28. ラセルの覚書
「ラセルの日記は読まないことにする」
リアナは宣言するように言った。
「覆水盆に返らず、だから」
「え、なに?」
シェリルが首を傾げる。
「ほら、覆水盆に返らずって言うでしょう」
「なにそれ」
シェリルはその言葉を知らないようであった。
「お盆からこぼれた水をお盆に戻すことはできないって意味」
「へえ、まあたしかにそれはそうだけど――」
あたりまえのことだろう、とシェリルは首を傾げる。
「つまり、えっと――、やってしまったことは取り返しがつかない、ってこと。だから、物事を行うまえにはしっかりと考えろ、っていう戒めね」
「ああ、なるほど」
「シェリル、このことわざ知らないの?」
「知らなかった」
「そう」
あるところに夫婦がいて、夫が不甲斐ないから妻は離縁した。しかし、夫が出世したから再婚したいと思ったが、夫は盆の水をこぼして、こう言ったのだ。「覆水を元に戻したら再婚してやろう」
たしか、覆水盆に返らずはこんなストーリーであったはずである。
「読んでしまったら、読んでいないことにはできない。だから、読まない」
そう言い放つリアナに、シェリルはただ黙って頷いた。
次に、書庫を調べることにした。
自然科学の知識に精通しているラセルの書庫は、理系の書物が多いと予想していたが、実際は逆だった。
ほとんどが歴史書や法学書、それに哲学書である。まさに、貴族の家の書庫、というようなコレクションであった。
どの本も古く、先祖から代々伝わっている書物であろうことがうかがえる。
王宮の図書館で見かけたことのある背表紙がいくつもあった。
使用人たちが掃除をしているのだろう。書架の本はほこりひとつ被っていない。
ほこりを被っているものといないものがあったら、ラセルか他のレスク家の人間が直近で参照した書物だとわかったのだが、それも無理だった。
リアナは適当に数冊を手に取って開いてみたが、ざっと見る限りは変哲もない史学書や法学書に見える。法律自体がそうそう大幅改訂されないから、法律そのものも、その解説書や判例集も、どれも似たり寄ったり真新しい内容は記載されていなかった。
リアナが開いて確認した本はすべて活版印刷されたものだったから、珍しい本というわけでもないはずだった。
なにも収穫のないまま、日暮れが近づいていた。
最後に、リアナとシェリルはラセルの書斎を調べることにした。
書斎は、ラセルの勉強部屋として主に使われていたようだ。
領地を持つ貴族といえど、ラセルはまだ学校に通う年だから、執務という執務もないのだろう。
書棚にしまわれているのは、ほとんどが学校の教本だ。シェリルによると、それほど高度なものでもないらしい。
リアナはラセルの机の引き出しを開けた。
そこには、たくさんの紙が入っていた。
紙はいくつかの束にまとめられており、分類はされていた。
紙に書かれた文字はラセルの筆跡だった。
リアナは一番上にあった数十枚の紙の束を手に取った。すうまいをぱらぱらめくる。
きっちりとした字で書かれている。人に読ませるために書かれた文字だった。おそらく学校で提出を求められた課題のようだと察せられた。
その下の束は、覚え書きとして走り書きされたようなもので、アイディアを書き留めただけの読みにくいものだった。
リアナはその紙の束を机の上に広げた。
「うわ、なにこれ!」
シェリルが鼻に皺を寄せた。
紙には数字やアルファベットが羅列されていた。漢字はあまり使われていないが、難解な内容が書かれていることは、見た目から予想されうる。
シェリルが比較的丁寧な字で書かれている一枚を手に取る。
「炭素固定反応は暗反応で三個のシーを持つグリセルアルデヒド三リン酸が生じ、シーオー二から有機物が生成される」
シェリルが紙を読み上げた。
「――あなた、この意味わかって?」
シェリルが怪訝そうな顔をする。
「ううん、わからない」
リアナは首を横に振った。
「よかった、わたしが馬鹿なわけではないのね」
「覆水盆に返らずは知らなかったけどね」
ラセルの走り書きにはたくさんの五角形や六角形が描かれていた。化学式だろうが、リアナにはそれが意味するものはわからない。
酸素をO、炭素をCというふうに簡易表記するのは、この世界でも行われているが、シェリルも学校では習っていないという。
どこまでこの世界の科学の最先端が到達しているか、リアナは知らなかった。普通に生きていたら、元素や粒子について語り合うことはまずない。
現代日本の首相や大臣とて、最先端の科学を理解してはいないだろう。もし理解していたら、政治家になっていない可能性もある。
