのと同じ廷吏が、今度はカカオの実、カカオ豆、それからチョコレートを運んできた。
チョコレートは凝った彫りで装飾された木箱に並んで入れられていた。
「何ですか、これは? 薬かなにかですか」
「ある意味ではそうです。薬と呼べるほどに顕著な効果を示すものではありませんが、いくつかの病気の予防薬としては有効だといわれています」
「だれか、この薬をあげたい人でもいたのですか」
「はい。薬としてではありませんが――」
リアナはラセルがリアナのほうを向くことを期待した。
しかし、彼がリアナのほうを向くことはなかった。
「カカオの実は薬としてよりも嗜好品として食べられます。カカオを原料とした菓子はチョコレートと呼ばれますが、その箱に入っているのがそうです」
「嗜好品ですか――」
代言人に眉根を寄せた。
「この茶色い奇妙なものを――食べるのですか」
「とても美味しいですよ。ひとつ、いかがですか」
代言人が恐る恐るといった様子で、チョコレートをひとかけら手に取る。
蠢いたミミズでも食べようというような仕草だ。
聴衆は、極めて汚らわしくみえる茶色の物体を口に入れた代言人を、嘔吐しそうな目で見ていた。
その様子はリアナには新鮮だった。
たしかにチョコレートを知らない者には、チョコレートは泥の塊か、獣の糞に見えなくもない。いや、それにしか見えないだろう。食べようなどとは思わないはずである。
あの茶色の物体が、この世が反転するほど、甘く、とろけるようなものだなんて思いもしない――。
「おいしい!」
代言人が大袈裟に叫んだ。
大袈裟すぎるほど大袈裟な感嘆だった。
「これならば、いくらでも食べられます」
そう言って、代言人はもうひとつ、チョコレートをつまみ上げて口に入れる。
しかし、傍聴人は彼の仕草に懐疑的な目を向けていた。
大根役者の演技に反感を抱くような目だ。
「皆さんも、どうですか」
ラセルは群衆に語りかける。
「こんなに美味しいものだとは! 一食する価値がありますよ!」
代言人も声を張り上げた。
しかし、だれも名乗りをあげようとしない。
「トレオンでは珍しいものですが、ここより南部の国では毎日のように食べられているものです」
ラセルが説明したが、やはり、だれも奇妙な茶色い物体を食べたいとは思わないようだ。
このままだれも名乗りをあげなかったら、自分が下に降りていこうか――リアナはそう思った。
「トレオンでは手に入らないので、チョコレートはあなたの一日分の賃金よりも高価なものでしょう」
ラセルが言い添える。
すると、ひとりの男が立ち上がった。
――金か……。
なんとも人間らしい、とリアナは苦笑した。
しかも、その男は少しぽっちゃりとしていた。食いしん坊のステレオタイプである。
廷吏がチョコレートの木箱を持って、そのぽっちゃり男のほうへと向かった。
そのぽっちゃり男も牛の糞でも食べようとするかのように、小さめの茶色の塊を口に入れた。
チョコレートを口に入れた瞬間、ぽっちゃり男は目を見開いた。
「お味はどうですか?」
ラセルが問うた。
男は答えなかった。
しかし、また木箱に手を入れ、今度は大きめの欠片を選んで口に放り込む。
さらに、ぽっちゃり男が再び木箱に手を伸ばしかけたので、廷吏は制しなくてはならなかった。
「他の方もぜひ、お味見をしてください」
ラセルの代言人がすすめた。
廷吏が持っている木箱にいくつかの手が伸びる。
茶色の塊を掴んだときには懐疑的だった顔色が、それを口に放り込んだあとは驚きか喜びに満ちていた。
木箱はすぐに空になった。
チョコレートにありつけなかった人々は残念そうな顔をしていた。
「つまり、あなたはこの美味なチョコレートを贈りたい人がいたのですね」
「そうです」
「なぜ贈りたかったのですか」
「それが、彼女の好物だったからです」
シェリルがリアナのほうを向いた。
「あなたのことよね?」
音にならないほど小さな声でシェリルが囁いた。
リアナは無言で頷いた。
「恋ですか」
代言人が言った。
「恥ずかしながら、そうですね」
「そのチョコレートを買うために、あなたはお金が欲しかったのですね」
「はい」
「その彼女の名前を教えてください」
「それは言えません。彼女は密売には関係がない。わたしが密売をしていたことも知らなかった。巻き込みたくはない」
ラセルは淡々と答えた。
そのラセルの答えは、なぜかリアナには少し残念に思われた。
「――しかし、彼女はこの法廷を聞いている、とは申しておきましょう」
リアナの胸がどくりと鳴った。
傍聴席の群衆は左右前後をきょろきょろと見渡す。
隣にいる女性がその「彼女」なのかもしれない。
だが、たとえその「彼女」がリアナだと知っていても、バルコニー席は傍聴席からは見えない。
「彼女とはどのようなご関係なのですか」
「ここ数年、彼女とは恋人同士といえる間柄でした。――正式に婚約や縁談があったわけではありませんが」
「もう恋人ではないのですか」
「――まだ、それに近いものだとは思います。しかし、貴族の恋と婚姻は必ずしも同一のものではないので」
――嘘だ……。
リアナはすでにラセルが自分に別れを告げた本当の理由を悟っている。
彼は法廷にて本当のことをすべて言う気はないようだ。
だが、すべて本当のことを言わなければ、ラセルは有罪になってしまう。
さきほど、敵の代言人が言ったように、異常だとみなされてしまう――。




