21. 矛盾という矛盾
「わたしがなにを知らないって言うの?」
リアナはラセルの腕をつかむ手に力を込めた。
爪が彼の肌に食い込んでいる。
だが、振り払われはしなかった。
「教えて」
ラセルの目を食い入るように見つめる。彼はいまにもどこか別の世界に行ってしまいそうな顔をしていた。
「なにか力になれるかもしれない。でも教えてもらえなければ、わからないわ」
ラセルの瞳が自分の姿を映していることが、とんでもなく心地よかった。
彼のことが好きだ。
いや、そんな陳腐な言葉ではこの感情は形容できない。
愛している、でもない。
愛という言葉は大袈裟すぎる。どこか冗談にすら聞こえる。
「愛している」なんて滅多に言わない――それこそ一生言うことがないかもしれない日本人であった前世の自分が、まだリアナの中で生きているからかもしれない。
この感情に値する言葉ななんだろう。
「愛してる」よりも「好き」よりも、それはもっと繊細で、微妙で、温かくて、崇高なものだ。
このラセルへの想いは、そんなものではない。言葉に表せるようなものではない。この想いを表す言葉はない。言葉は無力だ。
「なにがあっても、わたしはあなたの味方だから」
言葉にできなから、代わりにそう言う。
「なにがあっても――あなたが病んでいても、罪を犯しても、人を殺しても、それにたとえ――」
――別れを告げられても。
その言葉はリアナの口から出ては来なかった。
だが、不思議とそれがラセルに伝わっているとリアナは確信していた。
突然、リアナの身体がまえに引き寄せられた。
頬が硬い胸板に押しつけられる。
温かさを感じた。――と同時に、一縷の光も届かない深い海のそこにいるかのように全身が締め付けられた。
「リア」
声の主の胸の奥底でその名が震えた。
リアナはたくましい身体に自分の腕を回す。
そして、彼に負けないくらい、強く、硬く、抱きしめ返す。
「リア」
再び自分の名が呟かれるのを聞いて、リアナは泣きたくなった。
悲しくはないはずなのに。なぜかとても泣きたい。
嬉しいのか。
彼が裁きにかけられようとしているのに。
矛盾だ。
だが、矛盾することが正しい。
そんな気がした。
愛する者を憎むことがあるように。
闇がなければ光が映えないように。
矛盾は矛盾している。
だが、矛盾が間違いであるとはかぎらない。
ラセルが身体を離しかけた。
リアナはもう少し抱きしめ合っていたくて、ラセルに回した腕に力を込める――。
唇に温かいものが触れた。
いつぶりだろう。
思いだそうとしたが、頭が真っ白になった。
魂が震わされているような気がする。
すべてがどうでもよい。
この温かさだけがあれば、ほかになにもいらない。
ふいにラセルが唇を離した。
「たとえ死んだとしても――」
ラセルが呟いた。
――たとえ、死んだとしても……?
何なのだろう、と質そうとしたが、そのまえに再び唇を塞がれる。
その接吻に魂から溶かされて、なにも考えられなくなった。
*
立ちっぱなしで足が疲れるほど抱き合ったあと、ふたりは客間のソファに移った。
お互い、離れるのがもどかしくて、腕の半分は相手の身体に回していた。
ふと、昔の出来事を思い出して、ラセルの腕の中でリアナはくすっと笑ってしまった。
「なんだ」
ラセルが怪訝そうな声が斜め上から降ってくる。
「ラセルがキスしてくれるまで、長く待たされたな、と思って」
「なんのことだ」
「十五の誕生日のときのこと。わたし、ずっとラセルのことを好きだったのに、ラセルったらキスのひとつもしてくれないんだから」
ラセルと正式に気持ちを確かめ合ったのはリアナの十五の生誕祭だった。
ラセルにプレゼントをあげると言われて、人気のないところまで連れて行かれ、キスをされた。十年来の恋が実った瞬間だった。
「あの日まで、ラセルはわたしのこと好きじゃないのではないかって、ずっと悩んでいたわ」
あのとき、やっと気持ちが通じ合えたと安堵を感じたものだ。達成感と言ってもよい。
いまも、あのときと同じような感情が込み上げてきていた。
「ねえ、ラセル、教えて」
リアナは切り出したかったことを言うことにした。
「わたしがなにを知らないというの? どうして、わたしたちは結ばれる定めでない、なんて言ったの?」
ラセルの腕に力が入ったのをリアナは感じた。
彼がまだリアナのことを想ってくれているということはわかった。
だが、彼の行動は不可解すぎる。
「わたし、そんなに信用されていないの」
「いや」
ラセルが曖昧に呟いた。
「毒が売っていたことが明るみになったときに、わたしが困らないように、別れを告げたのではないの?」
「いや」
ラセルが繰り返した。
いや――何なのだろう、その続きが知りたいとリアナは思う。
「言えないことなの?」