政治家は政治学や経済学を学び、科学や数学に重点が置かれることはないのは、こちらの世界でも同じでもあるようだ。
ただし、この世界では、原子は発見されていないらしいということは知っていた。
いや、目に見える物質はすべて原子が構成しているから、原子が発見されていない、というのは語弊があるかもしれないが――。
「これ――なにか重要だったりするのかしら?」
シェリルがリアナに質した。
「――重要だったとしても……読めないわね」
リアナは、読んでも意味がわからない、という意味で「読めない」と言った。日本語だから発音はできる。だが、発音ができることは「読める」ことではない。
国仲理愛がそう悟ったのは高校の国語の授業だった。はじめて『山月記』の冒頭を読んだときで、発音できるのに、その意味が理解できなかった。五、六回読んで、やっとなんとなく理解できたものだった。
だが、ラセルの覚え書きは山月記よりも難解に見える。
そもそも読むようなものではないものも多い。
数式だか化学式だかがびっしりと書かれた紙だ。
「なんか、暗号みたいね。このひょろっとした記号とか――」
シェリルが数式の中の『∫』を指さして言う。
「このひょろ長いのとエルオージーって繰り返し書かれてるわね。なにか重要なのかしら」
シェリルは『log』のことを言っていた。
「あ、ログ、ね」
「ログ? ログって読むの? リアナわかるの?」
「いや、わからないけど、読み方だけは」
logは現代日本人だった国仲理愛が断念したものだ。高校の授業でならった記憶はあったが、その記号の意味するものも、使い方も完全に忘れている。
サイン、コサイン、ログ――何のためにあるのかはわからないし、何の単元で習ったのかもわからないが、その響きだけ覚えている――聞き覚えのあるクラシック音楽のようなものだった。
帝王学という名の王族の教育は法学と史学に偏っていたが、この世界の他の貴族の若者も、高度な数学は習わないようである。
教育に関してはトレオンのほうが現代日本ではいいのではないか。そんなことをリアナは思った。
logやsinやcosはもちろん、√ もy=ax+bなんて中学の知識すら、日常生活では一度も使ったことがない。
前世でも現世でも、高度な数学がなくても生きていけた。
そんなもの理解できなくても生きていける。――と思ってからリアナははっと息を呑んだ。
「どうしたの? なにか気づいたの?」
シェリルがリアナの顔を覗き込む。
――理解してはもらえない……。
ラセルはそう言った。
たしかに、リアナはこのラセルの覚え書きが――理解できない。
理解したいのに、理解できない。
リアナは国仲理愛を恨んだ。
彼女がもう少し数学の授業をしっかりと聞いていたら、理解ができたかもしれない。
しっかりと予習復習をすれば理解はできたかもしれない。計算問題を解けるようになったかもしれない。
いや、高校生だった彼女は、授業中に練習問題を解いていたのだ。そして解けていたのだ。
logが何のためにあるのかはわからなかったし、なんで学校でlogの計算の仕方を学ばなくてならないかも理解してはいないかった。だが、logを理解はできていたのだ。
だが、理解できるからといって、logの意義を彼女は理解してはいなかった。
国仲理愛はlogやsinを理解はできても、理解しようとはしなかった。
リアナは、自分が猿だか犬だか鯨だかになってしまったような気がした。そうでなければ、赤ん坊か異国人だ。
きっと彼らも相手を理解したいと思ったことがあるだろう。しかし、どう足掻いても無理なのだ。
――ラセルを理解することができないかもしれない……。
そう直感した。
難解な文章や、数式や化学式――。
学べば理解できるだろう。
だが、学ぼうとするだろうか。
学んで理解できたとして、それを理解するだろうか。
理解できる。
理解される。
理解できるからといって、理解されるとはかぎらない。
理解できるかもしれない。
だが、理解することができるわけではないかもしれない。
――わたしは……なにを考えているのだろう……。
自分が考えていることが複雑すぎて、自分の頭で考えられなくなっている。
リアナは自分の思考に呑まれていくような気がした。
頭が痛くなる。
――わたしは……どうすればいいの……。
国仲理愛はlogがわからなかった。
そして、それを自分の人生には必要がないと切り捨て、なんら困ることなく生きていった。
リアナ王女も、そうするのだろうか。
ラセルへの理解を切り捨てるのだろうか。
国仲理愛がしたように。
難解な本を閉じるように。
リアナ王女もラセルへの理解を切り捨てるのだろうか。




