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29. まだ彼女が忘れられない

――どうしたらいいのかしら……。


 リアナは湯船につかって考え込んでいた。

 

 ラセルの部屋から数枚の覚え書きを持ち帰り、しばらくまえまでその「暗号」を解読しようとしていたのだが、にっちもさっちもいかない。

 logの計算方法なんてわからないし、日本語の部分も理解不能である。


 そこで、気分転換に風呂に入ることにしたのである。


 リアナは日暮れ前に、素知らぬふりをして地下道から王宮へと戻った。

 侍女たちは、リアナが王宮を抜け出したことにまったく気づいていなかった。いままで素行正しくしていたおかげだろう。


 あの地下道は使えるな、とリアナは思った。

 これから適当な理由をつけて授業をさぼり、しばしば街へと繰り出すことができるかもしれない。


――庭園以外でもラセルとデートができたというのに……。


 王宮を抜け出す王女様、なんておとぎ話のプロトタイプではないか。

 なぜいままで思い付かなかったのだろう。


 いままで、素行よくしていたのは、前世が日本人だったからだろう、とリアナは思う。

 国仲理愛は、信号が赤ならば、車の影や音が皆無であっても、絶対に横断歩道を渡らない人だった。人通りも車通りもない横断歩道のまえで、しっかりと青になるまで待っていたのである。


 横断歩道のない世界に来てみたら、あんな馬鹿らしいことはない。いまではそう思う。


 国仲理愛が横断歩道を渡らなかったのは、お利口な女性でいたかったとか、ルールがどうだとか、そういうのではなかった。

 ただ「赤のときは止まりましょう」と子供のころに散々言われていたので、止まらなければいけないような気がしていただけなのだ。ある種の洗脳であろう。


――洗脳……?


 ふと、リアナは閃いた。


 と思った。が、しっかりと頭で考えようとしたときにはすでに、その内容を忘れてしまっていた。


――なにを……思い付いたんだったか……。


 たしかに、閃いたのだ。


 暗雲の中で光った雷のように、一瞬だけ稲妻模様が見えた。しかし、次の瞬間には、ただもとの暗雲が空を覆っているだけだった。


 光ったことは覚えている。だが、その内容が思い出せない。


 その一瞬、自分は何を考えたのだろう。

 リアナは記憶を辿ってみる。


 洗脳。

 横断歩道。

 赤信号。

 法律。

 ラセル。

 log。

 国仲理愛。

 前世。

 地下道。

 抜け出す。

 王女様。

 プロトタイプ――。



 考えた。

 だが、わからない。



 アイディアは考えようとして思い浮かぶものではない。考えようとして思い付くなら、この世の全員が特許取得者になれる。


 集中しているときにはかどるのは作業であり、アイディアは集中していないときに思い浮かぶ。

 世の中では集中することが大切だと言われるが、一概にそういえるものだろうか。


 集中することが大切なのは、実力を発揮するような試験や試合の間であり、集中しないほうがよいことが人生には多いのではないか。


 授業中に暗記しようと意識しても法律は全然覚えられなかったというのに、ふとラセルやシェリルが言った言葉は覚えている。

 教師の言葉はすぐに忘れてしまうのに、友達や家族との何気ない会話は覚えようとしないのに覚えている。


 昼間、偶然見てしまったラセルの日記に書かれていた数個の単語など、見る気も、覚える気もなかったというのに、覚えてしまっている。


 リアナは大きく息を吐いた。


 そこに書かれていた言葉を思い出すと気が重くなる。




――まだ彼女が忘れられない。




 ラセルの日記にはそう書かれていた。


 「彼女」とはだれなのだろう。


 自分のことであってほしいと思う。

 だが、そうだとすると「まだ」という言葉が引っかかる。


 まだ、彼女が忘れられない。


 その「彼女」はラセルと結ばれていないということだ。

 その「彼女」はラセルのことを愛していないということだ。


 少なくとも、振られた側のリアナのことではない。


 リアナが開いたページは日記の中盤だった。その日記は最後のページまで書かれていたから、ここ最近の出来事でもない。


 ラセルはリアナに別れを告げるよりもずっとまえに、「まだ彼女が忘れられない」と書いていたということになる。


 はあ、とリアナは大きく溜息をつく。浴室の反響によって、溜息にはエコーがかかっていた。


 「彼女」とはだれなのか。


 ラセルはリアナが十五になるまで告白をしてくれなかった。

 四歳の時に出会って、頻繁に会っていたというのに、十年も進展がなかった。


 ラセルには他に好きな人がいたのだろうか。それで、その女性に振られたから、二番手の恋人候補に設定していたリアナで妥協したのだろうか。


 そんな仮説を立てる。

 そして、自分が立てたその仮説に意気消沈する。


 だが、それ以外に、どんな仮説がありうるだろう。


 リアナは考えるのをやめて、リラックスしてみることにした。

 目を閉じ、心地よい湯船に身体をあずけ、意識して大脳を働かせないようにする。


 だれであったか――お風呂でリラックスしているときに名案を思いついた有名な科学者だか数学者だかがいたはずだ――。

 

――アルキメデス……。


 ふと思い出す。幼いころに聞いた話だった。


 彼はなにを思い付いたんだったか――。


――アルキメデスの定理……。


 そんな言葉だけを思い出す。

 定理の内容は忘れてしまっている。


 なにかしらお湯に関係することだった。


 たしか、アルキメデスはその定理を思い付いたとき、『ユリーカ!』と叫んだはずだ。


 ユリーカの意味は知らない。ただユリーカという言葉だけ覚えている。

 本当に記憶というものは気まぐれだ。――馬鹿らしいことばかり覚えている。


 アルキメデス――何人だろう。

 ギリシア人かローマ人だか――。


 この話は前世に聞いたものだ。現世ではない。

 正直、リアナの中では前世の記憶と現世の記憶が混じることがよくあった。子供のころの記憶はとくにそうである。


 この世界ではアルキメデスの定理は発見されているのだろうか。もしそうならば、アルキメデスの定理はこの世界ではなんと呼ばれているのだろう――。


――アルキメデスの定理……。


 リアナはふと動きを止めた。


 アルキメデス。

 数学。

 定理。

 log。

 ギリシア人。

 ローマ人。

 ヨーロッパ。

 イギリス。

 アールグレイ。

 グレイ伯爵。

 log。

 ログ……。



「わかったわ――!」


 リアナは湯船から飛び上がった。

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