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
「言えない」
ラセルは遂にそう言った。
「どうして言えないのか――理由を聞いてもいいかしら」
「理解されないだろうから」
ラセルは辛そうに眉根を寄せると、再び両手でリアナを抱きしめた。
「でも、理解できるかできないかは聞いてみないとわからないわ」
ラセルの肺が大きく揺れた。彼が深く息を吸ったのだとわかる。
「理解できないとは言ってない。理解されない、と言ったのだ」
「それって、同じではないの」
日本語は難しいなとリアナは思う。
「教えたからといって、誰かにわかってもらえるわけではない」
ラセルが感情の籠もらない声で言った。
「そうかしら。教えてもらわなくてはわからないわ」
リアナは食い下がる。
「人に教えることなどできない」
「どんな秘密であっても、わたしはだれにも言わない。信じて、ラセル――」
「違う」
眉根を寄せてラセルが言う。
「人が人になにかを教えることなどできやしない、と言っているんだ」
教える、という言葉をラセルは強調した。
「どういう意味?」
「教師が教えたからといって、生徒がそれを理解するとは限らない。猿にいくら数学を教えても、理解はしないだろう」
「わたしが猿だって言いたいの」
リアナの語気に力がこもる。
「それは、あなたほど頭がいいわけではないかもしれないけどーー」
「そうではない」
ラセルが言葉を割り込ませる。
「受け取る側にその姿勢がなければ、他人が他人に何かを教えることは不可能だと言っているのだ。人は猿には教えられないし、猿が人にも教えられない。せいぜいうわべの意思疎通ができるように見えるだけ」
「ーー」
「教師が数学を教えたからといって、生徒が数学ができるようになりはしない。生徒が無能だと言っているのではない。どんな優秀な生徒でも、学ぼうとしなければ学べない」
「つまり、ラセルが教えても、わたしの側が受け取れない、そういうこと?」
ラセルは沈黙した。その沈黙は肯定だろうか、否定だろうか。
「でも、教えてもらわなければ、わかるかわからないかもわからないわ」
リアナは掴んでいるラセルの腕に力を込めた。
「――すべてが可逆可能な世界ならばそうするだろう。だが、この世界は不可逆だ」
ラセルの言っていることの意味がリアナにはわからない。
「一度、拡散してしまったら、その可逆反応おこらない。エントロピーは増大しつづける。逆はない」
「――その……もう少し、簡単に説明して」
リアナが言うと、ラセルが悲しそうな顔をした。
――教えてもらってもわからない……。
リアナははっとした。こういうことか。
ラセルはいま、リアナに彼の言葉が通じないことを証明したというのか。だから、故意に難しい言葉を使ったというのか。
「覆水盆に返らず、だな」
ラセルは窓の外を見ながら、独り言のように言った。
――つまり……。
「言ってしまったら、言わなかったことにはできない、っていうこと?」
リアナが言うと、ラセルは意外そうな顔をしてリアナに視線を向けた。
「ラセルがわたしにそれを言って、そして、わたしがそれを理解できなかったときは、どうしようもないっていうことが言いたかったのね」
可逆反応だかアンタロピーだかなんだかという難しい言葉を使っていたが、なんとなくラセルが言いたかったことがわかったような気がした。
ラセルは驚いていた。怪訝そうにもみえる。
だが、なにに対して驚いているのか、リアナには定かではなかった。
「とりあえず、あなたに人には言えないことがあるのはわかったわ。お父上やお母上は知っているの?」
ラセルは無言で首を横に振る。
「だれにも話していないの?」
またラセルは首を横に振った。
これは「話していない」ことを否定しているのか、「話す」というその事象そのものを全否定しているのか――どちらなのかがわかりづらかった。だが、おそらく後者なのだろうと判断する。英語の否定疑問文の答え方と同じパターンのほうだ。
「なにか悪いことをしたの?」
犯罪を犯した人間はそれを他人に言えないものだ。そうリアナは考えた。
「法を犯してはいないはずだ。――薬を売ったこと以外には」
「なら――」
特異な性癖でもあるのだろうか――なんて思ったが言わないことにする。
ほかにどんな可能性があるだろうか。
けっして人に言えないこと。恋人にすら言えないこと。そんなものがこの世にあるだろうか。
ラセルは辛そうに眉根を寄せていた。
だれにも言えない秘密を持つことはどれほど辛いだろうとリアナは想像する。
しばらくしてラセルはリアナを抱いている腕をほどき、リアナの顔を正面から見つめた。
「いつか言える日がくるかもしれない。でも、いまは――まだ言えない」
「そのいつかは、いつ来るの?」
ラセルは答えなかった。




